※遺族の希望で個人情報に関する詳細はふせております。


 2019年7月17日、筆者である私の友人の祖母が亡くなりました。享年九十七歳だったそうです。

 東京に住むその友人は、祖母の葬儀のため、札幌へ向かいました。友人は祖父も数年前に亡くしているので、葬儀が終わった後は札幌でひとり暮らしをしていた亡き祖母の家で、遺品整理のため数日間過ごしたそうです。

 そのときのこと…遺品整理をすすめている中、ある手紙を発見したのです。

 それは、「亡き祖父が大切にとっておいた手紙」ということで、友人の祖母も大切に保管していたようなのです。主(あるじ)を失ったその手紙を、孫である私の友人が受け継いで、東京に戻ってきたときに見せてくれました。

 海軍と余白に記された3ページにわたるその手紙には、祖父の弟(友人の大叔父にあたる)が戦地に行く前、父親(友人の曾祖父にあたる)に宛てて書いた手紙だったのです。

 今回、遺族の許可をいただき、その手紙を公開させていただく機会を得ました。また手紙の内容に関しては、ご本人が書かれた原文のまま記しております。ときは昭和18年(1943年)、23歳の声をいまに伝えます。

お父さん。僕、仁です。お父さんの限りなき慈愛の手を差し延べて何時も愛して戴いた仁です。

昭和十八年三月のある日の日記。

僕が東京で学生生活を送っている今日迄、きっと、たとへどんな時、どんな場所に居ても心のどこかで私をお守りして下すったお父さん。よくぞ今日迄、立派に僕を育てて下さいました。仁も少しは智識(ちしき)を備へた二十三才の青年に成りました。

只今改めて心の底より僕の生涯に於ける最も美くしき最高級の立派なお禮(れい)の言葉を致しまして慈に深くお禮(れい)の言葉を申し上げます。どうかお父さんの御健康維持と高き高邁(こうまい)なる理想を持ちつつ、僕がお父さんへこうこう出来る日迄、決して御病気等にて殪(たお)れざる様、切にお願ひ致します。

世界の人類史上、何時の時代にもかわる事の無い人間として最も美(うる)はしき事實(じじつ)は戦場で何(いづ)れにもかへ難い生命の絶へる時、微かな息の中に僅かな声を振りしぼって「お母さん、さようなら」「お母さん、お元気で」と言って行くという事です。何んと美くしい事でしょう。これが人間の眞の親子の愛情でなくて何んでしょうか。あ、されどお父さん、僕にはお母さんが早やくに死に別れて仕舞ったんですね。

しかし、その美しいお母さんの愛情より以上の深き、お父さんの愛が有ったんです。

僕は決して母なき事を悔やみません。世界でたった一人のお父さんが居ます。佛(ほとけ)の様な優さしさをこめた、あのお顔。立派なお父さんが、ちゃんと札幌に居られるんだもの。世の中の人がその父母より受け入れる愛情の到底及びもつかぬ遠大なる愛を惜しみもなくたまえてくれたお父さんが、僕には有るのです。

僕が戦場で若(も)し弾丸にあたり死ぬ時はきっと「天皇陛下萬才、お父さん萬歳、お父さんさよなら」と言って殪(たお)れる覚悟です。僕はお母さんなんかいらないよ。僕には大好きなお父さんが居るんだもの。

では、お父さん本当に身体をお大事に何時も御丈夫で居て下さいね。僕は今お父さんに無性にお會(あ)ひ致したくて。小さい時よくお父さんの肩の上に乗っかった時の様にお父さんの手を抱き締めて甘へて見たくてたまらないんです。

でもあと三ヶ月で学校の卒業証書を手にする事が出来ます。待って下さいね。

下宿の窓よりお父さんのおすみなされる札幌の空を眺めつつ、僕の心は先程よりお父さんをお慕ひする気持ちいっぱいで涙に濡れております。

 
 筆者である私の友人は、この仁さん(大叔父)のことを知りたくてたまらなくなり、葬儀で親族が集まる中、大叔父について聞いたそうです。しかし、実はこの仁さんは養子に出されていたようで、詳しいことを知っている親族はいまではもう誰もいないということでした。

 「そう言えば小学生のころ、おじいちゃん(仁さんの兄)に戦争の話を聞こうと思ったら、ポンっと軽く頭をたたかれて、何も教えてくれなかったな…。子どもながらに我が家では戦争の話はしちゃいけないんだと思ったよ」と、友人は言います。

 そして最後に、「誰も覚えていない、誰も知らない我が家の歴史…。自分だけは、この手紙と一緒に覚えておこうかな」と話していました。