節分に続く立春が過ぎると、わが年中行事である和歌山県新宮市神倉神社のお燈祭り(第17話)がコロナ禍以来5年ぶりに開催されることになってワクワクしていたが、こちらの都合で本年も参加出来ずこれを書いている。新年からのザワザワは個人的にも例外でなかったが、それでも季節は巡り春はやってくるのである。日々の独酌も熱燗からだんだんとぬる燗へ、そして人肌へと移ろってくるのだが、酒盃もまた季節や気分に呼応してくるものだ。

前回記した光悦の頃時代の動乱期に、わが国で初めてあわ雪のような柔らかな白色の焼きもの志野焼きが誕生したのだが、昨今は晩の供に取り出す頻度が高くなっている。ちなみに中国ではすでに14世紀には染付けの技術が完成し、ベトナムには安南染付けが生まれ、お隣朝鮮半島でも15世紀には青花が焼かれ、アジア全般に画のある白磁や青花など新たな焼きものが広がっていた。

志野輪花盃(冒頭写真右)。大阪の豪商鴻池家伝来5つのうちその一つを白洲正子は「志野はこれ一つで充分」と晩年まで大切に使っていた。生まれは向付(むこうづけ)だったものだがすっかり盃として定着し、京都の北村美術館他好事家の間では知られたものの一つである。この「銘 銀歯」はコピーライターの仲畑貴志さん旧蔵のもので、「この骨董が、アナタです。」(講談社)にその命名の顛末があるので興味のある方はそちらの傑作を読んで欲しい。数年前、縁あって手元に舞い込んだので、近年「ゴットハンド」の力を借り、口縁部の銀歯?部分の復元に取り組み毎晩味付けに勤しんでいる。

志野
写真提供:白洲信哉
写真左から、志野輪花、志野織部茶入、椿手(つばきで)。

志野は学問的には新しい焼きものである。34話でも少し触れたが端緒となったのが昭和5(1930)年荒川豊蔵らの古窯跡の調査により、偶然かの徳川美術館蔵の志野茶碗「銘 玉川」と同手の筍画の陶片(豊蔵資料館蔵)を久々利 大萱牟田洞(おおがやむたぼら)の窯跡で拾ったことから、荒川はこの地に半地上式の窯を築き、久しく途絶えていた志野を始めとする瀬戸黒に黄瀬戸、織部といった桃山時代美濃の焼きものを目指し制作に励む。それまで瀬戸焼きの一分野として位置づけられていた美濃は瀬戸とはっきり区別されるようになり、人間国宝に認定されたのである。

かの国宝 銘卯花墻(めいうのはながき)も同地の産であるが、いずれこの地の陶片、もしくは同時代の欠片を組み合わせ「呼び継」したいとは思っているのだが、心なしか復元部にも味がついてきたようである。いずれかまたまとめて記したいと思っているが、今年に入ってその回でも触れた織部沢瀉文徳利(おりべあしにおもだかもんとくり)についても、先日ある番組の取材に答える機会があったのだが、どうやら時代は大量生産消費からゆっくり動いてきているのかもしれない。

さて、16世紀後葉「桃山茶陶」として独自の道を歩み始めていた志野は、わが国の焼きものの中で初めて白い器に筆で画を描く自由を得た。同じ頃肥前唐津でも下絵付けを施した絵唐津が誕生している。個人的な好みでは唐津の力強さに軍配をあげたいところだが、互いに影響を受けつつ切磋琢磨し作陶していたことがよくわかる。美濃は都に近いこともあり、茶陶としての飽くなき要求に応えるため、新しい器種や器形が次々生み出されていき、織部の時代へと発展していった。

高台
写真提供:白洲信哉
上の写真(志野輪花、志野織部茶入、椿手)の高台。

真ん中の背が高いのは、俗に志野織部とも美濃唐津とかいうもので、白い胎土に鉄分を含ませ唐津の作風に仕上げたと言う。江戸後期の茶人が記した『本朝陶器攷證(ほんちょうとうきこうしょう)』にも「志野トモ織部トモ画唐津トモ見分ガタキ品 又志野織部トモイヒ来ルニアリ」とある。言い方を変えるなら美濃は、大窯から連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)へ転換したように、いいものは貪欲に自らの中に取り込んでしまっていったのだ。その指導的役割を担ったのが古田織部であり、唐津の寺沢家などとも情報のやり取りが欠かさず、陶工のレベルでも密な交流があったように思う。

もう一つは俗に椿手と言われる若干時代がくだったものだと思うが、美濃に弱点があるとしたら、高台の削りが規格化されどれも似たり寄ったりと言うことかもしれない。次第に元和(げんな)に近づくと時代は徐々に落ち着いていったのか、どちらもよく焼けいい感じではあるが、器は整っていき平和の時代に入ると歪んだ茶碗もつくられることはなかった。志野は慶長年間(1596~1615)のわずか20年、最盛期はその半分ほどか?短命だった。


白洲信哉
写真提供:白洲信哉

白洲信哉

1965年東京都生まれ。細川護煕首相の公設秘書を経て、執筆活動に入る。その一方で日本文化の普及につとめ、書籍編集、デザインのほか、さまざまな文化イベントをプロデュース。父方の祖父母は、白洲次郎・正子。母方の祖父は文芸評論家の小林秀雄。主な著書に『小林秀雄 美と出会う旅』(2002年 新潮社)、『天才 青山二郎の眼力』(2006年 新潮社)、『白洲 スタイル―白洲次郎、白洲正子、そして小林秀雄の“あるべきようわ”―』(2009年 飛鳥新社)、『白洲家の流儀―祖父母から学んだ「人生のプリンシプル」―』(2009年 小学館)、『骨董あそび―日本の美を生きる―』(2010年 文藝春秋)ほか多数。近著は、『美を見極める力』(2019年12月 光文社新書刊)。