「本阿弥光悦の大宇宙」と題した展覧会が上野の東京国立博物館で開かれている。お正月の紙面でも「始めようか、天才観測。」と言った広告が掲載されていたが、光悦ほど一言で言い現すことが困難な大芸術家はいない。信長上洛の十年前に生を受け、島原の乱の年に亡くなるまで、正しく織豊政権から江戸新幕府へ世の中が激動した時期と重なっている。光悦(1558〜1637)は、足利尊氏の刀剣奉行であった本阿弥妙本の子孫で、代々刀剣の鑑定、研ぎを家業とした一族の系譜にある。

本展でも深く帰依した法華信仰とともに第一室で紹介されていたが、法華経の布教にも積極的に関与していたことが、立派な扁額への揮毫(きごう。以下写真)や自筆の「立正安国論」からも感じられた。刀剣鍛治とは違い全くの裏方である家職は、作品として残るわけでなく、言い方を変えるなら光悦の多彩な才能を発揮した漆に書、陶などの本業から離れた余技が作品として残ったのだ。

扁額
写真提供:白洲信哉
写真左から扁額「本門寺」(作品番号:29、江戸時代・寛永4年<1627> 東京・池上本門寺)、扁額「妙法花経寺」(作品番号:28、江戸時代・寛永4年<1627> 千葉・中山法華経寺)、扁額「正中山」(作品番号:27、江戸時代・17世紀 千葉・中山法華経寺)いずれも本阿弥光悦筆

近衛信尹(このえ のぶただ)、松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう)とともに、「寛永の三筆」に数えられ、中でも本展の目玉となっている「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」(作品番号:85、以下写真)のように、俵屋宗達の画に、光悦が和歌を書した今風に言えばコラボの書画がやはり印象深かった。しかも13メートルを超える和歌巻が通期で展示される。

宗達は建仁寺の国宝かの「風神雷神図屏風」の作者として知られ、本来なら個々で作品は成立するのだが、慶長十年(1605)頃から元和元年(1615)にかけて、工房作も含め夥(おびただ)しい数の合作がある。このような文字と画が一緒に成立することは、日本文化の大きな特徴であると思う。今や世界的に有名な「漫画」もこの系譜にあり、昨年末の棟方の回顧展(第74話)での「版画」に書き添えた「詩」などにも同様なことが言える。

が、二人の「共演」は絵文字の最高峰に位置する完成度だと思う。鶴が飛び立つ一瞬の動きに伴奏するように、絶妙な配置で歌文字をちらし書きしている。こうした金銀泥下絵の和歌巻は、鶴や鹿に蓮など自然の風物を題材とする下絵に、平安鎌倉時代に成立した和歌集を、短冊や色紙といった小品に書写することから徐々に深化。その極みが和歌巻であり、画面の枠を超えた大舞台への「競演」に発展していった。会場の状況にもよるのだが、近くに寄ってまたちょっと離れたりとさまざまな角度から観て欲しい(以下写真)。鶴の銀地は舞い立ちながらキラキラと輝き、山に模した金地部分の濃淡もその動きにアクセントをつけている。

鶴下絵三十六歌仙和歌巻
写真提供:白洲信哉
重要文化財「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」(作品番号:85、本阿弥光悦筆 / 俵屋宗達下絵 江戸時代・17世紀 京都国立博物館)。ともに同場面を左が上から見たもので、右が斜めから見たもの。

「東路の 佐野の舟橋 かけてのみ 思ひ渡るを 知る人ぞなき」

同じように本展の目玉となっている国宝の「舟橋蒔絵硯箱」は、入り口一番に展示されていたが、これもタイトルにもなっている「舟橋」は文字でなく、黒い鉛の板を貼って橋板に仕上がる誠に凝ったデザインだ。歌文字の行頭が揃(そろ)えることなく、ちらし書き風に自由自在。巻物や漆など素材は違っても、平安の「継色紙」から続く書の伝統を踏まえ発展を遂げたのである。

周知の通り光悦は、京都北西の広大な鷹峯(たかがみね)の土地を、元和元年(1615)に徳川家康から拝領し、先に記した法華信者など一族に弟子たちと移り住み、他に例をみない芸術村を作り上げた。中でも利休が重用した初代長次郎に続く2代目常慶の手ほどきで学んだ第4章の焼きものにやはり一番惹かれた。

「陶器を作る事は余は惺々(せいせい)翁にまされり。然れども是も家業体にするにもあらず。只鷹が峰のよき土を見立て折々拵(こしら)へ侍る計りにて、強て名を陶器にてあぐる心露いささかなし」(本阿弥行状記)と、「窯を作ったのは、ここによい土を見つけたからで、ときどきつくりはするが、これで名を上げようとは思わない」とアマチュア宣言しているが、光悦の焼いた楽焼は静かなものから動へ、また歪んだりと変化に富んでいる。

和歌巻の余韻のまま最後の4章に入ると、かの「乙御前(おとごぜ)」(作品番号:99)が目に飛び込んできた。「乙御前」とは、お多福の低い鼻のような腰や高台の姿から付いたと言われているが、口縁から底にかけての罅(ひび)割れに、底部の高台や見込みにも、同じく制作時からの罅(ひび)が蜘蛛の巣状に入っている。だが、この窯割れを問題とせず朱漆(しゅうるし)で止めこの繕いを逆手にとっている。残念ながら本展では出品されてはいないが、赤楽茶碗「銘 雪峯」(畠山記念館)のように、同じく窯の山疵の中央部分の窯割れを見事に金漆(きんしつ)で大胆に継ぎカスタマイズする手法は、陶器を愛したわが国の伝統に他ならない。

乙御前は使い方の頻度なのか、個人蔵ゆえのことか、遠目にも悩ましいほどのツヤツヤで、ガラスケース越しにも充分その魅力が伝わってきた。近代数寄者の代表である益田鈍翁(ますだ どんのう)が外箱裏の箱書に「たまらぬものなり」と記し、内箱蓋表の「ヲトコセ」は表千家四代作で、数々の名品所持で名高い平瀬家伝来でもある。明治36年(1903)には、「時雨」(作品番号:96)とともに、これまた近代数寄者として名高い森川勘一郎こと如春庵所持の後、さる大店を経て現在にいたっている。

会場は、全体の照度を落とし光悦茶碗10数点に長次郎などいい感じの展示スペースではあった。だが、残念なことに会場風景の撮影は禁じられその一端を紹介できない。とこれを書いていたら広報事務局からオフィシャルという展示風景が送られてきた(以下写真)。

黒楽茶碗 銘 村雲
特別展「本阿弥光悦の大宇宙」
黒楽茶碗 銘 村雲/本阿弥光悦作 江戸時代・17世紀 京都・樂美術館

ここまで気をつかうのも致し方ないとも少し思う。僕が参加している報道内覧と称するお披露目でも、物見遊山な手軽さでモノに対する敬意が感じられない方も目にする。「目垢」を嫌う所蔵家の意向だとは思うが、かつての今焼が動乱の時代を映す鏡だとするなら、頑なな茶道の今を映しているのかなとも思う。が、送られてきた画像はどれも楽家ゆかりのもので、伝統を作り出す一族には道具としての意識があるのだと少し安堵した。

作品を生かすも殺すも会場展示の熱量次第、図録写真だけでは決して伝わらないと僕は思っている。能登の地震やウクライナに中東の戦争とザワザワした新年の始まりだが、時代の動乱期に生まれ、度重なる困難をかいくぐり伝わった稀有な名品たちに感謝したいと思う。

◇特別展「本阿弥光悦の大宇宙」の案内
会場/東京国立博物館 平成館
会期/2024年1月16日(火)~3月10日(日)
   ※会期中、一部作品の展示替えを行います。
開館時間/9:30~17:00
     ※入館は閉館の30分前まで
休館日/月曜日、2月13日(火)
    ※ただし、2月12日(月・休)は開館
観覧料/一般:2100円
    大学生:1300円
    高校生:900円
    ※いずれも税込。
    ※中学生以下、障がい者とその介護者1名は無料。入館の際に学生証、障がい者手帳等をご提示ください。
    ※事前予約は不要です。混雑時は入場をお待ちいただく可能性があります。
    ※最新の券売情報の詳細は展覧会公式サイトをご確認ください。
TEL/050-5541-8600(ハローダイヤル)

公式サイト


白洲信哉
写真提供:白洲信哉

白洲信哉

1965年東京都生まれ。細川護煕首相の公設秘書を経て、執筆活動に入る。その一方で日本文化の普及につとめ、書籍編集、デザインのほか、さまざまな文化イベントをプロデュース。父方の祖父母は、白洲次郎・正子。母方の祖父は文芸評論家の小林秀雄。主な著書に『小林秀雄 美と出会う旅』(2002年 新潮社)、『天才 青山二郎の眼力』(2006年 新潮社)、『白洲 スタイル―白洲次郎、白洲正子、そして小林秀雄の“あるべきようわ”―』(2009年 飛鳥新社)、『白洲家の流儀―祖父母から学んだ「人生のプリンシプル」―』(2009年 小学館)、『骨董あそび―日本の美を生きる―』(2010年 文藝春秋)ほか多数。近著は、『美を見極める力』(2019年12月 光文社新書刊)。