※本記事は、「東洋経済オンライン」(東洋経済新報社)が2020年7月4日に掲載した記事の転載です。


 2020年7月2日の香港株式市場、祝日である香港返還記念日(7月1日)明けのマーケットは沸いた。代表的な株価指数であるハンセン指数は6月30日比3%近く上昇した。

 「国家安全法が施行され、香港社会や経済に安定が戻ることに期待が出たのでは」。イギリス金融大手HSBCホールディングス傘下、香港上海銀行のトレーダーの1人はそう話す。

◇「金儲けの人たちは別世界」

 6月30日、香港で反政府的な動きを取り締まる「香港国家安全維持法(国家安全法)」が中国の全国人民代表大会常務委員会で可決・成立した。これを受け、香港政府は同法を即時施行。国家分裂や外国勢力と結託して国家の安全に脅威をもたらすことなどを犯罪行為と規定し、中国当局が香港の治安維持に直接介入できるようになった。香港に高度な自治を認める「一国二制度」を骨抜きにした。

 国家安全法を歓迎する声は多少ある。

 香港の繁華街・旺角(モンコック)にある貴金属店の50代の店主は「(2019年からの)抗議デモに新型コロナと災難が続いていたので、落ち着いて大陸(中国本土)からの客が戻れば」と話す。

 売り上げの7割は中国本土の観光客によるものだった。それが2019年半ばから本格化した中国本土に犯罪者の引き渡しを可能とする「逃亡犯条例」改正案への抗議デモで消失。国家安全法が運用されてデモを抑えられれば、中国人客への売り上げが回復すると期待を寄せる。

 またロイター通信は、香港金融界のなかで中国本土の資金がさらに流入してくることに期待する声があることを伝えている。

 だが、香港が誇ってきた自由や司法の独立が傷つくことで世界的な金融都市の地位が危うくなる懸念の声は外資系企業を中心に根強い。そして、国家安全法に反対する声は大きい。6月上旬の現地大手紙の世論調査では6割が同法に反対。施行翌日の7月1日も禁止されていたにもかかわらず、多数の市民がデモなどの抗議活動に参加した。

 デモに参加した大学生のエイミーさん(仮名)は「何もせずにこのまま自由を失いたくない」と一縷(いちる)の望みにかける。「金儲けのことばかり考えている人と自由を守ろうとしている私たちは違う香港に住んでいる」と国家安全法に賛成する一部の人たちと隔たりがあることを強調した。

18~29歳の8割は「香港人」と回答

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劉 彦甫
燃えるバリケードと対峙する香港警察の機動隊。2019年9月、劉 彦甫 さん撮影。

 国家安全法はさっそく牙をむいた。7月1日には違法集会などの容疑で約370人の逮捕者が出ており、そのうち国家安全法に違反した疑いで10人の男女が逮捕された。

 うち1人の男性の逮捕理由は「香港独立」と書かれた旗を隠し持っていたことだ。香港警察は荷物検査まで実施して検挙。フェイスブックの公式アカウントに証拠品となる押収した旗の写真と併せて逮捕にいたった状況を公開し、国家安全法はすでに施行され、国家分裂などの行為が犯罪になると改めて警告した。

◇「もう抗議活動に参加する勇気がない」

 1日の抗議活動に参加していた大学生、ジミーさん(仮名)は「まさかさっそく国家安全法を適用するとは」と驚きを隠せなかった。

 その日は帰宅後すぐに香港独立に関連しそうなグッズやビラを慌てて壊したり、シュレッダーにかけたりして処分したという。「もう抗議活動に参加する勇気がない」と7月2日は抗議に参加しなかった。

 高校生のデニスさんも「デモに参加するか迷い始めた」と逡巡(しゅんじゅん)する。彼の両親は香港政府に勤める公務員。1年前からデモへの参加を両親に止められ続けていたが、「捕まってもいい」とそれを無視していた。そんな彼が躊躇するようになったのは「国家分裂や政権転覆の罪で捕まると両親が仕事を失うのではないか」と不安になったからだ。

 国家安全法の威力が出始める中、取材に応じた香港の青年たちはそれでも「表面上抗議しなくなっても、絶対にあきらめたくない」と口をそろえる。「私は香港人、中国人が勝手に香港のことを決めて変えてしまうのは許せない」とエイミーさんは話す。

 エイミーさんが口にした「香港人」と「中国人」のアイデンティティの違いは世論調査にも表れている。

 世論調査機関、香港民意研究所の調査によれば2020年6月時点で自らを「香港人」と捉える香港市民は50.5%と中国人と考える12.6%を大きく上回った。18~29歳に限ると81%が「香港人」と答えた。

■「香港人」だと考える人が圧倒的多数

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 香港の中国返還後のアイデンティティ調査で一貫して「香港人」の回答が多数だったわけではない。

 2008年6月の調査では「中国人」と答えた割合が38.6%に対し、「香港人」が18.1%と少数だった時期もある。2000年代は中国による香港への投資や観光客送り出しという経済のテコ入れ策、2008年の北京オリンピックによる国威発揚が影響したと考えられる。

「中国を知れば知るほど外国に思える」

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劉 彦甫
デモ隊に銃器を向けて威嚇する香港警察。2019年9月、劉 彦甫さん撮影。

 では、なぜ返還以降の中国化された香港社会を生きてきた若者の中国離れが続いているのか。

 彼らは中国の情報と接する機会が減ったわけではない。むしろ増えた。義務教育課程では中国本土のことを学ぶカリキュラムは多い。中国本土の政治や社会、中国史を勉強し、学校で掲揚する国旗は中国の五星紅旗、斉唱する国歌も中国の義勇軍行進曲だったという。

 香港で日常的に話される広東語だけでなく、中国本土の標準語とされる「普通話」も学ぶ。台湾出身で広東語をあまり解さない記者の取材には流暢な普通話で答えてくれた。「街には大陸からの観光客がたくさんいる。ニュースも中国関連のニュースがたくさん出ている。周囲はまさに中国だった」(ジミーさん)

◇「どっちが本当の中国なのか明らか」

 しかし、彼らはむしろ接する情報のなかでギャップに苦しめられた。

 「学校では中国がいかにすばらしいかを学ぶ。でも見聞きするのは大陸からの観光客が大声で下品に喋って、痰を吐き捨てる様子や、食品偽装とか中国政府の不正、人権弾圧などのひどいニュース。どっちが本当の中国なのかは明らか」(エイミーさん)

 国家安全法の制定過程でアイデンティティの違いの意識はますます強まったという。不動産会社に務めるキャリーさん(仮名)は「内面の自由という土台すら共有できない人たちと一緒になれないことを確信していく期間だった」と国家安全法が決まっていった数カ月を振り返る。

 抗議に参加する若者は失われる自由を守るために立ち上がっている。しかし、その自由を奪えば奪うほど香港の人たちの心はどんどん離れていく。中国共産党は昨年10月の中央委員会第4回全体会議で「香港の青少年の憲法や基本法に対する教育を強化し、国家意識と愛国精神を高める」と「愛国心」を香港に根付かせる方針を明確に示したが、アイデンティティの隔たりはすでに大きい。

 それを目にしたくない中国当局がアイデンティティを問う世論調査自体を国家分裂を煽るものだとして禁じるのではないかと現地の研究者やメディア関係者は懸念している。

 デニスさんは「この取材も外国勢力と結託した犯罪行為と見なされるかもしれないから、終わったらアカウント削除します」と取材に使用していたSNSアカウントを削除した。

 「次に会えるのは留学でもして僕が香港を脱出したときかな」という最後の一言は高校生に「脱出」まで考えさせる国家安全法が施行された香港の状況の厳しさを示している。

劉 彦甫(りゅう いぇんふ)さん・東洋経済 記者
…台湾台北市生まれの客家系。長崎県立佐世保南高校、早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了、修士(ジャーナリズム)。専攻はアジア国際政治経済、東アジアジャーナリズム。現在は電機大手や電子部品、精密機械、医療機器、宇宙業界を担当。台湾や香港を中心に東アジアの動きも追いかける。趣味はピアノや旅行。