指定された場所に向かうと、そこはとてものどかな住宅街だった。世界の時計ファンを唸らせる時計が生みだされる所と身構えていたのが拍子抜けするほど、至極普通の穏やかな街並だ。出迎えてくれた菊野氏は、爽やかで涼しげな印象で、落ち着いた雰囲気に包まれていた。そして、案内されたアトリエは、文字通り、時計を生みだすための空間だった。
こぢんまりとした空間に、所狭しと置かれた机や作業台。あらゆるスペースは、金属を加工するための機械、顕微鏡のような器具、大小の工具など、時計を生みだすための道具で埋め尽くされている。そこは、まるで整然とした理系の研究室と、非整然とした町工場が一体になったような独特な雰囲気だ。壁際には、彼の趣味でもあるこだわりのカメラや、自ら撮ったというセンスの良いモノクロ写真が飾られ、ある種の大人の秘密基地といった風情すらある。
作品を見せてもらった。金属を重ねて打ち、木目のような模様をうむ木目金を使ったフェイスに、折り鶴。パタパタと羽をならし回転する鶴が、時間を告げる。静謐なアトリエに、繊細ながらも確かな音が響き渡る。「チクタク、チクタク……」 菊野氏によって命を吹き込まれた時計達の鼓動だ。 彼の時計のこだわりは、その徹底した手仕事にある。フェイス面のデザイン。小さいムーブメント。歯車にリュウズ。微細なネジからバックルの留め具。驚嘆に値するのは、ベルトの革とガラス以外、少なくとも表面に見える範囲は何から何まで全て手作りだという。例えて言えば、パンを作るために小麦やバターまで作るような、それくらい果てしない作業だ。
直径30ミリという小さな世界に新たな「時」を生みだす、若き匠。彼が時計を作るきっかけは何だったのか。その原点をたどってみたら、全く意外な所で時計と出会っていた。それは、高校を出てから入隊した自衛隊だった。