トラック営業に嫌気し
社長に独立を宣言

 私が光岡自動車の前身である光岡自動車工業を創業したのは1968年2月、私が28歳の時です。

 それまで日野自動車のセールスマンだったのですが、1966年にトヨタと日野自動車が業務提携し、その後、日野自動車は乗用車部門から撤退。私はトラックのセールス部門に配置転換されました。

 しかし、営業のためとはいえ、運送会社の社員たちを飲み屋に連れていって接待するというのが本当に嫌で、結局、3カ月しか我慢できませんでした。

 日野自動車では毎年、年初にその年の目標を書いて社長に提出することになっていました。そこで私は68年1月、「今年こそ光岡自動車工業を設立する」と書きました。いずれは独立しようと、すでに社名も考えていたのです。

 妻子もいるし、なかなか会社を辞める決断はできませんでしたが、社長に伝えたことで後戻りはできなくなりました。

 翌日、社長に呼ばれたので、「明日退職願を出しますので、今月いっぱいで辞めさせてください」って言ってしまいました。こうして独立することになったわけです。

 始めたのは自動車の板金塗装業です。

 しかし、独立早々にトラブルが起きました。

 自動車屋をやるのだから国道沿いがいいだろうと、富山市の外れに不動産を購入しました。ところが、いざ事務所を構えようとしたら、その地域は電話の回線が引けないことがわかりました。

 慌てて電話を設置できる場所を探し、農家にあった車2台が入る馬小屋を借りて、事業をスタートしました。

光岡自動車,光岡進
Hiroki Matsumoto
光岡自動車創業者・会長の光岡進氏
偶然見かけた店を参考に
中古車の屋外販売を開始

 とはいえ、その後は大きなトラブルもなく、板金塗装業は順調でした。

 常連客が増えてくると、時々、「買い換えたいので中古車でいいから用意してくれ」と声を掛けられるようになりました。当時の富山県内に中古車販売店はそれほど多くなかったため、当社でも月に何台か売るようになりました。

 その後、中古車販売事業を本格的に始めたのは1970年のことです。

 きっかけは東京に来たときに偶然見かけた中古車販売店です。

 中古車販売店といっても、屋根付きのショールームなどがあるわけではなく、砂利のあちこちに雑草が生い茂っている土地に車を並べただけで、事務所もプレハブでした。しかし、店はボロいのに、スカイラインやブルーバードなどの人気のスポーツカーが置いてありました。

 屋外に中古車を陳列する販売店を見たのは初めてのことでした。

 面白そうなので、こんな店にどんな客が来るのか、向かいの喫茶店で一日ずっと観察していました。来るのは若い客ばっかりで、それほどお金があるようにも思えない。そんな客を相手にどうやって商売しているのか気になって仕方ないので、その店の経営者に直接聞きに行きました。

 当時は月賦やローンはそれほど普及していなかったので、若い客でも購入額の半分を現金で払っていました。憧れの車が欲しくて頑張って貯金したんでしょうね。そして、残り半分は約束手形で支払うので、中古車販売店はそれを割って現金化しているという。また、更地にプレハブを建てるだけなので初期投資も小さくて済む。

 こうやってビジネスのやり方を全部教えてもらい、その数カ月後の1970年5月、中古車販売会社のカーショップ光岡自動車を設立しました(79年に光岡自動車工業と統合して光岡自動車に)。

 プレハブとテントを張った程度の店でしたが、富山県にそういう中古車販売店はほとんどなかったため、多くの人に購入してもらい、かなりの利益を上げることができました。

 その後、中古車・新車の販売事業は成長し、今でも当社の売り上げの約9割を占める主力事業となっています。

マイクロカー事業が当たるも
道交法改正でどん底に

 一方、私はとにかく車が好きな「車バカ」です。車を改造するのも好きで、「スバル360」という車をオープンのバギー仕様にして河原を走ったりしていました。

 板金塗装業、中古車販売業は順調だったものの、それだけでは飽き足らず、マイクロカーと呼ばれる排気量50cc以下のエンジンが付いた乗り物の生産にまで事業を広げていきました。

 マイクロカーを生産するきっかけも、ある偶然からでした。

 当時、中古車販売事業の仕入れのため、中古車オークション会場がある大阪を頻繁に訪れていたのですが、ある日、目の前を見たことのない小さな車が通ったのです。

 すぐに追いかけていって、「これは何という車か」と聞くと、イタリア製のマイクロカーだという。面白い車なので、当社でも仕入れて販売することにしました。

 ところが、とにかく故障することが多く、本国からの修理部品の調達に苦労しました。そこで、構造が単純なのだから自分たちで造れないかという話になったのです。

 しかし、国内製のマイクロカーなんて見たことはないし、そもそも道路交通法上でどういう扱いなのかもわからない。そこで東京・霞が関の運輸省(現国土交通省)を訪れて担当者と話したところ、排気量50㏄以下なら3輪でも4輪でも原付免許で問題ないことがわかり、生産に着手しました。

 最初に生産したのは車椅子用の4輪車です。車椅子の人でも自分で乗り降りし、運転できる車を造りたいと思ったのです。

 そして、次に出したのが一般向けの3輪車「BUBU501」。

 1982年12月に発表したところ、原付免許で乗れる手軽さが受けて大ヒットしました。ピークには1カ月で220台が売れました。

 そこで銀行から1億6000万円を借金して5000坪の土地を購入して新工場を建設し、年間1万台の生産を計画しました。

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Mitsuoka Motor
BUBU501

 ところが「好事魔多し」です。1985年に道路交通法が改正されて、マイクロカーの運転には普通免許が必要となりました。

 これによりマイクロカーの売り上げは10分の1に激減。事業は赤字となったため、工場はいったん閉鎖しました。社員全員に頭を下げ、中古車販売会社や整備工場に異動してもらったものの、結局、社員の半数が辞める事態になってしまいました。

 また、マイクロカーの部品を在庫として持っていると課税の問題があるので、一部は学校に寄付し、残る全ては穴を掘って廃棄し、その証拠となる写真も撮りました。

 マイクロカー事業では本当に地獄を見ました。

ロスで見た車を求め
アメリカを横断

 それからの毎日は、会社には行くものの、コーヒーを飲んで、新聞を読むだけ。何もやる気が起きずボーッと過ごしていました。しかし2カ月もたつと、そんな生活に飽きてきます。

 そんな私を見計らったように、おかあちゃん(副社長を務めた故幸子夫人)が「あんた世界中どこでも回ってきてごらんよ」と言ってくれました。それで当時、仕事でロサンゼルスに行っていた弟の章夫(現社長)を訪ねることにしました。

 これが次なる転機となる車との出合いにつながるのです。

 ロサンゼルスの街中で、1台のオープンカーが目の前を走っていきました。

 それは1920年代頃のメルセデスベンツの「SSK」というマニア垂ぜんのモデルです。そんなすごい車が街中を走っているとは思えません。

 たまらず追いかけていって運転手を呼び止め、「これはなんちゅう車か」と聞きました。すると、フォルクスワーゲンの車がベースのキットカー(ユーザーが自分で組み立てる車)、つまりレプリカ車だという。

 どこに行けばそのキットカーを買えるのかと聞いたところ、フロリダに生産している会社が2社あるという。すぐに通訳を雇い、その日の午前0時の飛行機でフロリダに向かいました。

 アメリカの西から東へ横断するので飛行時間は5時間ぐらいかかります。機内で寝て、フロリダに到着したのは時差があるので朝8時。そのままレンタカーでキットカーの会社に行き、注文しました。

 注文の2カ月後、キットカーの部品が富山の本社に届きました。

 そこで、マイクロカーの生産中止でいったんはなくなった開発部門を再開。こうしてキットカーによるレプリカ車の生産・販売に挑戦することになりました。

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光岡 進(みつおかすすむ)/光岡自動車創業者・会長
1939年3月4日富山県生まれ。82歳。富山工業高校卒。日産自動車、日野自動車の販売会社を経て、68年に光岡自動車工業(光岡自動車の前身)を設立。96年4月、ホンダ以来32年ぶりに、国内10番目のメーカーとして認められ、メディアは「北陸の本田宗一郎」と報じた。2002年に会長就任。
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