※この記事は、「東洋経済オンライン」(東洋経済新報社)が2020年6月23日に掲載した記事の転載です。


 北朝鮮と韓国の間で緊張が高まるにつれ、金正恩朝鮮労働党委員長の妹、金与正の役割に注目が集まっている。韓国に対する意地悪く、挑発的な攻撃の顔として浮上している。

 かつては韓国に対する北朝鮮の「微笑み外交」の象徴であった金与正だが、今では韓国の文在寅大統領をうならせるような口調で非難している。最近の公の場での発言では、金与正は軍事力を発揮して南を脅し、2年以上の南北関係の象徴を文字どおり破壊する用意があると主張している。

 金正恩の発言は、ほとんど見えないところで行われているため、彼の健康状態をめぐる臆測は今も続いている。しかし、北朝鮮の内部をより深く観察すると、この新たな危機の背後にある別の犯人、新型コロナウイルスが浮かび上がってきた。 

◇韓国に「助け」を求めている

 北朝鮮経済は、すでに国際的な制裁によるダメージを受けていたが、中国からのウイルス拡散を防ぐために国を封鎖したことでさらに厳しい状況に陥っている。

 この経済的苦境は、金政権にとって国民をコントロールするうえでのさらなる足かせとなっている。そして、これによって外部からの支援がかつてないほど必要になっているのだ。

 挑発行動を行っている背景には、韓国政府に「アメリカ主導の制裁体制からの脱却」を促す意図があると、韓国に駐屯するアメリカ人政府高官は語る。

 同氏によると、「北朝鮮政府は韓国政府が(北に)資金を送ることができるような法律を作ることを望んでいる」。つまり、国際的な制裁を回避して北朝鮮との貿易や同国への投資に関する制限を撤廃するよう求めているというのだ。

新型コロナの深刻な影響

 北朝鮮経済は昨年も厳しい状況にあったが、中国とロシアの公式、そして制裁を逃れるための非公式の貿易、そして市場の役割が大きくなっていることもあって、管理できる状況にあった。

 「全体的な状況は、過去数年に比べて緩やかに改善している」と、北朝鮮を定期的に訪れている欧米の支援機関職員は昨年末報告している。

 「これは人々が市場を通じてお金を得られるようになったこともあって、生き残ろうとしていることを反映している」。

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KCNA via REUTERS

◇国境封鎖で経済が大打撃

 こうした中、新型コロナが発生した。

 北朝鮮政府は過去にSARSとエボラの流行を経験している、と北朝鮮の医療システムに詳しい支援機関の職員は話す。それもあって、北朝鮮は1月21日に中国との国境を封鎖、中国側もこれに続いた。アメリカの関係者によると、密輸活動を取り締まるために、朝鮮人民軍の追加部隊が国境に配備された。

 「北朝鮮には選択の余地はなかった」とこの関係者は話す。「政府は何が起こるかわかっていて、そうするよりほかなかった。自国の医療システムの脆弱さをわかっているからだ」。

 国境封鎖によって観光客の流入やお金の流れは止まり、中国からのわずかな投資もなくなり、公式・非公式の貿易も消滅した。

 ほぼ一夜にして中国から北朝鮮への輸出はほとんどなくなり、北朝鮮から中国への公式輸出もほぼゼロになった。一部の密輸は続いているようだが、政治アナリストは国境封鎖がこれにも影響していると見ている。要するに、中国からの資金の流れは完全に尽きた、ということだ。

 ウイルスによる景気後退は、経済における国営部門がすでにシステム崩壊に直面しているところに起きた。「北朝鮮の計画制度はすでに崩壊している」と、元中央情報局(CIA)アナリストで、北朝鮮と中国経済を専門とするウィリアム・ブラウンは言う。

 同氏によると、北朝鮮は今年で終了する5年計画に代わる新たな5年計画については言及していない。北朝鮮経済における重要な事業――主に鉄鋼やその他の主要商品を生産する大規模な国営企業――は、依然計画制度にのっとって製品を生産してそれを配給し、労働者に対しては賃金を支払っている。

北朝鮮17年ぶりに国債発行するワケ

 金正恩は昨年、アメリカのトランプ大統領とのベトナム・ハノイでの2度目の首脳会談で制裁解除を試みたがこれに失敗、これがアメリカによる北朝鮮政策の見直しにつながった。

 2019年の大きな政策転換で、北朝鮮指導部はかつて彼らのイデオロギーの合言葉であった「自立」の必要性を再強調した。今では、「自立とは、国家ではなく自分自身が自立することを意味する 」とブラウンは話す。

 北朝鮮政権のアキレス腱は金融政策である、とブラウンは指摘する。制御不能なインフレのおそれがあったため、金融引き締めを行っており、ウォンの印刷を制限してきた。

◇企業に「自立」を求めるように

 このおかげで、為替レートはここ5年ほど安定しており、流通している通貨の使用も増えた。一方、国が国営企業に資金を投入できなくなっており、ブラウンによると、「政府は鉄鋼企業などに対して、“自立”を求めるようになっている」。

 観光や貿易、通貨の流れがなくなったことを受けて政府は4月半ば、17年ぶりに国債を発行すると発表した。国債は、平壌の大規模な新病院建設などの国家プロジェクトを遂行するために必要な資材を工場に支払うための現金の代わりに使われることになっていた。

 これにはまた、個人や企業がドルなどの現金をため込んでいたものを、債券と引き替えに現金化させる狙いもあった。

 この決定は非常に不評で、政府は抵抗勢力を取り締まっている。亡命者のネットワークを駆使するデイリーNKの報道によると、鉱山会社の取締役が会議で国債発行を批判したとして国家保安部に逮捕され、処刑された。

 また、北朝鮮当局は4月、民間業者に対し、多額の外貨を政権に渡し、承認されたリストから輸入し、その半分を政府に渡す必要がある場合に限り、活動を再開できると伝えたと報じられている。密輸業者は、収益性の高い電化製品から離れ、基本的な食料品に集中するように命じられた。ラジオ・フリー・アジアが5月11日に報じたところによると、国家はほとんどの取引に外貨の使用を禁止した。

 6月6日と7日に金正恩氏が議長を務めた朝鮮労働党幹部会議では、経済状況に焦点が当てられた。肥料を中心とした化学工業を「自立」ベースで早急に再構築する必要性が議題のトップに挙げられた。

 制裁と国境封鎖により、「農家は肥料、プラスチックシート、スペアパーツ、燃料、トラクターはもちろん、必要な投入物を手に入れることができない」と、この1年間、平壌以外の地域にも足を運んできた支援機関職員は報告する。「北朝鮮は困難な時代に向かっている」。

計算されている「挑発」行為

 この時期になると、前回の収穫分の在庫が枯渇し、生鮮食料が不足するため、食料の供給がつねに不足している。「とくに農業が容易ではない遠隔地に住んでいる人たちにとっては非常に厳しい状況だ」と職員は話す。

 「春と夏はいつも厳しい。貿易は今、ほぼ停止状態にあり、貨物は検疫の影響が出ている。内陸移送に必要なガソリンも足りない。こうしたことすべてが、ますます政権に圧力をかけている」(支援機関職員)。 

◇アメリカからの脱却迫る金政権

 6月の政治局会議での第2項目は、同じように 「首都の生活条件の確保という当面の問題 」を物語っていた。 これは、平壌に住む中核的なエリートたちの忠誠心を得るために欠かせない物資の流れを、政権が維持するのに苦労していることの表れである。

 昨年のハノイでの失敗以降、北朝鮮政府はアメリカから独立して行動できない韓国政府を批判したが、今回の攻撃は、文政権と与党進歩党への強要の試みを明確にステップアップさせたものである。

 「南北合意が実施の一歩さえ踏み出せなかったのは、親米派の縄で縛られていたからだ」と金与正は6月17日の声明で書いている。

 文政権が北に財政を開放する準備ができているかどうかは、まだわからない。これまでのところ、北朝鮮の動きは挑発が過ぎないよう慎重に調整されてきている。南北共同連絡事務所を爆破するという最初のステップは、北朝鮮の領土内で行われた。国境地域の非武装化の進展を解体するという脅迫的な動きでさえ、米軍や国連軍司令部の部隊に直接触れることはない。

 「彼らはこれで時間稼ぎをするつもりだ」とアメリカの政府当局者は見る。

 「これがすぐにエスカレートするような衝動性は感じられない。金政権は一線を越えるかもしれないが、彼らが合理的に考えているのであれば、何か行動を起こした後に文政権がどう反応するか確認し、それから再び圧力をかける」。

 一方、北朝鮮国内においては「未解決の内戦」という名の下の締め付けにうんざりしている国民にとって真の答えが得られない体制への反感がさらに強まることは避けられない。


ダニエル・スナイダー(スタンフォード大学講師)
…スタンフォード大学ショレンスタインアジア太平洋研究センター(APARC)研究副主幹を務めている。クリスチャン・サイエンス・ モニター紙の東京支局長・モスクワ支局長、サンノゼ・マーキュリー・ニュース紙の編集者・コラムニストなど、ジャーナリストとして長年の経験を積み、現職に至る。