※本記事は「Esquire」UK版のコンテンツディレクター、ウィル・ハーシーが寄稿した記事を抄訳したものです。
実際に本を読むよりも、本棚に並ぶ本を眺めるのが好きだった子どもの頃のある日、わが家のダイニングルームにあった1冊のペンギン・クラシックスの背表紙が目を引きました。それは、ジョン・ハーシー著の『ヒロシマ』です。私(筆者、ウィル・ハーシー)と同じ姓を持つ実在の作家であり、他のハーシーさんに出会ったことのない9歳の子どもにとって、これは大興奮とも言える発見でした。しかも当時は1986年、少年が熱中するエンターテインメントの水準もかなり低かった頃ですから…。
私はそのとき、「アイビーリーグのイケメン教授に、遠い親戚がいるのでは?」と期待したのですが、すぐにその色あせた表紙と黄ばんだページを見て、その本が古いものであることを認識しました。そして、「きっと無名の本なのだろう」と冷静になったものです。ですがさらに、そのタイトルがある1つの単語であることを確認すると、悲しみが湧いてきたのです。私はすでに「ヒロシマ」という言葉を、考えたくはないほど恐怖と悲哀の代名詞として認識していたからです。
私がその答えを知ることになったのは、35年後の2021年の1月。ハーシー氏は1945年8月5日午前8時15分、アメリカ空軍のB-29スーパーフォートレス爆撃機「エノラ・ゲイ」が4400キロのウラン爆弾(悪趣味なことに「リトルボーイ」と名付けられていました)を投下した瞬間から「6人の生存者に何が起こったのか?」を、3万語に及ぶ記録を残しました。
生存者の6人とは?
- 佐々木とし子さん…人事課の事務員として働いていた当時20歳前後の女性。爆心から1.6キロの場所にいて、脚にひどい重傷を負った。
- 谷本 清さん…広島市内のメソジスト教会の牧師。被爆後に放射線障害をわずらいます。
- 中村初代さん…仕立屋であった夫はシンガポールで戦死し、10歳を筆頭に幼い子どもたちと共に暮らす。
- ウィルヘルム・クラインゾルゲさん…カトリック・イエズス会のドイツ人神父。外国人として日本に滞在するストレスを抱えながら、放射線障害と闘った。
- 藤井正和さん…医師。
- 佐々木耀文さん…医師。※佐々木とし子さんとの血縁関係はありません。
その内容のほとんどが、生存者たちの目を通して語られています。例えば、「藤井医師は死ぬと思う間もなく、自分が生きていることに気がつきました。2本の長い材木に胸を挟まれ、2本の巨大な箸につままれた肉塊(にくかい)のように圧迫されていたのです」
恐ろしく、そして心を揺さぶられる作品です。細部の描写、控えめな散文、そして今では「現代的」と言えるかもしれないカット割りのスタイルが相まって、火事・荒廃・ゾンビのような隣人・飢餓・毒といった目を背けたくなるようなものに直面した6人の男女の運命をつづっています。今振り返れば、「若い頃の自分が『アステリックス』のようなコミック本ばかりに夢中になっていて良かった…」と思えるほど、その内容は悲哀と遺憾に満ちていました。
この本は無名どころか、「史上最も世界的に有名な記事」や、「世界初のノンフィクション小説」など、さまざまな呼び方をされてきました。1999年には、20世紀のアメリカのジャーナリズムの中で最も偉大な作品に選ばれもしました。そして、書籍として一度も絶版になったことがありません。
しかし、この本を完全に理解するためには、75年前の8月に出版されたときのインパクトを想像すべきです。それは広島の原爆投下から丸1年後のこと。それまでの間、世界が広島について知っていたことは、いくつかの風景写真と当局によって注意深く管理された“事実”だけだったのです。
世界初の原子爆弾(3日後には長崎に第2の原子爆弾)を投下したばかりの国として、いかにも愚かな話にはなりますが、アメリカはこのことを慎重に隠蔽工作を行いました。負傷した生存者の写真や詳細を公表することは許されず、報告はすべてアメリカ陸軍省(1789年から1947年9月18日まで、軍の作戦と管理を行った政府機関)を介して提出する必要がありました。
この実験的な爆弾投下の意義は、「戦争の終結を早めるための“労力節約装置”である」としながら、大したことではないという態度を取ったのです。その後、日本では原爆投下後に放射能で死亡する人が続出しているという現実も、「Tokyo tales(東京物語)」として噂の領域として片付けられてしまったのです。
その空白とも言える丸1年の報道は、風景写真や技術的な詳細…「原爆はTNT1万5000トンに相当するらしい」、「13平方キロメートルが被害を受けた」、「6万の建物が破壊された」など、大きすぎて想像すらできない数字で占められていました。
そんな中、『タイム』誌の戦争最前線の記者として表彰され、戦後はフリーランスとして帰国したハーシー氏は、建物のことよりもそこに住んでいた人々の様子を知りたいと考えたのでした。
最大の難関「占領軍」には
トロイの木馬作戦で臨む
そこでハーシー氏はその空白を埋めるため、広島に住む人々がどのように感じていたかを報告しようと、『ニューヨーカー』誌の編集長ウィリアム・ショーン氏と共に大まかな計画を立てたのです。そこでの最大の難関は、日本への入国許可を得ること…。つまり、ダグラス・マッカーサー元帥率いる厳格な占領軍の目をくぐり抜けることでした。
そんな2人は、トロイの木馬のようなアプローチを取ります。ハーシー氏は愛国心に満ちた模範的な特派員であり戦争の英雄であること。そして、イェール大学とケンブリッジ大学の卒業生であり、さらにはジョン・F・ケネディの元恋人と結婚した人物として紹介します。加えて履歴書には、『タイム』誌にマッカーサーの素晴らしいプロフィール記事を書いたことも明記。すると、その作戦が功を奏しました。
10歳まで住んでいた中国を経由して日本に向かう途中、インフルエンザにかかってしまったことも運命のいたずらと言っていいでしょう。療養中に彼が借りた本が、ソーントン・ワイルダース氏の小説『サン・ルイス・レイの橋』で、ペルーでロープの吊り橋が崩壊し、5人の登場人物が死んでしまうというストーリーでした。
当時31歳だったハーシー氏は、米軍に占領されたシチリアの町を描いた処女作『アダノの鐘』(1944年)で、1945年にピューリッツァー賞を受賞したばかり。彼は以前から、小説のストーリーテリングの手法をジャーナリズムに応用できないかと考えており、世界最大の出来事がその実現のきっかけになったのです。
広島滞在中のハーシー氏は
常に恐怖を感じていた
さらなる攻撃や米国当局からの摘発に対する恐怖ではありません。それは、たった1つの爆弾によってすべての荒廃が引き起こされたことに対する、本能的な悲惨さをともなった恐怖です。宣教師の息子であるハーシー氏は、教会で最初の取材相手を見つけました。ドイツ人宣教師のウィルヘルム・クラインゾルゲ神父です。そこからさらに50人をインタビューし、アメリカに戻ってから書く作品の主人公となる6人を選定しました。
医師の藤井正和さんは、あぐらをかいて朝刊を読んでいたところに爆弾が落ちました。20歳の事務員である佐々木とし子さんは、オフィスで隣のデスクの女の子に話しかけようと顔を向けたところで大混乱が起こりました。ハーシー氏は次のように書いています。「核時代の最初の瞬間、トタン工場で人が本に押しつぶされました」と…。
滞在はわずか3週間で、ハーシー氏は現地では何も書かず、マッカーサーのオフィスに提出すべきものも提出せず、6月にノートをこっそり持ち帰って、赤いオリベッティのポータブルタイプライターで作業を始めました。この記事は当初、『ニューヨーカー』誌に4号連続で掲載される予定でしたが、作品の内容を理解したショーン氏と編集者のハロルド・ロス氏は1946年8月31日の号を丸ごと1つの記事に充てるという、当時としては前代未聞の決断を下しました(それ以降、これが起きたのはたった2回です)。スタッフ、寄稿者、そして印刷会社にもこの決定は伏せられ、全米の各新聞社には、記事が出る数時間前にその旨が伝えられました。
米爆撃機B29「エノラ・ゲイ」が
爆弾を投下してから391日後
家事をしたり、戦争のことを心配したり、雑誌を読んだり、隣人に顔を向けたりしていた医師、母親、神父、会社員の身に何が起きたのかを、初めて記録したのがこの記事だったのです。
この記事は世界中に広まり、30万部の印刷版はすぐに完売しました。アルバート・アインシュタイン氏は、転売目的ではなく、世界中の科学者に送るために1000部を注文しようとしたそうです。BBCは2週間にわたり、その内容を余すところなく放送しました。
ここで多くの人々が、「彼ら」などというものは存在せず、地球規模の「私たち」しか存在しないということに気づきました。そしてこの実験的な爆弾は、従来の兵器とさほど変わらないという米軍のメッセージを、壊滅的に反証したことになります。たった1つの報道によって、世界はこの爆弾が世界とその未来にとって実際に何を意味するのかを考えざるを得なくなったのです。もし未来があるとすれば、ですが…。
ハーシーは生涯を通じてわずかなインタビューにしか答えておらず、「ストーリーに語らせる」ことを好みました。この本の収益は、赤十字社に寄付されました。彼はいわゆるニュージャーナリズムの先駆者とされていますが、事実に忠実で、自分自身をストーリーに含めないという姿勢は、後に続くヴァージニア・ウルフ氏、トルーマン・カポーティ氏、ゴア・ヴィダル氏、ノーマン・メイラー氏などの作家とはやや対立するものとなっています。
そのためか、ハーシー氏自身の名はあまり知られていません。
ハーシー氏の伝記タイトルは
「Mr Straight Arrow(真っ正直な人)」
彼は脚光を浴びることを好みませんでしたが、後にホロコースト、警察の残虐行為(アルジェモーテル事件)、公民権運動、そして1985年に再び広島を訪れたときのことなどをつづっては、その後も一時的に脚光を浴びることもありました。
1985年の広島再訪時の取材は、上に紹介している『ヒロシマ 〈増補版〉』(法政大学出版局)内の5章「ヒロシマ その後」に掲載されています。そこには原爆症との闘い、市民としての生活・仕事・活動など、稀有な体験者たちの戦後史をヒューマンな筆致で描かれています。
彼はかつて、こう語っています。「2度と核爆弾が落とされないようにしたのは、私たちの共に胸に刻まれた広島に関する集団的記憶です」と…。
忠実でありながら過激な報道でもあるこの作品は、今では色あせた薄い本として本棚の片隅に置かれています。ですが、その大いなる厚く色濃い記憶は、ここから生まれたのです。
Source / ESQUIRE UK
Translation / Yuka Ogasawara
※この翻訳は抄訳です。