柔道の小川選手
Eri Takahashi


練習はどんなときも楽しく!
感覚で覚えるようにしています”

 小川和紗選手を訪ねたのは、都内のとある柔道場。同僚の選手と、コーチから指導を受けている真っ最中でした。練習をこなす彼女たちからは時折、まるで女子会にでも興じているかのような楽しげな笑い声が聞こえます…。2020年東京パラ五輪出場を目指すアスリートの練習風景は、少し意外な印象からスタートしました。

 しかし練習が進み、投げ技を確認するころには、「ズシン」「ドスン」と床からも振動が伝わるほどに迫力が増していきます。コーチと組み手の確認をしながら何度も反復、そしてまた笑い声…。その様子から、身にも心にもしみ入る充実した練習ができていることがうかがい知れるのでした。

 「身内での練習のときには、明るく楽しくやらせてもらっています。もちろん出稽古では、緊張感のある練習をしています。もともと“圧迫感”というものが苦手なんです。だから毎日の稽古では、コーチから楽しく、感覚で身体にしみ込ませる指導をしていただいています」と小川選手。

 現在、彼女が指導を仰いでいるのは、仲元歩美コーチ。「仲元コーチは、これまで出会った中で一番、『この人に観てもらいたい!』と思った方だったんです」と話す小川選手。出会ったとき仲元コーチは、すでに同じ視覚障害を持つ柔道選手2名を指導していましたが、「どうしても!」と自らコーチの元に出向き、志願して指導を仰いだと言います。

 「自衛隊や海外青年協力隊で活躍されていたこともあって、その上とても頭の良い方なので、指導自体もとてもわかりやすいんです。選手時代には中国に留学していて、優勝した実績もお持ちです。そして何より、ちゃんと選手ひとりひとりとに向き合って、その選手の個性に合わせた指導をしてくださるんです」

 仲元コーチと出会ったことで変わったこと尋ねてみると、「良いところは残して、昔からついていた「悪いクセ」を矯正していただきました。さらに効果的な組み方を教えてもらって、さらに強くしていただいています」と、そんな答えが返ってきました。

 熱く語る小川選手からは、仲元コーチへの全幅の信頼感がにじみ出ています。相性の良いコーチとの出会いは、アスリートがその能力を最大限に発揮できる大きな源。「強くなりたい」と願う小川選手の柔道にかけるまっすぐな思いが、大切な出会いをたぐり寄せ、アスリートとして柔道家として、さらに大きく羽ばたくきっかけとなりました。

小川選手
Eri Takahashi
視覚障害者柔道になってからは
余計なストレスがなくなって、
柔道がやりやすくなったんです”

 小川さんは先天性の視神経膠腫(ししんけいこうしゅ)という病のため、現在の視力は両眼ともに0.01程度。人間の視力の中でも要となり、高精細な中心視野での視覚に寄与する眼球の中心部に映し出される像が見えていないそうです。

 小学校4年から6年までは、陸上の走幅跳びをやっていました。ですが、当時の視力は0.06前後。上下の視野が狭いこともあり、踏み切り板の位置がわからず、よくファールを出しては悔しい思いをしていたと言います。

 中学に進学すると、知人から柔道をすすめられ、走幅跳びで悔しい思いをしていたのを知っていた両親も、「柔道なら相手選手の道着を掴んでしまえば、視力がハンデになることはないのでは?」と背中を押してくれたと言います。

 しかし、全くの未経験からの競技転向に対し、不安はなかったのでしょうか?

 「もともと運動が好きでしたし、別のことにもチャレンジしてみたいという気持ちがあったんです。好奇心ですかね?」と小川選手。誘われて進んだ柔道の道でしたが、いつしか柔道に夢中になり、のめり込んでいきました。

 その後、徐々に視力が低下し、高校2年の時に盲学校に転入。一時は柔道を諦めていましたが、「どうしても柔道を続けたいなら…」と、先生から視覚障害者柔道の存在を教えてもらい再び柔道に取り組むようになりました。

 「健常者の柔道と視覚障害者柔道の大きな違いは、組んだ状態から始まること。健常の柔道をやっていたときには、組み手を取ろうとするときに相手の手が目に入ってくることも少なくありませんでした…。集中力が削がれたり、相手を捕まえに行くことができなかったりと苦労することが多かったんです。でも、視覚障害者柔道になってからはそのストレスがなくなって、すごくやりやすくなりました。そして、集中力も続くようになりました。健常の柔道も楽しかったのですが、自分の思うような試合運びができないことも多くありました。なので、同じ柔道でもガラッと変わりましたね」

 組み手争いのない柔道は、常に技の掛け合い。小川選手は、「組んだだけで相手の強さや得意とする柔道のスタイルがわかる」と言います。

 「触れているときの重さや圧、力のかかり方などで、相手の強さが感覚的にわかるんです。これは私だけではなくて、上位クラスの選手になれば多分もっと感じていると思います」

 見えづらいからこそ、視覚以外の情報に対する感覚はさらに研ぎ澄まさていったのかもしれません。

柔道の小川選手
Eri Takahashi

素早く相手の胸元に入り込み、
あとは「エイッ!」と一本投げ。
それが理想ですね”

 小川選手にとって、「柔道」の魅力とはどこにあるのでしょうか。

 「まず武道であり、スポーツでもあって、2つの要素が備わっています。試合ごとに勝敗がつきますが、その結果によって相手を傷つけることはありませんし、常に相手を敬(うやま)います。組む相手がいるからこそ、初めてできる点もありますよね。そのことに感謝して敬意を払う。『礼に始まり、礼に終わる』という精神が素晴らしいなと感じています。そう考えると…、結局『全てが魅力』なんですよね(笑)」

 相手選手をリスペクトすることの大切さは、昇段試験の際にも学ぶそうです。

 「柔道を始めたころには、このことにピンとこないところもあったのですが、経験を積んでいくに連れて、それを実感する機会が増えていきました」

 柔道という競技が持つ精神性は、試合を重ねていくごとに柔道家としてはもちろん、人間としての成長をもたらし、そして育んでいくようです。

 組み手から始まる視覚障害者柔道は、そこにスピード感という要素がさらに加わります。組み手争いがないことで、開始後数秒で決着がつくことも少なくありません。逆に4分間のうちの残り数秒でも組み合った状態から再開されるので、一瞬で逆転されてしまうことも少なくありません。このスリリングなスピード感は、この競技の大きな魅力と言えるでしょう。

柔道の小川選手
一瞬で相手選手の胸元に入り込む小川さんの柔道は、かなりの迫力です。

 もともとは63kg級でスタートした小川選手でしたが、現在は階級を上げて70kg級に。階級を上げたことで、今まで以上に体の大きな選手を相手にすることが増えていきます。

 小柄な小川選手にとっては、一見不利のようにも感じてしまいます。が、彼女はそこを逆手に取っているようです。重量級になればなるほど、通常は動きが小さくなりがちです。そこで身体の小さな小川選手は、自分よりも大柄な選手の懐へすばやく潜り込みことができる…、そして、あっという間に投げてしまうのです。

 まさに「柔よく剛を制す」、マイナスになりそうな条件を大きな武器に変えているのです。そしてそれは彼女の強さであるだけでなく、観ている人の心をも揺さぶる大きな魅力にもなっています。「一本投げが決まる瞬間の気持ちさは、言葉では表現できないです」と笑う小川選手の柔道は、観ているこちらにも爽快感を与えてくれます。

愛される選手になりたいです”

 2020年の夏、4年に1度のパラ五輪が東京で行われます。視覚障害者柔道は、2020年8月25日から開催。代表選手は6月に内定し、7月に公式発表になる予定です。小川選手は代表選考の対象となる5月の公式国際大会など大きな試合を控え、徐々に緊張感の高まりを感じつつ稽古に励む日々を送っています。

 アスリートであれば、このチャンスを逃すわけにはいきません。しかし彼女は、すでにその先を見据え、「東京パラ五輪出場はもちろん目標ですが、その次のパリ大会にも出場したいと思っています」と力強く語ります。そして、「その目標をかなえるために」、と言葉を続けます。

 「できるだけ試合会場を大きく使って、豪快な投げを決める“面白い柔道”を見せられる選手になりたいですね。そして、愛される選手になりたいというのが、私の目標なんです。たくさんの皆さんに応援していただくことが、私たち選手にとって大きな力になります。だから、魅力ある面白い試合をたくさん経験していきたいと思っています。パリ大会を迎えるときには、私は27歳。若手選手に追い抜かれないように頑張らなくちゃですね(笑)」

柔道の小川選手
Eri Takahashi
所属するのは、テレビや映画などの映像制作を行う「オー・エル・エム・グループ」。エンタテインメント企業らしく、“笑顔と感動を広める”という思いのもと、障害者アスリートのサポートを積極的に行っていると言います。小川選手は同社にて、マネージメントチームに所属しています。

 では、その先…東京とパリ、2回のパラ五輪のその先には、小川選手にはどんな未来を描いているのでしょうか。

 「パリの後には多分、引退していますかね…。引退後は、今支援してくれている所属会社に恩返しをしたいと思っています。同時に、視覚障害者柔道の裾野を拡げる活動もしたいです。今も子どもたちを指導する機会があるので、そこで感じていることは『柔道をする子どもたちが減ってきている』ということです。なので柔道を通して、もっと多くの子どもたちを身も心も強い人にしてあげたいと思っています…」

 普段の小川選手は穏やかで、ふんわりとした笑顔が似合うチャーミングな女性。ファッションが大好きで、ゆるふわ系にライダースジャケットを合わせてみたり…。映画も大好き、だけどホラーは少し苦手…。カフェで、友人と恋バナに花を咲かせることもあるとのこと。別々の進路を選んで、なかなか会えなくなってしまった親友の話になると、目にはうっすら光るものが…。

 心優しき柔道家の素顔は、23歳・等身大の女性。相手を敬い、そして気遣う心を持って人と向き合うことを忘れない姿勢は、気高い柔道精神によって育まれたもの…。彼女はすでに、十分愛されるべき選手でした…。それでも「もっともっと強くなりたい、もっと愛される選手になりたい」と願う小川選手。今後の活躍が実に楽しみでなりません。

柔道の小川選手
Eri Takahashi

♢PROFILE
小川和紗さん(おがわ・かずさ)
…1997年、千葉県市原市生まれ。株式会社オー・エル・エム所属。視覚障がい者柔道女子 B2クラス/70kg級初段。2018年・2019年全日本視覚障害者柔道大会女子70kg級で優勝を飾るなど、無類の強さを誇る。151cmと小柄ながら、大きな相手も得意な背負い投げで豪快に繰り出すアグレッシブな試合運びが魅力。 趣味は、友人とのおしゃべりやショッピング。