デヴィッド・フィンチャー監督の『ソーシャル・ネットワーク』は、20020年10月に公開から10年を迎えました。フェイスブックの創業者であるマーク・ザッカーバーグ氏に始まり、フェイスブックという怪物の背後にあるエゴとテクノロジーの魅惑的な力を具に描いた、先見の明に満ちた作品でした。

 現在ではInstagram(インスタグラム)WhatsApp(ワッツアップ)も所有しているソーシャルメディア界の巨人は、もはやフェイクニュースや陰謀論が流れ出す巣窟として広く認識されています。そのフィードは、もはや制御不可能と言ってもいいかもしれません(ザッカーバーグ氏には、そんなつもりはないかもしれませんが…)。

 この映画が公開されたのは、フェイスブックの数々のスキャンダルが公になる以前のこと。つまり、脚本家のアーロン・ソーキン氏とフィンチャー監督は、それらそこにある問題点が世に知れ渡る前から、ザッカーバーグ氏のある種の無関心な気質を描き出していたというわけです。

 2010年の公開当時、フィンチャー監督は「変わらないキャラクターが好きなんです。間違いから何も学ばないような…」と語っていました。その通り…その後のザッカーバーグ氏は、フィンチャー監督が描いたキャラクターと全く同じように、自らの間違いから学ぶことを拒否している男のようにも思えるのです。

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Sony Pictures
映画『ソーシャル・ネットワーク』で、マーク・ザッカーバーグ役を演じたジェシー・アイゼンバーグ。

 とは言え、『ソーシャル・ネットワーク』で最も先見の明があった要素は、この映画が後にオンライン上で顕在化する、抑圧された男たちの怒りを見事に捉えていたということでしょう。

 それ以前にフィンチャー監督は、1999年公開の『ファイト・クラブ』で反社会的な男たちの怒りを描きましたが、『ソーシャル・ネットワーク』でもこれと同様に怒りに迫ろうとしたことが読み解くことができます。そこで次に『ファイト・クラブ』の話をしましょう。2019年に公開20周年を迎えた『ファイト・クラブ』は、チャック・パラニューク氏の同名小説を映画化したものです。そして、怒りを生で実感できる手法として、殴り合いの集会に参加する男たちを描いたフィクションになります。

 パラニューク氏はこれまで、「ファイト・クラブはどこに存在しているか?」と多くの男性から尋ねられたと言います。そんな問いを投げかける者たちは、映画内に登場する「ファイト・クラブ」が実在していると思い込み、そして、そこに深い真実を見い出しているのです。ある者はそのクラブに感心を抱き、そして、ある者はそんなクラブは撤廃しなくてはならない…と考えていたのでしょう。そんなエピソードからも、彼らがつくり出したフィクションが、偉大な力を発揮したことを証明するものと言えるのです。

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20th Century Fox/ Sony Pictures

 『ファイト・クラブ』の中では、商業主義や果たせなかったアメリカンドリームへの風刺が示され、社会的な力を持たない男たちが暴力を通じて仲間意識を築き上げていきます。

 当然ながらこの物語は、男性のエゴや虚勢(きょせい=みせかけの威勢の意味)を端的に表現するために誇張された物語なのです。上半身裸の最強男タイラー・ダーデンは、主人公であるナレーターの心に隠された空想の肉体と骨の化身であり、主人公そのものと言えるでしょう。

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20th Century Studios
映画『ファイト・クラブ』で、エドワード・ノートンが演じる主人公が出張途中の機内で知り合い石鹸の行商人タイラー・ダーデンを演じるブラッド・ピット。

 ではここで、この2本の映画を俯瞰で観てみましょう。映画『ファイト・クラブ』から『ソーシャル・ネットワーク』までの10年の間に、世に隆盛を誇るようになったインターネットでは、言わば怒れる若者たちが毎晩闘うボクシングリングのようなものではないでしょうか…。それはさまざまな、フォーラムやスレッドで繰り広げられています。SNSの登場によって人々は、匿名で赤の他人をバッシングしたりするなど、日々のうっぷんを晴らすことを可能となったのです。

 つまりこの2本の映画は、“男らしさという概念”が短期間でどのように進化(いや“変化”と言ったほうがふさわしいかも…)していったかを示す興味深いシンボルと言えます。どちらも怒れる男たちへ1つのアンチヒーロー像を提示し、男性の怒りが反社会的な方向へと進むプロセスを描いているのです。

 『ファイト・クラブ』は公開当初、評価は平凡で興行成績も振るいませんでした。ですが、インセル(Involuntary celibateの混成語。「不本意の禁欲主義者」、「非自発的独身者」と訳され、いわゆる「非モテ男性」)たちのバイブルとなったことで、この映画の重要性は近年ますます高まっています。パラニューク氏は最近のインタビューの中でこのことについて、「男性の持つメタファー(比喩表現のひとつで、隠喩のこと)がいかに少ないかを示している」とし、「そこには、映画『ファイト・クラブ』と『マトリックス』しかない」と指摘しています。『ファイト・クラブ』はそもそも、抑圧された男たちの怒りに関する警告を意図したものでしたが、この作品はその後、社会に反抗し、何かを感じる手段としての暴力を称賛する男たちのためのハウツーガイドとして誤読されてきたのです…。

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Sony Pictures
フィンチャー監督は映画『ソーシャル・ネットワーク』でマーク・ザッカーバーグに焦点を当てた理由について、「変わらないキャラクターが好きなんです」と答えています。

 とは言え、フィンチャー監督が映画『ソーシャル・ネットワーク』で同様のテーマに取り組むことがなければ、『ファイト・クラブ』がこれほど新たな関心を集めることもなかったでしょう。フェイスブック黎明期(れいめいき)を描いた『ソーシャル・ネットワーク』は、クラスメイトへの嫉妬心や自分を振ったガールフレンドへの復讐心に突き動かされ、1つの帝国を築いたある男を描いているわけです。

 このフェイスブックのオリジンストーリーの中で、反社会的な男たちの代表であり、混沌とした最強の男タイラー・ダーデンに代わって登場するのは、オンラインで攻撃的な発言を繰り返す「ネット弁慶」な男マーク・ザッカーバーグなわけです。

 ザッカーバーグは自らの大学の女性をランク付けするために思いついたウェブサイト上に、元カノの悪口を並べ立てます。そして、それらの情報によって自分を信じたクラスメイトたちを、「大馬鹿」と罵(ののし)るのですから…。

これはpollの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。

 『ソーシャル・ネットワーク』以降、フェイスブックは人種差別主義者やミソジニスト(女性嫌悪者)のさらなる巣窟と化し、社会はイカサマの幻想だという『ファイト・クラブ』的な思想に満ちた「QAnon(Qアノン)」(極右の保守主義者が唱えている、「トランプ大統領が悪と闘っている」とする陰謀論およびそれを支持する集団)のようなものも生み出してきました。

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『ファイト・クラブ』の陰気な主人公(語り手)を演じるエドワード・ノートン。

 『ソーシャル・ネットワーク』は、『ファイト・クラブ』とは違ったカタチで社会に訴えかける映画ですが、どちらも社会に無用のものとして扱われてきた男たちが怒声を上げるという点では、共通しているように思えます。ザッカーバーグは「アルファ(最強)」というより「ベータ(2番目のもの)」に位置づけられる男性かもしれません。ですが、いずれにしても大富豪になった男であり、自分を仲間外れにした奴らや自分を振った女性を憎む存在なのです。

 『ファイト・クラブ』の主人公である名もなき語り手は、「自分が手にできなかったあらゆる美しいものを壊したい」と願いましたが、『ソーシャル・ネットワーク』のザッカーバーグも同様の憎しみの感情を抱いていると言っていいでしょう。『ファイト・クラブ』公開から20年が経った今、このフィンチャー監督作品の精神が『ジョーカー』に受け継がれていると多くの人が指摘しています。

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 トッド・フィリップス監督によるこの映画『ジョーカー』は、社会への怒りとフラストレーションが爆発して暴力行為に至るという点で、『ファイト・クラブ』から真っすぐにつながるものと言えるのです。この作品は主人公が現状に対し、『ファイト・クラブ』とは別の角度から暴力と憎しみを持って反抗した物語でした。

 『ジョーカー』に対して、非難の声が上がるのは必然でした。ですが、フィリップス監督はこの映画のリアルな暴力描写について、「責任ある方法」と語ります。そして、「暴力を美化するつもりなどなかった」とも誓っています。ですが実際には、映画『ジョーカー』はフェイスブックの怒れる若者たちに届いた途端、フィリップス監督はこの物語の真意をコントロールする術を失ってしまったのは事実です。

 そしてこの責任の一端も、マーク・ザッカーバーグにもあると言えるのです…。

Source / Esquire UK
Translation / Wataru Nakamura
※この翻訳は抄訳です。