第2次世界大戦中…正確に言うなら1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍は日本の広島市に対して原子爆弾「リトルボーイ」を実戦使用しました。これは人類史上初となる、都市への核攻撃でした。そして、その最初の爆発から3日後…その結果生み出される、この上なく痛ましい悲劇が全世界へと知れわたろうとしている最中、同年8月9日午前11時02分にアメリカ軍は容赦なく、再び長崎県長崎市に対して人類史上2度目となる原子爆弾「ファットマン」を投下しています…。
皆さんの中には学生時代、修学旅行の際に広島へ訪れ、原爆ドームおよび広島平和記念資料館を見学した方は少なくないはずです。原爆ドームには銅でつくられていたはずの屋根がなくなり、鉄骨がむき出しの状態でした。そして資料館では、血がついて穴がたくさんあいたボロボロの服の数々や、変形したお弁当箱やびんを見聞しながら、これまでにないほどの壮大な悲しみが、全身にこみ上げてきたのではないでしょうか。
また長崎へ行った方なら、平和公園にある平和祈念像とともに「平和の泉」の噴水前の碑につづられた、水を求めてさまよった少女の手記を思い出すかもしれません。そして長崎原爆資料館内の「11時2分を指して止まった柱時計」に左側に掲げられたボードに記された「長崎を最後の被爆地に」という見出し、さらに、爆風によって全壊した浦上天主堂の写真等の記憶をよみがえることでしょう。
そうして今年…2020年8月、推定6600万人もの死者を出したと言われる第2次世界大戦の終結から75年の歳月がたちます。そのうち、この2発の原爆による死亡者数は2019年8月時点で広島は31万9186名、長崎は18万2601人の合計50万1787人と報告されています。そしてこの数字(死没者登録数)は、被爆の後遺症によって亡くなる方が加わります。つまり、その数は今もなお毎年増加しているのです。厚生労働省が発表した令和2年3月末現在における被爆者数(被爆者健康手帳所持者数)は、全国で13万6682人。そして平均年齢は、83.31歳ということです。
1945年(昭和20年)8月、御前会議における昭和天皇の御聖断によって戦争終結が決定されました。そして同年8月14日に終戦の詔書が渙発(かんぱつ)され、翌15日正午に天皇自ら戦争終結を国民にお伝えになる、いわゆる「玉音(ぎょくおん)放送」がラジオから流れ、日本における第二次大戦は終結したわけです。あれから三四半世紀(75年)の時が流れ、日本の近代史の中で唯一戦争のなかった「平成」が過ぎ去りました。そしてわれわれは、「令和」という新たな元号で2度目の「8月15日」を迎えることとなりました。
しかしながら、前述の被爆者の方々が平均年83.31歳であるように、戦争体験者の高齢化は進み、この記事を読んでいるユーザーの中には、日本とアメリカが戦争をしたことすら知らない人もいる可能性も否めません。「戦争の記憶は風化する一方」と言えるでしょう。
現在、アフガニスタン紛争、シリア内戦、クルド対トルコ紛争、リビア内戦、イエメン内戦と、世界では今もなお紛争は絶えません。現在、新型コロナウイルスの世界的大流行を受けて、国連が世界中に停戦を呼びかけたものの、ほとんど武力紛争の停止には至っていません。紛争地域のデータ収集・分析を手がける米非営利組織ACLEDによると、この国連の停戦呼びかけに応じたのは調査対象43カ国中10カ国の当事者にとどまり、そのうち戦闘を本格的に停止した国は2カ国だけだったということです。
また、ストックホルム国際平和研究所の公式サイトによれば、2020年1月の段階で世界9カ国(ロシア6375基、アメリカ5800基、フランス290基、中国320基、イギリス215基、パキスタン160基、インド150基、イスラエル90基、北朝鮮30~40基)で、いまだに合計1万3000基以上の核兵器が所有されているとのことなのです。
日本は、世界で唯一の被爆国です。人類史上最悪とも言えるあの悲劇を繰り返さないためにも、原爆投下そして終戦から75年たった今を生きる私たちは、すべきことを再確認しなくてはなりません。
この記事はもともと、『ポピュラー・メカニクス』誌1985年8月号に掲載されたものになります。アメリカ軍は1945年7月16日に、「Trinity Nuclear Test(トリニティ実験)」を行いました。2020年7月で三四半世紀を経過したことで、ここで振り返りたいと思います。この実験名を聞く以前に、前段の内容からすでに察しがついている方も少なくないでしょう。これは広島・長崎への投下を前に行ったテストであり、核爆弾の力を世界で初めて知らしめた実験なのです。それは「洪水になるかもしれない⁉」と心配になるほどの豪雨が、一日中降り続けた翌日の朝のこと…。
豪雨の中、ニューメキシコ州ソコーロ近くの給油所の封鎖を手伝っていたノーバート・ディアさんはその翌日、猛烈な雷雨と風によって寝つけず遅くまで起きていたそう。そして、ようやく寝つくことのできた5:30ごろ、これまで続いた猛烈な雷よりもはるかに恐ろしい『終末的な』爆発音を聞き、ベッドから放り出されることになるのです。
「州警察はそのとき、『アメリカ陸軍キャンプでの偶発的な爆発事故だった』と言っていた…」と、連邦情報自由法に基づいて国防総省が『ポピュラー・メカニクス』に公開した文書の中で、ディアさんのコメントが掲載されています。「それはまるで、世界の終わりのように思えた」という言葉もつづられています。
このディアさんが体験した1945年7月16日午前5:30に起きた爆発は、おそらく20世紀で最も重要な出来事であったと言えるでしょう。
しかしながら、それを自身の目で目撃した人々ですら、その爆発の真の重要性を知るまでには、約1カ月を要することになったのです。彼らは何の予備知識もなく、その重要な原子爆弾の爆発の始まりを目の当たりにし、説明もないまま約1カ月すごしたというわけです。ですが当然とも言えますが、そこには既に違和感を訴える声も多々あったようです…。
その頃、何百人もの科学者とともに何千人もの補助人員が、人口の少ない地域へ一晩で移動していました。さらに、ニューメキシコ州の大草原を走る列車には生成り色のシートがかぶせられた巨大な装置らしき荷物が積まれ、厳重な警備とともに何日もかけて運ばれていたわけですから…。さらにはこの爆発によって、南南東へおよそ306km離れたテキサス州エルパソのビル群の窓をガタガタと鳴らし、爆発音もとどろかせていたのです。
それでもなおアメリカ合衆国陸軍省は、この爆発が当時の新兵器である原爆によるものだということを秘密にし続けていたのです。どのようにして原爆をつくったかは、原爆投下40周年(『ポピュラー・メカニクス』誌1985年8月号の記事なので)の間に何度も語られてきました。ですが、「そんな原爆をどうのように隠し続けてきたのか?」は、深い闇に覆われた物語になるでしょう。
今日(『ポピュラー・メカニクス』誌1985年8月号の時点。アメリカ合衆国エネルギー省は、1990年代になってやっと米核開発に関する公文書の公開を始めていますが、なおも機密扱いされている文書も少なくない)でも、この原爆実験に関連する何百もの文書が存在してはいますが、いまだに機密文書のままで公開されていません。「トリニティ実験」が行われた「トリニティサイト」のあるホワイトサンド・ミサイル発射場での、あの爆風後における放射線濃度観測結果に関するいくつかの文書も、以前として開示されていないのです。
また、この原爆実験が行われてから数週間後の1945年8月、広島で爆弾が投下されるまでに、どれだけの情報が漏えいしたかを証明する通信記録も未だ隠されたままなのです。
調査で明らかになった、
驚くべき事実
- 当初は一般公開されていながら、見聞されていなかった数十の文書が、1970年代になって突然機密になりました。
- 1945年のニューメキシコ州知事は、原爆が実験の翌月である8月に広島へ投下された後まで、その内容を知らされていませんでした。
- トリニティ実験の翌日には、幾人ものFBI捜査官が主要新聞社を訪問し、そのテストに関して抱かれるであろう疑念を事前に握り潰していきました。
アメリカ国民に対して、このトリニティ実験を説明することを任された国防総省高官は、「3つの異なるストーリーを準備していた」と言っていました。ですが実際には、半ダース…つまり6種類の言い訳が用意されていたのです。これまで明らかにされていなかった中には、ニューメキシコ州アラマゴード地域において民間人の死者が出た際の言い訳に関して書かれたストーリーがありました。ですが結局のところ、死者は出なかったので、最も単純なストーリーが公開されたというわけです。
原爆開発から実験場周辺の警備…正門から数十個の実験棟に至るまで、非常に整然としていました。簡素でありながらも上品なつくりで、その表面下では秘密を守るために手の込んだネットワークが存在していたようです。このセキュリティーネットワークを代表する人物が、「ロスアラモスのファーストレディー」として知られるドロシー・マッキビン(Dorothy McKibbin)氏です。
「来訪者が来たときの私の仕事と言えば、彼らを快適にすごさせることと、彼らを目的のところへ連れていくこと…。そして、いかなる質問に対しても答えないようにすることでした」と、マッキビン氏は短いインタビューの中で語ってくれました。原爆が投下されるまでの2年間、彼女はニューメキシコ州北部の山間部の町ロスアラモスで公式の出迎え役をこなしていました。
マキビン氏の仕事と言えば、研究施設に到着した職員を出迎え、そして宿舎へと案内することでした。そしてアポイントなしの訪問者はすべて、マッキビン氏によって追い払われることになっていたのです。
秘密を守ることの
大変さとむなしさ…
秘密を守ることがいかに大変なことかを理解するため、ニューメキシコ州の州都サンタフェから北西約40kmの位置にある田舎町ロスアラモスがいかに素早く拡大していったかを振り返ってみましょう。
1942年にアメリカ陸軍が5万4000エーカーの敷地を引き継いだとき、ロスアラモスランチスクールの教職員や学生を含む地元の人口は250人未満でした。そして 原爆のテストをするための準備に取り掛かるころには、ロスアラモスの人口は約7000人まで膨れ上がります。そして その全員が、直接または間接的に「マンハッタン計画」と呼ばれるアメリカ陸軍部隊のための仕事に従事していたのです。
マンハッタン計画とは、第2次世界大戦中にナチス・ドイツなどの一部枢軸国(連合国と戦った諸国)の原子爆弾開発に焦ったアメリカ・イギリス・カナダが、原子爆弾開発・製造のために科学者、技術者を総動員した計画になります。その一部にトリニティ実験があるわけです。
ニューメキシコ州ロスアラモスの他にも、テネシー州オークリッジにはウラン精製工場、ワシントン州ハンフォードにはプルトニウム精製工場も建てられています。このマンハッタン計画によって、以前はこの二つ(オークリッジとハンフォード)の地域を合わせても3万人に満たなかった人口が、1945年8月にはこの二つの施設周辺に9万人近くの人々が暮らし、働き始めていたのです。
当時、マンハッタン計画を指揮していたアメリカ陸軍のレスリー・グローヴス(Leslie Groves)当時准将の指揮のもと、ジョン・ランズデール(John Lansdale Jr.)大佐が警備担当補佐官としてプロジェクト内のCIC(Counter Intelligence Corps=対敵諜報部隊)を仕切るようになります。そうしてマンハッタン計画内のフィールドセキュリティーチームの活動と、FBIなど他の機関との調整を行いました。 しかしながら、過去20年間に書かれた新聞報道によれば、CIC(Counter Intelligence Corps=対敵諜報部隊)とFBIの連携はうまく行っていなかったようです。
膨大な数の仕事量をこなしながらもグローヴスは、何人かのドイツ側の科学者、さらにはソビエト連邦側の考えに共感を示すアメリカ人科学者たちともに情報戦で戦わなければなりませんでした。
グローヴスは核爆弾を迅速に開発するためのすべてを、ホワイトハウスから任されていました。実際にマンハッタン計画は、それが組織されてから3年もたたないうちに核爆弾実験を結実。このようなスピードで国の重要機密作戦を遂行させるには、通常のセキュリティーチェックでは不可能です。また、ナチス・ドイツから脱出し、この計画に協力する科学者たちを深くチェックすることも不可能です…。
そこでグローヴスは逆転の発想で臨みます。「セキュリティーが精巧であればあるほど、このマンハッタン計画の活動に世の注目が集まってしまう」と推察し、セキュリティーに関して最もシンプルな解決策を講じたのです。
新たに加わったスタッフに対しては、あえて標準的なセキュリティーフォームが使用されました。このフォームには申請者によって、友人や仲間、所属する団体の名前をすべて記載するという基本的なものでした。
またFBIの協力により、すべての新入職員の身元情報がマンハッタン計画のセキュリティー担当者に提供されるようになっていました。また、プロジェクトに携わる者同士が、お互いの職務内容が分からないように、可能な限り仕事は分断して行っていたわけです。こうして、そのほとんどの業務においてセキュリティー上の問題はなかったのですが…。1つだけあったのです。
セキュリティーにおける
最大の問題は、
「爆発」自体でした
爆弾が開発されたのち、ドイツ生まれで英語教育を受けた物理学者のクラウス・フックス(Carl Fuchs)が逮捕されたことは有名な話でしょう。彼はマンハッタン計画で原子爆弾開発に大きく貢献していたのですが、そのかたわらスパイとしてソビエト連邦に機密情報を流し続けていました。その動きが確認され、1950年3月1日に裁判で最高刑の懲役40年の判決を受けています(のちに自白したことで、1959年6月23日に釈放されます)。
これだけの重大な事件であったのに対し、このフックスの裁判における記録も情報の自由法によって得られた文書にも、フックスがロシア人に伝えたことが何であったかに光を当てた内容は一切記載されず、彼の活動は明らかにされていません…。
最も困難な課題は、報道陣を遠ざけること。これがグローヴスらの大きな頭痛の種だったようですが、戦争中であったためか、マスコミ全体が予想以上に協力的だったことは(彼らにとっては)幸いだったようです。「核エネルギー」「原子力」といった言葉を、ニュース記事のネタには使用しないことを、どのメディアも忠実に守っていたのです。
そんな中、近隣であるテキサスの地元新聞がこの原爆プロジェクトをにおわす記事を進めていることを察知すると、即刻その記事の作成をストップさせます。またその後、シカゴの新聞が取り上げようとしました…が、その記事は差し止めとなりました。
シカゴの件に関して…それは1945年7月16日に行われたトリニティテストサイトでの爆発の日。シカゴ在住の市民の一人が、ニューメキシコを電車で旅していたそうです。そこでその旅行者は爆風を体感し、爆発で空が光る場面も自らの目で確認したわけです。ある公開されたアカウントによれば…その旅行者は次の停車地で降り、シカゴの新聞社に電話をかけたそうです。そしてその旅行者は、「巨大な隕石(いんせき)の落下を目撃した」と報告。その電話を受けた女性記者はすぐに簡単な記事を書き、編集長へ提出しました。
しかし翌日、彼女(記者)が取材からオフィスに戻ると、そこにFBI捜査官が彼女を待っていたそうです。あとは映画でよく見るシーンとなります…。「この記事は忘れるように」と言われ、その記事は結局掲載されることはなかったというわけです。
その爆風の、
この上ない痛ましさ
1945年7月16日の爆発についてのあらゆる記事は、最終的にロスアラモス研究所によって発行された簡潔なニュースリリースに基づいていました。それを読むと…
気になるという、いくつかの
問い合わせをいただきました。
それは遠隔地にて
多量の高爆発物と
火工品を含む弾薬庫が
爆発したことによる爆風です。
人命の損失やけが人は
ありませんでした」
大爆発について 真実が語られるようになったのは、広島に原爆が投下された後のこと。マンハッタン計画では市民に信ぴょう性のある証言を提供するため、アメリカ合衆国陸軍省はジャーナリストを経て「ニューヨーク・タイムズ」紙の記者となったウィリアム・ローレンス(William Leonard Laurence)氏と1945年4月に契約。マンハッタン計画の公式の記録担当を任されます。
原爆投下までの数カ月間、ロスアラモスの敷地内に住むことを許可されます。さらに同年7月16日にはジャーナリストとしてただ一人、初の核実験であるこのトリニティ実験の見学が許可されます。
そうしてローレンス氏はその秘密を守り、同年8月6日午前8時15分に投下された広島原爆に至るのでした。さらに8月9日午前11時02分に投下された長崎原爆弾の際には、爆撃機に同行し上空からの取材も行っています。そして同年9月26日から10月9日まで10回にわたって、原爆開発の経緯や科学者らの成果について「ニューヨーク・タイムズ」紙で連載。翌1946年には、本人2回目となるピュリツァー賞を受賞しています。
爆発実験の前日には、
巨大な鉄の塊「ジャンボ」到着
1945年7月15日、生成り色のシートがかぶせられた180トンにもおよぶ通称「ジャンボ」が専用設計200トンの貨車に積まれ、ニューメキシコの砂漠を越えてトリニティサイトへと運ばれてきました。そのとき電車に乗っている軍の警官でさえ、その内容を知りません。彼らは「これは高爆発物を貯蔵するために使われるであろう」とは聞いていたようです。
しかしながらそのコンテナは、シート越しでも察しがつくほど弾道のカタチをしていたので、多くの伝説が流れてもいました。 中には、「陸軍は砂漠の真ん中で、秘密兵器の潜水艦の開発に取り組んでいた」という途方もない話もありました…。
ちなみに「ジャンボ」とは、万一実験が失敗した際に貴重なプルトニウムを回収するための巨大な鋼鉄製の容器に名づけられたコードネームになります。この「ジャンボ」は多額の費用をかけてペンシルベニア州ピッツバーグで製造されました。しかしながら実験当日…「ジャンボ」が実験場に到着するころには、テスト用の原爆の信頼度は高まり、本番の実験の際には「ジャンボ」は使わないことになっています。その代わりに、「ジャンボ」は「ガジェット」から730m離れた位置にある別の鉄塔に引き揚げられ、その原爆の破壊力を観察する試料とされたそうです。最終的に「ガジェット」の爆発によって「ジャンボ」は破壊されずに残ったそうですが、「ジャンボ」を支える鉄塔は倒壊したとのこと。
そして5時29分45秒、
「ガジェット」は爆発
爆発実験は当初、1945年7月16日午前4時(現地時間)に予定されていました。ですが当日は早朝まで雷雨が続いていたために延期。雨天の下では、放射線や放射性降下物の危険が非常に大きくなることが予想されてのことです。また、雷によって予期しない爆発が起きてしまう可能性を研究者たちが心配したためでした。
やがて午前4時45分になると、気象は好転します。すると事を進めることを判断し、午前5時10分には20分前のカウントが開始されました。そのとき、要職の研究者や軍人たちのほとんどは、実験塔から16km南西に設けられたベースキャンプから実験を見守っていたそうです。その他の多くの見物人は、約32km離れた位置で観察をしていたとのこと。
物理学者サミュエル・アリソン(Samuel King Allison)によるカウントダウンのもと、現地時間5時29分45秒に「ガジェット」は爆発。その瞬間、実験場を取り囲む山々は1秒から2秒の間、昼間よりも明るい光で照らされます。観察された爆発の光は紫から緑、そして最後には白色へと変わったとのこと。そして爆発後のキノコ雲は、高度12kmまで達したそうです。
ロスアラモス国立研究所の初代所長として、このマンハッタン計画を主導したロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer)は後年にはなりますが、この爆発を目の当たりにしたときの思いを古代インドにあるヒンドゥー教の聖典である『バガヴァッド・ギーター』の一節である、ヴィシュヌ神の化身クリシュナが自らの任務を完遂すべく、闘いに消極的な王子アルジュナを説得するために恐ろしい姿に変身し、「I am become Death, the destroyer of worlds.(われは死神なり、世界の破壊者なり)」と語った部分を引用しています。
クリシュナと自分自身に重ね、核兵器開発を主導した事を後悔していることを打ち明けたのでした。のちにオッペンハイマーの弟フランクが、後日ドキュメンタリー映画『The day after Trinity』の中で語ったところによれば、「世界に使うことのできない兵器を見せて、戦争を無意味にしようと考えていた」そうです。
しかし結果的には、人々が新兵器の破壊力を目の当たりにしても、「それを今までの通常兵器と同じように扱ってしまった」と、絶望してもいたそうです。 また、戦後の冷戦時代の赤狩りの波に襲われ公職を剥奪されたオッペンハイマーは、スパイ容疑を問われた法廷で、「The physicists have known sin; and this is a knowledge which they cannot lose.(物理学者は罪を知った。それは決して忘れることのない知識だ)」と繰り返し述べたそうです。
実験後の爆心地は?
実験場から約240km西にいた森林警備隊員により、「閃光(せんこう)の後に爆発音と黒い煙を見た」という証言が当時のニュースに報じられています。また、実験場から北に約240km離れた場所にいた住民は、「爆発で空が太陽のように明るくなった」と述べています。その他の報告では320km離れた場所でも建物は揺れ、「窓ガラスがガタガタと音をたてた…」「爆発音が聞こえた…」などの証言が報告されていました。
実験後にアラモゴード航空基地から、「遠隔地の火薬庫が爆発したが、死者・負傷者は出なかった」という50語からなるプレスリリースが発表されました。つまり、実際の爆発の原因に関しては、同年8月6日に広島市に原子爆弾が投下されるまで公表されなかったのです。
前述のマンハッタン計画の公式ジャーナリストであるウィリアム・ローレンスは、緊急時に発表できるよう事前に複数のプレスリリースをファイルし、「ニューヨーク・タイムズ」社のある自分のオフィスに置いていたということです。その原稿の中には、実際に公表された実験の成功を伝えるものから、「異常な事故が発生し、いかに研究者全員が死んでしまったか」を説明する内容のものまで用意されていたということです。
以上のように、アメリカ陸軍そしてアメリカ政府がいかにしてニューメキシコ州での原爆実験をひた隠したにしてきたのか、周辺に住む人々にも気づかれないよう細心の注意のもと行われていたことが確認できたかと思います。
そして、いまだ公開されていない残りの資料が公開されれば、さらに興味深い話になるのかもしれません。
それでは、カレンダーを戻しましょう。
トランプ米大統領は2020年7月16日(日)、米西部ニューメキシコ州アラモゴード近郊のトリニティサイトで行われた人類史上初の核実験から75年を迎えたのに合わせて声明を発表。その中でこの実験を、「素晴らしい偉業だ」とたたえています。声明を詳しく引用すれば、1945年7月16日に実施された史上初の核実験に対し、「第2次大戦の終結を促し、世界の安定、科学の革新、経済的繁栄の時代を切り開いた」と称賛。さらに「核抑止力は米国や同盟国に大きな利益をもたらした」と指摘し、米国の安全保障上の利益を守るための核戦力の近代化は、「攻撃を抑止し、将来世代の平和を維持するために役立つ」と強調。中国とロシアに核軍縮に向けた新たな枠組みに加わるよう求めました。
トランプの自分勝手な核抑止力の話は、常に矛盾を感じざるを得ません。彼の考えでは大国だけが核兵器を持ち、それで世界を抑え込もうとしているようと、いまだに考えているのです。世界の流れは、世界から核兵器をなくすことであり、核不拡散条約を世界の国が調印することです。それが一番現実的な方法ではないでしょうか。
アメリカは1992年以来、核爆発を伴う核実験の一時停止を続けています。が、トランプはロシアが爆発を伴う核実験を実施し、中国にも同様の懸念があるとして不満を表明。「軍拡競争を止めるため、中ロに米国の取り組みに加わるよう求める」と要望したのでした。
その一方で2020年5月には、アメリカのメディアは米政権が核爆発を伴う核実験の再開を議論したと報じられています。その議論は同年同月15日、安全保障関係の高官が集まる会議で行われたそうで、政府高官は「アメリカが核実験を再開すれば、中国とロシアを交えた新たな核軍縮の枠組みづくりにも有利になる」と主張したとのこと。一方、核兵器を管理するエネルギー省の国家核安全保障局(NNSA)などは強く反対。結果として、そこで結論には至らなかったのですが、高官のほうは「議論は続いている」と話しているところが気になるところです…。
アメリカ・ロシア間に残る唯一の核軍縮条約「新戦略兵器削減条約(新START)」は、2021年2月に期限が切れることになります。またアメリカは中国も交えた新たな条約を提案していますが、中国側がその参加を拒否し、延長交渉の行方が危ぶまれている最中でもあります。
このタイミングに合わせるかのようにマサチューセッツ工科大の教授ら科学者約40人は、同年7月16日に史上初の核実験から75年の節目に米『サイエンス』誌の電子版で連名の要望書を公開。その内容は、「トランプ政権は核実験の再開を検討しているが、そのような動きは新たな軍拡競争だけでなく、偶発的あるいは意図的な核戦争の危険を高める」と警告を示したものになります。
さらにアメリカが核実験を再開した際、「それが地下であろうと地上であろうと、規模のいかんにかかわらず、北朝鮮やインド、パキスタンなどの国に実験再開の口実を与える」と述べ、核実験の停止(モラトリアム)を堅持するよう求めました。
このように実は、現在の新型コロナウイルス感染症の拡大に勝るとも劣らず、「核」へのリスクも高まっているのが現状です。このことは、唯一の被爆国であるわれわれ日本からこそ、声高に発信すべきではないでしょうか…。
日本の近代史の中で唯一戦争のなかった「平成」が過ぎ去り、2020年8月15日(土)に私たちは「令和」2度目の「8.15」を迎えます。そしてそれは、終戦75周年という大きな節目…。戦争という悲劇を二度と繰り返さないため、そのためにも戦争の記憶を風化させないためにも、過去の歴史を振り返って平和の大切さを考える時間を設けてほしい…そう願っています。
Translation / Shane Saito
※この翻訳は抄訳です。