[目次]

▼ アインシュタインとは?

▼ 友人の突然の訪問

▼ アインシュタインと原爆との関係性

▼ アインシュタイン=シラード書簡

▼ 行動へと駆り立てる手紙


アインシュタインとは?

20世紀において最も影響力をもった科学者のひとり、アルベルト・アインシュタイン(以降、アインシュタイン)は相対性理論を提唱したことで有名です。他にも、量子力学および量子物理学に対する重要な貢献に関してもよく知られています。

そんなアインシュタインは1879年3月14日に、ドイツ南西部のウルムでユダヤ商人の家に生まれました。誕生後すぐに一家でミュンヘンに移り住み、新事業として父は弟と共に電気機器の製造会社を設立します。5歳まで彼は、両親が言語障害を心配するほど無口な子だったそうです。そしてあるとき、父から方位磁石をもらったことで、自然科学に興味を持ったそうです。

albert einstein sticking out his tongue
Bettmann//Getty Images
72歳の誕生日。パーティーを終えて車に乗っていたところ、報道陣から笑顔をリクエストされた彼は照れ隠しのように、舌を出しました。

6歳からバイオリンを弾(ひ)き始め、モーツァルト、バッハ、シューベルトなどの曲を好んだと言います。その一方で、数学の才能も開花します。ピタゴラスの定理の証明やユークリッド幾何学の微分・積分の独習に熱中——とは言え、規則に縛られた学校教育にはなじめず…

学びを妨げる唯一のものは
私が受けた学校教育である”

と、のちに回想しています。

大学進学に際しては、兵役義務を逃れるためにドイツの市民権を放棄し、スイスのチューリッヒ連邦工科大学を受験。総合点で不合格となりますが、数学と物理の成績が突出していたことにより、学長は地元の中等教育修了試験に合格することを条件に翌年の入学を許可したということ。そして晴れて入学を果たすのですが、講義は興味を持つものだけ出席。物理の実験は最低点を取るも、電気技術は最高点…といったふうに、極端に評価が分かれる学生だったそうです。

卒業後も大学に残りたかったものの、学部長らと折り合いが悪いことで、保険外交員や家庭教師をしながら論文の執筆に精を出したそう。そしてスイスの国籍を取得後、ベルンにある特許庁に就職。審査官としてさまざまな発明に接し、生活が安定して物理学に集中する余裕もできたのでした。

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ullstein bild Dtl.//Getty Images
弁護士であり哲学者でもあった政治家リチャード・ホールデン(ホールデン子爵)は、1921年にロンドンを訪れたアルベルト・アインシュタインを自宅でもてなしました。そのとき、客人としてアインシュタインを庭で記念撮影している様子。

24歳で正式に結婚。26歳になった1905年、バス乗車中に時計台の針が止まって見えたことをきっかけに、特殊相対性理論を着想します。そうして「運動物体の電気力学について(独語:Zur Elektrodynamik bewegter Körper)」という論文を書き上げ、「重力の影響のない特殊な環境下での時間の進み方や空間の大きさは、絶対的なものではない。これらは観測者の運動状態に依存し、その置かれた状況によって変化する」と主張します。

そして28歳になると、あの有名な公式…質量とエネルギーの等価性や定量関係を表す「E=mc²」を提示。その後も、「特殊相対性理論」を進化させた「一般相対性理論」を新たに打ち出したり、重力場のない状態に限定された特殊相対性理論に加速度運動と重力を織り込むなど、さらに適用範囲を広げていくのでした。

…と、アインシュタインについて語り出すといくら時間があっても足らなくなるので、もっと知りたい方はこれを機にご自身でお調べください。

※参考文献:『アインシュタインの生涯』(東京図書)、『アインシュタイン相対性理論の誕生』(講談社現代新書)


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1933年、アメリカに到着したアルベルト・アインシュタインとエルザ・ローエンタール夫妻。


やがてアインシュタインの母国ドイツでは、ヒトラーが政権を奪取して排外主義的な姿勢を強めていきました。そんな折、1933年にアインシュタインは弾圧を逃れてアメリカに亡命します。そうして1930年に創設されたプリンストン高等研究所*⁴に迎えられるのでした…。 

友人の突然の訪問

そんな中、アインシュタインは自身がベルリン大学で教えていた頃、熱心にその講義を受講していた学生であったレオ・シラード*⁵に再会します。この2人の出会いによって、「原子爆弾は具現化された」と強く言ってもいいかもしれません。

ですが、そんなアインシュタインも、1949年にノーベル物理学賞を受賞したあとの湯川秀樹*⁶がプリンストン高等研究所に招かれたとき、さっそく湯川のいる研究室を訪ねます。そこで、70歳になろうかというアインシュタインは湯川の両手を握り締め、泣きながら何度もこう繰り返したということ…。

「原爆で罪もない人たちを傷つけてしまった。どうか許してほしいと。

原爆はいわば、アインシュタインが1905年に発表した特殊相対性理論、そして「E = mc2」という公式を基にした兵器と言っていいでしょう。そのことは彼自身が一番知っていたはずです。1954年、死の前年には「もし私があのヒロシマとナガサキのことを予見していたなら、1905年に発見した公式を破棄していただろう」とも語ったそうです(いずれもエビデンスとなるものは見つからず、伝承の可能性も十分あることをご了承ください)。

これらの言葉がアインシュタインが発したリアルなセリフでなかったとしても、こう伝えられているということはつまり、アインシュタインは当時の状況を誤解していたこと、そして、その行為を後悔する態度を示していたことは明らかと言えるはずです。

とは言え、後悔先に立たず…。

leo szilard wearing a suit and tie, sitting at a table, and speaking to someone off camera
Getty Images
1945年12月、上院の原子力爆弾に関する委員会の開会前に姿を現したレオ・シラード。

アインシュタインと
原爆との関係性を振り返る

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アインシュタインは、J・ロバート・オッペンハイマーとも面識はあった*⁷ようですが、核兵器開発を導いた「マンハッタン計画」に関わったことはなく、広島と長崎への原爆投下の計画についても知りませんでした。しかし、フランクリン・ルーズベルト大統領*⁸が原子爆弾というものをそもそも追い求めるようになった経緯には、アインシュタインと(子弟でもある)同僚レオ・シラードが演じた役割が決定的なものとなったのです。 

レオ・シラードはハンガリー系ドイツ人の物理学者で、1920年代にはアインシュタインと研究をともにしています。彼らの研究からは、まず可動部のない冷蔵庫用ポンプが生み出されました。ウィリアム・ラヌエット*⁹によるシラードの伝記『Genius in the Shadows』*¹⁰によれば、この発明は一般的に「アインシュタイン冷蔵庫*¹¹」と呼ばれているそうです。

シラードはアインシュタインとの共同研究の後、1933年にロンドンで核の「連鎖反応」というアイデアを思いつきます。翌1934年、シラードは連鎖反応に関する自分の特許を軍事機密にするようイギリス政府を説得。ラヌエットによれば、「当時、ドイツの首相となっていたアドルフ・ヒトラー*¹²との核による軍拡競争において、攻勢に出ることに成功した」ということです。

しかし1938年に、ドイツの科学者たちがウラン原子の分裂実験を成功すると、シラードはヒトラーが先に原子爆弾を手に入れることを深く憂慮するようになります。そして、自身の人脈の中で警鐘を鳴らし始めるのでした。ラヌエットの言葉を借りると、シラードは「自らが恐れていた軍拡競争を始めるために、まさに必死になって立ち働いた」のです。

1939年、シラードは旧友のアインシュタインを訪ねて、核の連鎖反応の概念を説明し、かつての仕事仲間であるこの物理学者を驚かせました。ラヌエットによると、アインシュタインは「私はそんなことは全く考えたことがなかった」と認めていたそうです。するとアインシュタインはすぐさまベルギー王室にいる友人たちに、「ナチスドイツが、世界最大のウラン供給源を擁するベルギー領コンゴに目をつけているかもしれない」と警告するよう動きます。

その最初の会合のあと、シラードのほうは「アメリカ政府関係者にも、ドイツの意図について注意を促すべきだ」と確信します。そうしてシラードとアインシュタインは3週間後に再び会い、ルーズベルト大統領にどう伝えるかを話し合い、20世紀で最も大きな影響を及ぼすことになる歴史的な書簡の作成に取りかかりました。

ナチスの原子爆弾開発を知らされたアインシュタインは、1939年にルーズベルト大統領に対し書簡を送り、「早急な原爆開発」を進言したのです。これを受けてウラン諮問委員会*¹³が設置され、1941年に原爆製造を具体化するマンハッタン計画がスタートします。過去の反戦的な言動が問題視され、アインシュタイン自身はマンハッタン計画に関与しませんでした。

アインシュタインの原爆への関わりは、第2次大戦時、当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた原爆開発を促す手紙に署名をしたことだけでした。しかもその手紙を起草したのは、ハンガリーからのユダヤ人亡命者シラードだったのです。アインシュタインは当時最も有名な科学者であったため、この手紙に記名することでアメリカ政府の重要視するところとなり、原爆開発がスタートしたというわけです。

そんな絡み方だからこそ、悔やんでも悔やみきれなかったのでしょう。よって前出のように、アインシュタインは湯川秀樹に詫びることに至ったというわけです。

アインシュタイン=シラード書簡*¹⁴

その問題の手紙に関する経緯を、もう少し詳しく見てきましょう。

友人たちを通じてシラードは、経済学者アレクサンダー・ザックス*¹⁵に会います。彼はウォール街の銀行家で、ホワイトハウスにコネクションがありました。ザックスが言うには、「ウランについてはすでに自分からルーズベルトに話しているが、コロンビア大学の物理学者たちが『原子力爆弾は実現可能性がきわめて低い』と言ってきたため、ウラン研究は継続しないと決定した」*¹⁶とのことだったのです。

albert einstein and leo szilard sitting at a table, looking over a letter
Getty Images
アルベルト・アインシュタインとレオ・シラード。1939年にフランクリン・ルーズベルトに手紙を送った。

ザックスは、「アインシュタインのような名声のある人物によってなら、ルーズベルトが説得されるかもしれない」と感じたそうです*¹⁶。アインシュタインはユージーン・ウィグナー*¹⁷、エドワード・テラー*¹⁸を始めとした、ハンガリーからのユダヤ人亡命物理学者たちによる強い促しもあり、1939年8月2日付けでルーズベルトに手紙を送り、ナチスドイツが原子力爆弾を開発する可能性について訴えました。

「最近4カ月の間にその可能性が高まった…(中略)…大量のウランがあれば、核連鎖反応を起こすことが可能になるかもしれません。そしてこれによって、膨大なエネルギーとともにラジウムに似た大量の新元素が生成されることでしょう。それが近い将来に実現することは、ほぼ確実なことと思われます」と手紙*¹⁴にはつづられています。

アインシュタインはこの手紙で、この物理現象が非常に破壊力の高い爆弾の製造にもつながりうると警告し、ルーズベルトにアメリカでも同様の研究プログラムを検討するようすすめ、アメリカで連鎖反応に取り組む物理学者たちと連絡を取るよう促しました。

ルーズベルトはヨーロッパでの出来事にかかりきりで、2カ月近くこの手紙に返事をしなかったため、物理学者たちは「大統領が核戦争の脅威を真剣なものとして受け取っていないのではないか」と心配していました。米エネルギー省の記録*¹⁹には、そうつづられています。

そして実際はその逆で、ルーズベルトは「ヒトラーだけが一方的にそのような強力な爆弾を保有することは、国家にとって重大な危険をもたらす」と考えていたそうです。

行動へと駆り立てる手紙

franklin roosevelt wearing a suit and tie, sitting at a table, signing a piece of paper with a pen
Getty Images
アインシュタインの手紙に後押しされて、フランクリン・ルーズベルト大統領は原爆に関する一連の計画を推し進めることになった。

再びエネルギー省の記録*¹⁹によれば、「ルーズベルトは1939年10月19日付けでアインシュタインに返事を書き、ウランを研究する民間人と軍人の代表からなる委員会の設立を知らせた」ということ。これは以後、無数になされる検討や決断の中の、最初の一歩に過ぎませんでしたが、それでもこの委員会が最終的にマンハッタン計画のきっかけとなりました。

1940年にアインシュタインは、ルーズベルトにもう2通手紙を送っています。日付は3月7日と4月25日。それは核融合について、追加的な研究をすすめる内容だったということです*²⁰。アインシュタインは1945年の3月25日に再び手紙を書き、「ウラニウムが悪用されるのではないか」と不安を募らせている旨をつづりました。ですが、その2週間少々後にルーズベルトが亡くなります。そうしてこの手紙は、大統領に読まれることはないままだったのです。

しかし、これより以前の、前出の1939年に送った手紙は、のちにアインシュタイン=シラード書簡*¹⁴として世界的に知られるようにもなります。ラヌエットの言葉を借りれば、「合衆国が原子爆弾を開発するにあたっての重要なきっかけとなった手紙」として広く認識されているのです。

何度も言いますが、アインシュタイン自身はマンハッタン計画には携わったことはありません。また、1945年に広島と長崎に原子爆弾を投下する計画も、事前に知ってもいませんでした。ですが、戦争を嫌う平和主義者であったアインシュタイン、これまでもつづってきたように、原爆の開発における自らの役割をやがて深く後悔するようになるのです。

そして、さらにこう発言*²¹したとされています。

「ドイツ軍が原爆の開発に成功しないことが分かっていたら、私は何もしなかっただろう」

アインシュタインは、この後悔を生涯ずっと抱き続けました。1954年、アインシュタインは死の1年前に友人の化学者ライナス・ポーリング*²²への手紙の中で、このことについて書いています。

「ドイツが爆弾を開発する恐れがあったため、正当性がなかったわけではない。とは言え、それでもなお自分のルーズベルトへの手紙は、わが人生において唯一の大きな誤りだった」*²³と…。

[脚注]

*1:Richard Burdon Haldane, 1st Viscount Haldane(1856年7月30日生~1928年8月19日没) イギリスの弁護士であり哲学者であり、政治家。彼は知識人としてドイツ思想に魅了され、1912年には使節団としてドイツとのデタントを模索する役割を果たす。Encyclopedia Britannicaのページを参照

*2:Zur Elektrodynamik bewegter Körper 九州大学 中西 秀名誉教授のページ内のアーカイブ(pdf)を参照

*3:E=mc² アルベルト・アインシュタインが「特殊相対性理論」に基づいて導いた有名な式。この式は、質量とエネルギーは等価であり、互いに変換できることを意味する。Eは物体のエネルギーでmは物体の質量、cは光速を表している。「ほんのわずかな物質にも,膨大なエネルギーが秘められている」とも解釈できる。

*4:Institute for Advanced Study アメリカ合衆国ニュージャージー州プリンストン市にある研究所で、1930年に創設。自然科学・数学・社会科学・歴史学の四部門を持ち、いずれも最高レベルの研究者であるが特に物理学と数学の研究が有名。プリンストン大学と密接な協力関係にある。J・ロバート・オッペンハイマーも所属していた。公式サイトを参照

*5:Leo Szilard(1898年2月11日生~1964年5月30日没)原子爆弾開発などに関わった、アメリカのハンガリー生まれユダヤ系物理学者・分子生物学者。シラードらが理性的な核管理と現実的な核軍縮の方法を探るため、1962年に設立した NGO「Council for a Livable World」を参照

*6:湯川秀樹(1907年1月23日生~1981年9月8日没) 日本の理論物理学者であり、素粒子物理学におけるパイ中間子の理論によって1949年にノーベル物理学賞を受賞し、量子力学の発展と原子核力の理解に大きく貢献したことで知られている。ノーベル賞公式サイトの該当ページを参照

*7:1963年に創刊された書籍や問題について深く議論する雑誌『The New York Review of Books』1966年3月17日発行の号に執筆しているJ・ロバート・オッペンハイマー。そこにはアルベルト・アインシュタインとの関係性がつづられている。

*8:Franklin D. Roosevelt(1882年1月30日生~1945年4月12日没) 第32代アメリカ合衆国大統領(在任:1933年3月4日~1945年4月12日)で、世界恐慌および第2次世界大戦当時の大統領であり、20世紀前半の国際政治における中心人物の1人。彼の政権下でのニューディール政策と第2次世界大戦への参戦による戦時経済はアメリカ経済を世界恐慌のどん底から回復させたと評価されている。

*9 & *10:William Lanouette(1940年生~) 『Genius in the Shadows:A Biography of Leo Szilard, the Man Behind the Bomb』の著者。本書ではシラードの「マンハッタン計画」への貢献と、核兵器の使用を抑制するための努力に焦点を当て、シラードの生涯と多くの分野における科学的貢献について概説。

*11:Einstein refrigerator 可動部がなく一定の圧力で作動し、熱源だけで作動する吸収式冷凍機。1926年にアルベルト・アインシュタインと彼の元教え子レオ・シラードが共同で発明し、1930年11月11日に米国で特許を取得した。特許の記録を参照

*12:Adolf Hitler(1889年4月20日生~1945年4月30日没) ドイツの政治家。国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者であり、1933年に首相に指名され、1年程度で指導者原理に基づく党と指導者による一極集中独裁指導体制を築く。

*13:Committee on uranium(S-1 Section)「S-1ウラン委員会」とも言われる、1939年10月に設立された政府機関。ちなみにS-1 Sectionとは、エネルギー省(DOE)の内部組織の一つで、正式名称は Office of Intelligence and Counterintelligence。日本語では 情報・防諜(ぼうちょう)局に当たる。ウランの研究開発を促進することを目的として委員会で、ウランの採掘、精製、濃縮、利用に関する研究開発を支援。1940年6月には、「ウランに関するブリッグス諮問委員会」も設立されるが、こちらはウランの軍事利用の可能性を調査することを目的としていた。前者は1942年に廃止され、後者は1941年6月に廃止。互いの役割は、マンハッタン計画に引き継がれた。エネルギー省の公式サイト内の該当ページを参照

*14:Einstein-Szilard letter マンハッタン計画および原子力時代、そしてその遺産の保存と解釈に専念する団体「アトミック・ヘリテージ財団」の公式サイト内のある該当のpdf資料を参照

*15:Alexander Sachs(1893年8月1日生~1973年6月23日没) アメリカの経済学者、銀行家。1939年10月、彼によってフランクリン・ルーズベルト大統領に対して「アインシュタイン=シラード書簡」が送られ、核分裂の研究を進めるべきだと提案。これが「マンハッタン計画」開始のきっかけとなる。

*16: “The New World 1939/1946: A History of the United States Atomic Energy Commission”のpdf書類を参照

*17:Eugene Wigner(1902年11月17日~1995年1月1日没) ハンガリー出身のユージン・ウィグナーは、原子核と素粒子の理論における対称性の発見でノーベル物理学賞を受賞した物理学者であり、マンハッタン計画にも参加した人物。「アトミック・ヘリテージ財団」の公式サイト内のある該当のpdf資料を参照

*18:Edward Teller(1908年1月15日~2003年9月9日没) ハンガリー生まれの物理学者エドワード・テラーは「水爆の父」として知られ、マンハッタン計画で原子爆弾開発に貢献した後、水素爆弾の開発を主導。彼は熱核融合研究の推進者としても知られ、レーザー、プラズマ物理学、エックス線天文学など幅広い分野で活躍した。「アトミック・ヘリテージ財団」の公式サイト内のある該当のpdf資料を参照

*19:U.S. Department of Energy エネルギー省の公式サイト内の該当のpdf資料を参照

*20:参考文献An Einstein Encyclopedia』 by Alice Calaprice and others

*21:参考文献 「The New York Times」1964年8月2日号のウェブ化されたアーカイブを参照

*22:Linus Carl Pauling(1901年2月28日生~1994年8月19日没) 化学と生物学に多大な貢献をしたアメリカ人科学者。化学結合の理論、量子化学、タンパク質の構造と機能、ビタミンCの栄養学など、幅広い分野でノーベル賞2回を含む数々の賞を受ける。彼は平和活動家としても知られ、核戦争防止や科学者の社会責任を訴えた。

*23:参考文献「The Washington Post」1986年12月20日号のウェブ化されたアーカイブを参照

専門家の検証:
コリン・マッケヴォイ(Biography.com、シニア・ニュースエディター)

マッケヴォイはBiography.com では 2023年から活動。2023年以前は、ジャーナリスト、ライター、コミュニケーション専門家として16年間を送る。実際の事件に取材した2冊の著作『Love Me or Else』『Fatal Jealousy』がある。映画と本をこよなく愛する。物語というものの偉大さに魅せられている。  

Translation / Miyuki Hosoya
Postscript / Kazushige Ogawa
Edit/ Keiichi Koyama(Esquire)


『オッペンハイマー』
2024年3月29日日本公開

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【本予告】『オッペンハイマー』3月29日(金)、全国ロードショー
【本予告】『オッペンハイマー』3月29日(金)、全国ロードショー thumnail
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