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本当に観る価値がある官能映画 考えさせられる12の作品
これらの映画にはエロティック要素がありながら、さらに人間関係や政治の現状、そして入り組んだプロットの構成によって、物事と対峙する際に重要となる考察することのきっかけを与えてくれるでしょう。
セックスや親密さを大画面で楽しめることは、確かに素晴らしい要素です。が、ストーリーの性的要素からさらに一歩進めたストーリーを展開しうる奥深い映画も多々存在します。
ここにリストアップした映画は、多かれ少なかれエロティックな要素があります。ですが、これらは映画館であなたを戸惑わせるだけではありません。その奥で展開する人間関係や政治状況、さらには入り組んだプロットを追いかけているうちにあなたは考察することの魅力を知るでしょう。
そんなわけで、ここに映画史上最も優れた官能映画をご紹介します。もちろん、そこに展開するのは性的本能だけではありません。あなたの知性もフル回転する映画ばかりでしょう。
※この記事は抄訳です。
『アイズ ワイド シャット』(1999年)
スタンリー・キューブリックは自身が製作するすべての作品において、自らの哲学を多少なりとも盛り込まずにはいられない性分の監督です。それは…ニコール・キッドマンとトム・クルーズが裸で愛撫し合っているときでさえです。
著名なスロベニアの哲学者であるスラヴォイ・ジジェクは、「この映画は、女性の欲望が男性のそれをはるかに陵駕していることを表現している」と主張しています。
クルーズが演じる主人公は、自身の欲望の在処と向き合えないがゆえに、頓珍漢にも不倫という概念の境界で迷い悩みます。その一方でキッドマン演じる妻は、自身の性的欲求とその限界を完全に受け入れています。全く異なるステージにいるため、解りあえない夫婦…。まるでクルーズ自身を誇張し映し出したかのようなこのフィクションは、間違いなくトム・クルーズの代表作のひとつと言えるでしょう。
『ブルーベルベット』(1986年)
ローラ・ダーンが演じる経験のない女性の社会生活と、イザベラ・ロッセリーニの倒錯したスラムのセックスとの対比がカイル・マクラクランの眼前で繰り広げられ、彼が大人の階段を昇って行く様を描いています。
しかしながらこれは、デイヴィッド・リンチがこの傑作に込めた数多くの要素の解釈のひとつに過ぎません。サドマゾヒズムのシーンの荒々しさと同様に、この作品に対する考察には深遠なものが多くあります。これは疑問の余地なく、1980年代を代表する映画のひとつです。
『ニンフォマニアック』(2013年)
ラース・フォン・トリアーは、ポルノ映画になるギリギリの境界線を越えて、この深い哲学的な考察の物語を構築しました。シャルロット・ゲンズブールとステラン・スカルスガルドの会話は、悪の本質、性的充足、あるいは中絶の妥当性についての観念を観客に抱かせます。
数々のリスクを負ってもなお、主人公が性欲を鎮めるために奮闘しては失敗していく物語の旅路は、スクリーンに映し出される生殖器に対する世俗的な解釈を超越し、「性に振り回される人間の本質的な不幸」という哲学的なゴールへとたどり着くのです。
『氷の微笑』(1992年)
『アイズ ワイド シャット』のような映画は、エロスがより哲学的な意味で思考させようとする原動力になるのに対し、このポール・バーホーベンによる1990年代におけるエロティック・スリラーでは違う役割を果たしています。この物語の中でエロスは、犯人が誰であるか?を突き止めるためのスパイスとして利用されています。
誰が嘘をついているのか? 誰が秘密を隠しているのか? そして、誰が下着をはいていないのか? そのような展開を推し進めてくれるのです。
これは官能表現を実に効果的かつ機能的に利用していると言えます。ですがそこには、思っている以上の深みはないと言っていいでしょう。そんな作品ですが、これを90年代を代表する映画のひとつと言っていいのでしょうか? もちろん、90年代ならではの名作です。
『クラッシュ』(1996年)
ギリシャ神話になぞれば「エロス」と「タナトス」…「セックス」と「死」の関係を数々の不穏な映像と、誰もが無関心ではいられないストーリーで描いたデヴィッド・クローネンバーグ監督の代表的作品です。全編の80パーセント以上が、セックス・シーンで埋めつくされています。
そこにはロシア出身の精神分析医ザビーナ・シュピールライン、およびフロイトが研究したくなるかもしれないような精神的疾患の持ち主ばかりが登場します。通常とは違う性行為の方法でエクスタシーを感じる者たちが、その倒錯ぶりを見せる圧巻の映画です。その中でも強調されているのが、自動車事故を媒介にして得られるエクスタシー。事故の後、車内でセックスする展開を見ているうちに、あなたもフェティシズムの正体をだんだんと理解できるようになるかもしれません。
『バーガンディー公爵』(2014年)
ピーター・ストリックランド監督による本作品ほど、パンティを手洗いすることがセクシーに感じられることはないかもしれません。
おとぎ話のような家に同居し、奇妙な(そして官能的な)関係を維持する2人の女性が登場。そこにはドSなご主人さまとドMなメイドによる、ある意味でwin-winな心理スリラーが展開されるのですが…。
官能性が介在する関係性において、人はそれを維持するためにどれだけ譲歩し、その幸福を維持するためにどこまで耐えられるのかを考えさせる作品でもあります。この二人の女性の関係から、結婚生活や恋愛関係の原理を再確認するには最適かもしれません。
※日本未公開作品
『LOVE』(2015年)
露骨なだけでなく、実際になされているセックスシーンでより有名になった作品です。
ギャスパー・ノエのこの映画は、人間関係、不倫、性欲、共生について興味深い考察を凝らしています。トキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)やポリアモリー(合意の上で複数のパートナーと関係を築く恋愛スタイル )も、この物語のプロットを貫くコンセプトです。
『お嬢さん』(2016年)
『オールド・ボーイ』のパク・チャヌク監督による本作は、1930年代日本統治下の韓国を舞台に、異なる視点や空間を行き来しながら富豪令嬢とそのメイドとの間に繰り広げられる性的な葛藤を描いています。
彼女らの出会いとキム・ミニが演じる主人公の秀子が語る性的な話によって、その物語はパズルのように組み立てられるところも官能的なポイントです。家父長制と男性の性に隷従(れいじゅう)していると見せかけた2人が、連帯感のよって自身の望むセックスと人生を同時に取り戻すストーリ―展開は非常に現代的な寓話と言えるでしょう。
パク監督が恐るべき映像手法と緻密なプロット、そして的確な演出によって描き出した男女の危うい関係は、カンヌ映画祭で監督賞を獲得した『Decision to Leave(英題)』(2022)と併せ、間違いなく観るべき最高の韓国映画のひとつです。
『欲望』(1966年)
ミケランジェロ・アントニオーニ監督のこの作品に登場する主人公トーマスは若き売れっ子カメラマン。われわれはこのトーマスが覗くカメラレンズを通して、いま目の前で起こっている出来事の現実性を疑うことになるでしょう。
結局、彼らが見ているもの、そして経験しているものは全て構築された幻想の一部ではないか? という議論が、この革命的かつ論争的映画の主な存在意義のひとつになっています。
ちなみに音楽は、ハービー・ハンコックが担当しています。
『マルホランド・ドライブ』(2001年)
“マルホランド・ドライブ”とは、ハリウッド郊外の山道。そこで起こった車の衝突事故で物語は始まり、ハリウッドへやってきた二人の女性が不可解な出来事に巻き込まれていく姿を通じてハリウッドの光と影を映し出していく物語です。
デイヴィッド・リンチ監督作品ですが、1986年製作の『ブルーベルベット』に比べるとセックスシーンは多くありません。ですが、リンチ監督のフィルモグラフィーの中でも最高傑作と称されるこの作品、夢と現実がボーダレスに融合するプロットの中でナオミ・ワッツとローラ・ハリングというキャラクターの同性愛関係が挿入されているところも官能的と言えるかもしれません。
ストーリーとしては支離滅裂で、結局最後まで何をやってるのかわからない?という人も少なくないでしょう(現実的でないシーンは、全て薬物中毒者の想像のシーケンスと思えば理解できるかもしれません)。でも、飽きることなく最後まで稀有な作品です。
アメリカの夢? ハリウッドの期待? 男社会である映画界の妄想により他者化されたレズビエンヌたちの性の存在が、その不穏な物語から浮かび上がってもくるでしょう。観終わった後に必ずや考えさせられる、貴重な映画のひとつでもあります。
『愛の嵐』(1974年)
ピエル・パオロ・パゾリーニの『ソドムの市(いち)』(1975)と時期を同じくして、軍隊、戦争、ナチズムを背景に、支配関係と性関係がどう結びつくのかを残酷に表現したのがリリアーナ・カヴァーニ監督による本作。
これを「エロティシズム」の定義から言うなら、絶対にエロティックな映画ではありません。その代わりに、そこにはさまざまなフェティッシュであり、暴力・差別に触れた性関係が描写された、「二度と観たくない、トラウマになる映画」であることは確か…。なので、この映画は無条件でおすすめできるものではないことを前提に、ここでリストアップしました。
そこには、軍事的・政治的独裁主義が資本主義と消費主義に置き換わっただけで、権力で性を支配する様々な事件が表出する現代において、「野放しにされた権力」が社会に及ぼす悪しき影響は改善されていないことのメタファーとして、「性」が革新的かつ論争の的になる方法で表現されています。権力勾配のある関係ではどんなセックスも「利用」され、「暴力」になりうる…非常にグロテスクで辛い映像が続くため、『ソドム~』同様、おそらく最後までフォローしきれないでしょう。ですが、それを乗り越えると、権威主義がいかに人間を魅了し同時に破壊していくかを告発するカヴァーニ監督の政治的考察の意義が見えてくるかもしれません。
Translation: Yumiko Kondo