フィンランドのヘルシンキにて、世界最大級の起業家イベント「SLUSH(スラッシュ)」が2021年12月1日(水)・2日(木)の2日間で開催されました。前年は新型コロナウイルスによるパンデミックの影響で中止となったため、2年ぶりとなります(過去には、英国ウィリアム王子やアル・ゴア元米国合衆国副大統領も出席しています)。

感染予防対策として、全体の入場者数は前回開催時の約3分の1(約8800人)に縮小され、対面での商談機会を設けたスタートアップ創設者(約3200人)や投資家(約1700人)のほか、学生ボランティアなどが参加。本イベントの現地レポートを、ヘルシンキ在住のサカリ・メシマキがお届けします。

《Profile・経歴》
サカリ・メシマキ
(Sakari Mesimäki)

スタートアップ,フィンランド,起業家,slush,現地レポート,prince william,スラッシュ,

イギリスのケンブリッジ大学の日本研究学部を卒業し、東京でビジネス開発やコミュニケーションのコンサルティング会社で数年間働くことに。2020年にはフィンランドのヘルシンキ大学で社会文化人類学の修士号を取得。現在はケンブリッジ大学社会人類学学科で博士課程の勉強を進めている。もともとは、日本における政治参加を研究する予定であったが、コロナ禍の影響による入国制限によって研究課題を再考し、現在(2022年)は以前から興味を持っていた母国フィンランドのスタートアップ界の世界観の研究を開始している。


《目次》

「今後10年間の私たちの行動は、これからの世代の進路を決定します」「人類が直面している最も深刻な問題に対し、取り組むための時間がなくなっています」「すべての若い企業が経済的利益を追求するだけでなく、従業員、社会、そして地球に対する責任を認める必要があります」

これらの訓示的な言葉は、投資家や起業家を集めるカンファレンス「SLUSH」の2021年の決議からだ。

「SLUSH(スラッシュ)」とは?

SLUSHは、フィンランドのヘルシンキで2018年から毎年行われるようになった、スタートアップ創業者とベンチャーキャピタルとの出会いの場といった役目を果たすイベントだ。これはスタートアップ文化をフィンランドで推進したかった起業家や大学生などが始めたものであり、コロナ禍前の2019年のカンファレンスでは2万5000人の参加者を集めるほど、国際的にも注目を集めるイベントになっている。

「SLUSH」=「水雪」というネーミングは、イベントが行われる11月あたりのフィンランド特有の“嫌な天気”を逆手にとったブランディングだ。カンファレンスセンターの内部がナイトクラブか音楽フェスのような雰囲気に設定され、最終日に行われるアフターパーティーに関してはすでに世界的にも注目を浴びる存在。そこでは出会えるのは大企業のおじさんではなく、次世代の起業家たちなのだ。

スタートアップ,フィンランド,起業家,slush,現地レポート,prince william,スラッシュ,
Petri Anttila
“NOBODY IN THEIR RIGHT MIND WILL COME TO HELSINKI IN NOVEMBER. EXCEPT YOU, YOU BADASS, WELCOME”(11月のヘルシンキなんかに訪れようななんて、まともな人間なら思いもつかないことさ。でも、あなたは来てくれた…つまり、そんな恐ろしいほど優秀なあなたを、私たちは歓迎する)という2016年のキャッチコピーは、毎年ごとに改めて話題にもなる。

一昨年(2020年)のカンファレンスは、コロナ禍によるパンデミックの影響により中止されたが、昨年(2021年)は約8800人の参加者に縮小して復活。それでも、「地球上で最大のベンチャーキャピタルの集まりだ」と、SLUSHのCOOであるEerika Savolainenがオープニングショーのステージで誇っていた。

オープニングショーでは燃える森、溶ける氷冠(ひょうかん=氷河の塊)、防護具姿の看護師など、世界が直面している問題を象徴するイメージがテクノ音楽とともにステージの大きな画面で流れ出す。SavolainenはCEOのMiikka Huttunen、そして社長のMikko Mäntyläと一緒に、今年のテーマである「ENTREPRENEURIAL RENAISSANCE(起業家精神的なルネサンス)」を語り出す。

多様性を活用し、大きなリスクを乗り越え本当に意義のある問題解決を目指す、そして実現することが、これからの起業家たる者の姿勢であり責務だと考える…。

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
Slush 2021 – Day 1 – Founder Stage
Slush 2021 – Day 1 – Founder Stage thumnail
Watch onWatch on YouTube

「起業家精神(entrepreneurship)は、私たちが欲しい未来を築くための最も効果的な方法です」とMäntyläが言う。ここに集まった才能によって、それらの問題が解決できるかによって、これからの人類が歩む進路は決まってゆくというメッセージだ。

インパクト」「パーパス(目的)」「責任」「サステナビリティ」のいった言葉が、今までにないほど目立っている。これはここだけではない、世界中で見られる傾向だ。世界経済フォーラムは1973年に、ビジネスリーダーのための倫理規定を示した「ダボスマニフェスト」を出している。そして2019年には、これを「ダボスマニフェスト2020」として改訂し、企業の社会全般への責任を主張する「Stakeholder Capitalism(ステークホルダー資本主義)」という議題を掲げ、その概念の推進を図り始めた。

※この「ステークホルダー資本主義」は、1973年の第1回のダボス会議ですでに提起された理念であるが、2020年のダボス会議で改めて主題となった。そして2021年のダボス会議でも、いまの社会全体を構成するさまざまなシステムを一端すべてここでリセットすることを示す「Great Reset(グレート・リセット)」をテーマに掲げながら、より一層の「ステークホルダー資本主義」の推進を目指している。

フィンランドの若き「チェンジメーカー」

次の世界経済フォーラム年次総会(「Working Together, Restoring Trust(信頼を取り戻すために一致協力を)」をテーマに、2022年の夏開催予定)へ、フィンランドの若き「チェンジメーカー」を送り出す「Finnish Flow」という組織も「How can Finland help the Planet?(フィンランドは、この惑星…地球をどのように助けるか?)」と問いかける…。

そうしてスタートアップ創業者を含むビジネス界の新星である8人のチェンジメーカーが、「メンタルヘルスの危機」や「環境危機」といったテーマを掲げてダボスに向かう。SLUSHに取材した海外メディアにも積極的に紹介されたこの組織からも、「ステークホルダー資本主義」の先駆けになろうと意気込むフィンランド経済界の野望が感じられる。

「企業の目的は利益だけではない」——これは、企業の社会的責任(CSR)の考え方の前提であろう。何十年もの間、企業の唯一の責任は「株主の利益である」という考え方で競争してきた。(1976年にノーベル経済学賞を受賞している)アメリカの経済学者ミルトン・フリードマンは、このような「Shareholder Primacy(株主第一)」という考え方で最も有名な論者であろう。現代のCSR論では、天敵のように繰り返し出てくる。

1970年のニューヨークタイムズに掲載された記事で、フリードマンは社会的責任の概念を強く批判している。社会的責任が単なるレトリックでないのであれば、株主の利益に反する行動でなければならないと述べている。

でも、私(筆者メシマキ)がSLUSHで聞いた社会的責任の話では、このような対立はなかった。

メインステージで「責任あるイノベーション」について話す投資家Hemant Tanejaは、「社会的なインパクトをもたらすビジネス」と「経済的に儲かるビジネス」とを区別することは“誤った選択だ”と主張する。「最高の企業とは、経済的にも社会的にも利益をもたらす」と言うのだ。その他に私が聞いたトークセッションのスピーカーや個別で取材した投資家、起業家、スタートアップの従業員も皆、 “社会的責任”と“経済的利益”の両立を唱えていた。

スタートアップ,フィンランド,起業家,slush,現地レポート,prince william,スラッシュ,
Tanu Kallio
責任あるイノベーションについて話すHemant Taneja。

「気候変動における投資家の責任」と称したパネルで、「Climate Tech(気候テック)への投資は慈善活動ではない」と聞く。「気候変動の話だけでなく、ビジネスケースから投資家へとピッチを合わせるべきだ」と、パネリストを務めた投資家Heidi Lindvallが起業家へアドバイスをしていた。「パーパス」と利益はつながっている、と。

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
ESG – Efficient or Not? | Slush 2021
ESG – Efficient or Not? | Slush 2021 thumnail
Watch onWatch on YouTube

でも、そうであるなら、社会的責任の概念はそもそも必要なのか? 気候変動の解決が直接利益につながるなら、それ以上に世界を救いたいといった利他的な思いに意味はあるのか? といった疑問に駆られた私はそこで、パネリストのLindvallに実際質問してみると、「人々はそれを求めているはず」との答え。「仕事のやり甲斐、パッション、モチベーションはそこにある」と…。

人材、顧客、投資ファンドのリミティッドパートナー、そして、世間全般がこれまで以上に企業から社会的責任を求めているのだ。このような話も繰り返し耳にする。「企業のさまざまなステークホルダーがプレッシャーをかけることによって、社会的責任を果たせずに成長して利益を生むことは、もはやできなくなっている」、という論理だ。

でも、これが今時の社会的責任の論理であれば、フリードマンとの対立は間違っているのではないか? 「株主第一」のフリードマンにとって、社会的責任というものは「利益を犠牲にするもの」という概念に他ならない。

「社会的責任」を果たす経営=最も利益を生む経営となるなら、「株主第一」の原則とは実質的な違いはないだろう。フリードマンは1970年の記事で、利益を追求しながら「社会的責任」を掲げる企業について、「偽善的な見せかけ」や「詐欺に近づいている」まで文句を言っているのだ。一方で、そのような見せかけが利益のためであれば、非難はできないとも認めている。SLUSHに来た投資家の話はフリードマンに複雑な気持ちを起こせただろう。

利益と社会的責任の両立

スタートアップ,フィンランド,起業家,slush,現地レポート,prince william,スラッシュ,
Julius Konttinen

経済的利益と社会的責任の両立について、ひたすら語る起業家の話をよくよく聴くと、実際にはまだまだ、それほど簡単にできるものではないこともわかってくる。社会的責任と経済的な利益の両立は当然のことなどではなく、政策や規制で両立できる状況を積極的に今後つくっていかなければならない面も多いにある。

環境にやさしい繊維「機械的プロセスでセルロース繊維を繊維産業用の繊維へと変換する」という技術を開発したSpinnovaReetta Hassinenが「今までの需給はとても市場原理的で…直接、顧客ブランドからきた」と説明する一方で、「私たちの繊維は何回も再利用できるが、その大きな可能性を実現するためのリサイクルのインフラがまだ存在しない。2025年までにEUで古着の回収が義務つけらる予定で、それはきっと必要なインフラの作成に助かるはず。でも、やるべきことはまだまだたくさんある」と語った。

経営のインセンティブを社会的責任へ向かせるため、政策だけでなく、企業の社会や環境への「インパクト」を測定することも重要とされている。インパクトについての客観的なデータを持てば、以前、外部性だったことがやっと企業内部の意思決定に反映されるであろう。このような世界感も、いまだ構成段階の真っ只中と言えるのだ。

2019年の調査によると、社会と環境へのインパクトを測っているヨーロッパのスタートアップの割合は20%以下だった。一方で、インパクトの可視化に取り組むスタートアップもぼちぼちと出ている。例えば、2021年6月にNASDAQとも連携を始めた「The Upright Project」は世界の全ての企業の「ネットインパクト」を定量化するモデルをつくっている(ちなみにFacebookのネットインパクトは+49%、ソフトバンクは+37%、日本たばこは-389%だ)。

つまり、SLUSHで提唱してる経済的な利益ももたらす「社会的責任」というものは、まだまだこれから時間を擁して成熟していくということになる。利益との両立は現状では難しく、その両立を現在は言葉で唱えている段階と言えるのだ。そのような社会的責任を肯定する高尚な言動に始まる、そして個々人の真剣な利他的な動機、および具体的に両立を成立させようと促す政策・規制および測定方法もできあがってくれば今後、ステークホルダー資本主義を着実に動き出することになるかもしれない。

「道徳的労働の分割」とフリードマンの「株主第一」

フリードマンの「株主第一」はよく比較されるが、現在の社会的責任の特徴を理解するには、ビジネス倫理学の教授Jukka Mäkinenが使う「道徳的労働の分割」の概念がより役に立つはず。社会を維持する政治的・経済的・社会的側面に関しての責任が、どう分担されるか?ということになるのだ。

Mäkinenは政府の役割と、ビジネスの役割に応じて分析を重ねる。フリードマンの理想はもちろん、最低限の政府とビジネスの社会的責任も最低限であるような、社会の維持を市場原理に任せる分割だ。ステークホルダー資本主義も(一般のCSR思想と同様に)、政府の介入より企業の自主規制を好むもの。だが、一方ではビジネスにより広い社会的役割(より大きな道徳的労働の負担)を想定しているのだ。

「起業家精神は、私たちが欲しい未来を築くための最も効果的な方法です」

スタートアップ,フィンランド,起業家,slush,現地レポート,prince william,スラッシュ,
Petri Anttila

フィンランドのスタートアップ界の話になると、今後、どのような分担へと変化していくのか?

2010年代前半は、「スタートアップが経済成長に貢献することができれば、フィンランドの未来を救うだろう」と、スタートアップの重要性に関して語られる程度の段階であった。だが、現在では経済成長への期待だけでなく、直接何か、社会問題か環境問題に対して実態のある取り組みをしているかが一般的な企業への評価対象となっているのだ。

このような企業の社会的な役割の拡大は、フィンランドや日本を含む多くの先進国で見られる政府の役割の縮小にも、おそらく関係していくだろう。社会福祉への予算削減などにより、政府や政治への信頼は低下していく。するとその穴が、そのまま民間の経済的な利益を生む余地になっていくかもしれない…。

こう見ていくと、「企業の社会的責任というのは、企業が外部環境に対しての責任をきちんと果たしているか?」だけでは終わらない。私たちが望むような社会と環境を実現する主導権を、どこまで企業に任せたいのか、という話でもある。少なくともSLUSHの主催者の答えは明らか…「起業家精神は、私たちが欲しい未来を築くための最も効果的な方法です」ということだ。