ニール・ヤングが500ページを超える自伝(邦題『ニール・ヤング自伝I』『ニール・ヤング自伝II』)を出版したのは、2012年のことでした。そしてそのわずか数年後、今度は400ページほどの回顧録を出版します。もしかしたら、自伝では存分に語り尽くせなかった自身の車遍歴についても、書いておかねばならないと気づいたのかもしれません。ちなみに日本では、『ニール・ヤング 回想』というタイトルで2019年に出版されています。

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車好きとして知られるヤング。彼が乗り継いできた数十台もの車ですが、失礼を承知で言わしていただくと、どれもこれもポンコツばかりです。唯一の例外が、やかましく複雑怪奇なシトロエン「SM」(ちなみに愛称は「ひねくれ者」)ですが、「マリファナでぶっ飛んだ頭ではまともに走らせることもできない車だった」と、自ら打ち明けています。

彼は車に語りかけ、車は彼に語りかけます。ジョイントの煙を吸い込みながら、古い大型クルーザーでレッドウッドの森を走り回っては、その車が生まれた当時のような気分に浸る。それが「長年の趣味だった」と言います。

好みの車は霊柩車!?

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Aaron Rapoport//Getty Images
Neil Young sitting on bumper on 1950s Cadillac (Photo by Aaron Rapoport/Corbis via Getty Images)

1950年前後の葬儀屋を除けば、これほど多くのミッドセンチュリーの霊柩車に乗ったことのある人はほとんどいないはずです。ヤングはビュイック、ポンティアック、パッカード、そしてまたビュイックと4台所有していたのです。そのうちの2台は、「Mortimer Hearseburg(モーティマー・ハーズバーグ)1号・2号」と名づけられ、彼の人生にとって大きな役割を果たしました。もちろん最後の1台に関しては、まだまだ続きがあるようです…。

ヤングがバラードの名曲『Long May You Run(太陽への旅路)』(1976年9月リリース。ニール・ヤングとスティヴン・スティルスの夢が実現した、完璧なまでのコラボレーションアルバムと同名の曲)を書いたのは、知り合いの女性についてではなく、「モーティマー・ハーズバーグ1号」、通称「モート」に捧げられた曲だったのです。「ヤングにとっての最高傑作」と言いたいところですが、特に世間的な大人気を得た曲ではありません。どこか惚(とぼ)けたような面白味があり、喪失の虚しさを歌った真に愛すべき一曲と言えるでしょう。

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
Neil Young - Long May You Run (unplugged)
Neil Young - Long May You Run (unplugged) thumnail
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少しカレンダーを戻してみましょう。

高校を中退した後にヤングは、母親から150ドルを借りて中古の霊柩車を購入しました。病弱だった少年時代、そして神経質で人見知りな思春期を経て、カリスマ性と気まぐれに満ちた青年期へと成長しました。「人混みを恐れ、スーパーマーケットに行くことを考えるだけでも不安に襲われるほど不安定だった」と言います。

決して安定することのない気分はまるで天気のように移ろいやすく、予測することも不可能でした。緊張が高まると恐怖心に襲われ、「大事な場面から何度も何度も逃げ出した」と振り返ってもいます。やがて、それが習い性(習慣は続けているうちに、その人の生来の性であるかのように身につくもの…という意)となり、ついに人前に姿を現さなくなったほどです。彼のことを理解できる人など、そう多くはいませんでした。

そうしてヤングは、「モート」と出会います。するとすぐに、それはヤングのアイデンティティの重要な一部となりました。「バンドと車。それだけだった」と彼は自らを振り返ります。が、バンド仲間はライブ会場までの200マイル(約320キロ)もの道程を、後部座席で文字通り「死人のように」転がって過ごさねばなりませんでした。なぜなら、まっすぐ座ることができなかったのです。

彼の車への愛情は極めて深く、「モート」がついに動かなくなったとき、ヤングの落ち込みようは筆舌に尽くし難いものだったそうです。車を失った彼は、「自分が何者であるのか?」すら見失ってしまったのです。まるで拳銃を失くしてしまったロイ・ロジャース(編集注::ウエスタン・ミュージックの大御所であり、数々の西部劇にも俳優として出演)かのように…。

1953年式のポンティアックで西海岸へ

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Michael Ochs Archives//Getty Images
Rock musician Neil Young of of Buffalo Springfield outside his house on October 30, 1967 in Malibu, California.

間もなくヤングは、新たな霊柩車「モート2」(1953年式ポンティアック)を手に入れると、ロックスターとなるためにロサンゼルスを目指しました。そのとき、故郷であるカナダのトロントを離れることは誰にも告げてはいません。「偉大なるカナディアンドリームとは、外に出ることさ」と、後日になって『ローリング・ストーン誌』のインタビューに応えています。そして、その「モート」を手荒く運転する友人を彼は許さなかったそうです。

やがて、ロサンゼルスに到着するヤング。その街でヤングの霊柩車が信号待ちしているところに目を留めたのが、後の親友であり畏友(いゆう=尊敬する友人)となった…そして、バンド仲間となるスティーヴン・スティルスだったのです。二人は数年前に、既にカナダで出会ってはいました。「オンタリオ州のナンバーを目にした彼が、俺の車だと気づいたんだ。とにかく知ってる奴と再会ができて、ほんとにうれしかったもんさ」とヤングは語っています。

こうして1969年に、彼の人生における最大の音楽的パートナーとの関係がクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(CSN&Y)としてスタートしたわけです。同年8月にはウッドストック・フェスティバルへの参加し、翌1970年のアルバム「Deja Vu(デジャ・ヴ)」の爆発的ヒットなどにより、商業的にも知名度の点でもCSN&Yは頂点を極めました。ですが、これは最も厄介なものの1つでもありました。

彼らは一緒に演奏することが好きでした。が、それ以外のことはあまりよくなかったのです。リンダ・マッカートニーは「チョークとチーズのようだった」と語っています。そして10年後、「Long May You Run」は、険悪な雰囲気で中断されたCSNYのセッションからスティルスとともに救い出した、曲調は良いが精彩を欠く作品集のタイトル曲となった。その後のツアーの途中で、ヤングはまたしても姿を消すことになった。少なくとも今回は、電報を送るほど思慮深かった。「親愛なるスティーブン」、「自然発生的に始まったことが、そのように終わるのはおかしい。桃でも食ってろ、ニール"

そうして1969年に、彼の人生における最大の音楽的パートナーとの関係がクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(CSN&Y)としてスタートしたわけです。同年8月にはウッドストック・フェスティバルへの参加し、翌1970年のアルバム「Deja Vu(デジャ・ヴ)」の爆発的ヒットなどにより、商業的にも知名度の点でもCSN&Yは頂点を極めました。しかし、バッファロー・スプリングフィールド時代(1966年4月~1968年5月まで、スティーヴン・スティルス、リッチー・フューレイ、ブルース・パーマー、デューイ・マーティン、そしてニール・ヤングで結成していたロックバンド)以来のスティルスとヤングの対立などのため、結局、ヤングがこのグループに在籍にしたのは1年ほどでした。

しかし1976年前半には、スティルスとヤングは和解に達します。そして、「10年前に結成したバッファロー・スプリングフィールド時代のギターの探求を再開したい」という2人の願いから、共同アルバムのプロジェクトを開始。ボツになった楽曲の中からタイトルチューンとなった『Long May You Run(太陽への旅路)』を含むいくつもの曲が、ヤングとスティルスによって再発掘され、レコーディングされたのです。

しかし、ヤングの失踪癖がまた顔を覗かせます。それは、このアルバムツアーの最中でした。しかし、その頃のヤングはどうやら電報を打つくらいの分別を身につけていたようです。「Dear Stephen(親愛なるスティーヴン)」という書き出しもありました。その後、「it read, “funny how some things that start spontaneously end that way. Eat a peach, Neil.(自然発生的に起きた何かが、また同じように終わりを迎えるなんて面白いことだな、桃でも食ってな。ニールより)」とつづられています。

ちなみに、ここでヤングが引用した「Eat a Peach(イート・ア・ピーチ)」とは、オールマン・ブラザーズ・バンドの1972年の通算4作目となるアルバムタイトルでもあります。当時、当時の若者たちの間で、「リラックスして、楽しく過ごそう」という意味で使われていました。その後、より広い意味合いで、「人生を楽しみ、心配をせずに過ごす」という意味で使われるようになりました。

枯れることのない霊柩車への愛

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Michael Ochs Archives//Getty Images
ジム・ジャームッシュと写るニール・ヤング(右)。ジム・ジャームッシュは、当時ヤングが活動していたバンド「ニール・ヤング・ウィズ・クレイジーホース」の1996年のツアーをベースにしたドキュメンタリーフィルム『Year of the Horse(イヤー・オブ・ザ・ホース)』の監督を務めていました。

その先のヤングの人生には、何十台、何百台の車が登場します。ユニークな車であれば買い求め、コンディションは気にしませんでした。1950年式パッカード「クリッパー」など、ほとんど使い物にならない車もありました。ですが、あのボンネットに惹かれ、つい手が伸びてしまったのです。「そんなことをするたびに、奇妙な気分に陥った」と、彼は振り返っています。「車とは自らの持つ病理ではないか?」と、そんなことさえ疑ったほどでした。例えそうであったとしても、彼が変わることなどなかったでしょう。

もちろん、新たな「霊柩車」もコレクションに加わります。1948年式のビュイック「ロードマスター」です。呼び名こそつけられませんでしたが、あの初代「モート」と瓜二つの1台でした。近年、何台もの車を手放しているヤングですが、この「ロードマスター」は大切に手元に置かれたままです。「もしまた霊柩車が必要となる日が来れば、コイツの準備に取り掛かるつもりだ」と、ヤングは書いています。「ただし、どういうわけか俺は、準備が遅いんだ。先取りは性に合わないみたいでね」と続きます。

Source / Road & Track
Translation / Kazuki Kimura
※この翻訳は抄訳です