山﨑晃裕
Eri Takahashi

小学3年生から野球を始め、2014年には障害者野球の世界大会に出場。そこで、大会最優秀選手賞に輝きます。そして翌2015年にはパラやり投げへと競技転向し、2016年には日本記録を樹立するなど一気に頭角を現します。

 現在も、東京パラ五輪で世界の頂点に立とうと日々練習に励んでいる山﨑晃裕選手。そこでそんな山﨑選手に、周囲からの期待とプレッシャーがある中でもこれまで結果を出し続けてきた自身の強さの秘密、さらには障害者スポーツの現状などについても語っていただきました。

“最初に憧れたのは、野球選手でした”

編集部:まずは、山﨑選手のアスリートとしての原点についておうかがいします。スポーツとの出合いはいつごろ、どのようなカタチでしたか?

山﨑選手(以下敬称略):小学生のときにプロ野球を生で観たのが最初です。母の実家が埼玉県所沢市にあるのですが、所沢と言えば西武ライオンズの本拠地ですよね。母に連れられてライオンズの試合を観戦したときに衝撃を受けたんです。スポーツを生で観戦するのは生まれて初めてでしたが、野球選手たちが間近でプレイする姿が迫力あって…。「あんな風に夢を追ってみたい」と感じました。そして地元・埼玉の少年野球チームに入ったのが小学校3年生のときでした。

 

編集部:当時、憧れの選手や目標にした選手はいましたか?

山﨑:アメリカのメジャーリーグ、ニューヨーク・ヤンキースなどで活躍したジム・アボット投手ですね。彼は僕と全く同じで、生まれつき右手の手首から先がない障害を抱えていた選手でした。それでも、ソウル五輪にアメリカ代表で出場して金メダルを獲ったり、ヤンキースではノーヒットノーランも達成してしまうような超人でした。

メジャーリーグという大舞台でアボット投手が大活躍する姿を観て、とても勇気をもらいました。あの方の存在があったからこそ、自分も夢を持って野球に取り組むことができたのだと思っています。

ジム・アボット投手
Bernstein Associates//Getty Images
1988年のドラフト1巡目(全体8位)で、アナハイム・エンゼルス(当時)に指名されたアボット投手。ニューヨーク・ヤンキースなどでも活躍し、10年間のプロ生活で通算成績は87勝108敗という成績を残しました。

編集部:アボット投手と言えばメジャーリーグ史に残るレジェンドの1人ですが、最初は健常者と一緒のチームでプレイしていたと聞きます。山﨑選手も同様に健常者と同じチームで野球をなされていたんですよね。

山﨑:セカンド、ピッチャー、レフトなどを経験しながら、健常者と同じ野球チームでプレイしていました。当時から運動神経には自信があったのですが、そもそも全てを片手でやらなければいけないので苦労…ではなく、工夫の連続でした(笑)。守備では、ボールをキャッチしたらすぐにグラブをスイッチしてからボールを投げる必要がありますし、バッティングもどうやったら片手でも打てるようになるのかについて、常に考えていましたね。

 

編集部:「片手でボールを掴んでグラブを持ち替えて投げる」「片手で握ったバットでボールを強く打つ」など、想像はできます。ですが、実際にやるにはとても難易度が高いですよね…。

山﨑:確かに難しいのです。でも、「自分にしかできないこと」だと思ってポジティブにトライしていました。それに、前例がないからこそやりがいを感じていたというのもあったと思います。「他人と同じでは面白くない」と思ってしまう人間なので…。だから、いかに自分だけの魅せ方ができるかを考えながら、「人と違うこと」に喜びを感じていましたね。

例えば僕の場合、「足は両方使えるんだから、サッカーをやればいいじゃん」って、周りから言われ続けてきたんです。その理屈はわかるんですけど、それでは面白くないですし、正直、目立てないじゃないですか(笑)。で、メジャーなスポーツの中で考えてみると、片手で競技するのが最も難しいのが、両手をバランス良く使う必要のある野球なのかなと…。

ならば、「あえて野球に挑戦しよう!」と思ったわけです。それに、「健常者の中に交じって僕が野球をやっていたら、観ている人に注目されやすいのではないかな」とも思いました。もちろん、野球はプレイするのも面白いですしね。

山﨑晃裕
Eri Takahashi
2月初旬の雨の中でも、黙々とトレーニングを重ねる山﨑選手。ときには佐藤コーチからの助言を受け、放たれたやりが美しい放物線を描いていきます。実際に投げるやりの本数は20本程度。イメージを膨らませながら、まるで作品を生み出すかのように1本1本丁寧に取り組む姿が印象的でした。
“1年間、本当に悶々としていました”

編集部:小学3年生から始めた野球は、高校卒業まで健常者と一緒に打ち込んできたわけですが、大学入学とともに障害者の野球チームに入部しています。何か心境の変あったのですか?

山﨑:実は僕が大学に入学した2014年は、偶然にも障害者野球の世界大会が開催される年でした。高校野球を引退した後にそのことを知り、「これはチャンス!」と思って障害者野球に転向したんです。大学の面接時にも、「僕は障害者野球の日本代表に選ばれて絶対に活躍します!」と猛アピールしたくらいですから(笑)。

大学ではスポーツ科学科を専攻し、生理学・運動学・トレーニング法など、スポーツ全般についてみっちりと学びました。トレーニングを理論的に学べたことは今も役に立っていて、きちんとした裏づけのもとに理論立てて理解して取り組めるようになりました。頭を使って練習することがいかに大切かを感じています。

 

編集部:そのおかげもあってでしょうか、見事、障害者野球の世界大会に出場しましたね。有言実行、素晴らしいです。おまけにご自身は、最優秀選手賞を受賞…思い描いていた通りの未来ではないでしょうか。

山﨑:そうかもしれませんね。1番レフトで出場して、チームとしては決勝でアメリカに負けてしまい準優勝…。やり切った清々しさがある反面、やっぱり悔しさもありましたね。でも実は、世界大会が終わってから1年くらいの間、野球を続けながらも物足りなさを感じていました…。ぼーっとする日々が続いて、なんとなく刺激が足りない。「人生がつまらない」なんて思ったりもしていました。

 

編集部:世界大会出場という目標を達成して、燃え尽きてしまったとか?

山﨑:う~ん、どうですかね…? 世界大会という特別な舞台を経験させてもらって、「障害者野球」という枠組みの中ではとても評価していただけるようになったと思うんです。でも、その枠から一歩外に出ると、世間の人たちには何も知ってもらえていないことに気づいてしまった…と言いますか。何が正しいのかは個人の判断だと思いますが、当時は「井の中の蛙」で終わってしまうような危機感や焦燥感を抱えていました。大会があってもメディアの数は少なかったですし、注目度はそれほど高くなかったように思います。

そこから学んだことは、「物事の価値は、クオリティーの高さだけでは測れない。いかに多くの人に求められているか、見てくれている人の数も大切なのでは?」ということでした。やっぱり、障害者スポーツをしている以上、どうしてもパラ五輪の存在は頭をよぎります。多くの人が注目する舞台ですし、それをきっかけに就職支援を受けられたり、企業のサポートを受けられたりもします。残念ながら野球はパラ五輪種目ではありませんし、その格差は非常に感じることでもありました。

山﨑晃裕
Eri Takahashi
山﨑晃裕
Eri Takahashi

編集部:そういった思いが、野球から陸上競技へと転向するきっかけにもなったのでしょうか?

山﨑:そうですね。障害者野球では一定の結果を出すことができましたし、達成感もそれなりにありました。この先、本気で別の競技に取り組むのであれば、多くの方に見ていただける競技に挑戦して、求められる舞台に立ちたいと思うようになりました。

そういった経緯で、パラ陸上への転向を決めたんです。障害者野球の世界大会が2014年11月で、パラ陸上に転向したのが翌年の11月…。先ほどお話した通り、その間の1年は本当に悶々(もんもん)としていましたね(笑)。

編集部:パラ陸上の中にもさまざまな競技がありますが、その中で、なぜやり投げを選ばれたのですか?

山﨑:それは偶然だったんです。障害者野球日本代表の強化合宿で同部屋だった選手が、野球と同時にやり投げもしている方でした。その方から、この先プロアスリートとして競技に取り組むのなら陸上がおすすめで、特に野球をしているから「やり投げが絶対に良い」とすすめられていたんです。当時は全く考えられない話でしたが、1年間自分と向き合う中で、「やり投げ、いいかも…」と少しずつ考えが変わっていきました。

それと、もう1つ偶然が重なりました。今お願いしている佐藤直人コーチが障害者スポーツセンターでやり投げのレクチャーをする日に、偶然その場に僕もいて、やり投げをゼロから教えてもらう機会に恵まれたんです。

さらに、最も遠くに投げられる可能性を秘めた種目という点が魅力でしたし、実際やってみると面白かったんです。「本気でやり投げをやるなら、(佐藤コーチの母校である)順天堂大学の施設でやろう」と言っていただけたことも後押しになりましたね。で、その翌2016年からは順天堂大学で練習をするようになりました。


編集部:やり投げに転向してみて、ご自身に合っていると思いましたか? そして、競技において、プレッシャーを感じることはありますか?

山﨑:そうですね。僕は瞬発系の競技が好きだったので、やり投げは自分に合っていると思います。練習も楽しいですし、何年も野球をやっていた経験も生かせているのかなと思います。

と言うのも、「投げる」という動作は幼いころからやっていないと、なかなか身につきづらい動きなんですよね。僕は神経が発達しやすいゴールデンエイジとも言われる小学校4、5年生のころには、すでに野球をやっていました。なので「投げる」という動作については、野球経験が有利に働いた所もあるように思います。それでもやっぱり、やり投げは野球とは投げる感覚が全く違うので、日々精進って感じですね(笑)。

何よりも今は競技を通して、地元や職場など多くの方たちからの応援をひしひしと感じています。まさに自分が求めていた環境ですし、そのことを実感できる喜びも大きいです。プレッシャー? いえいえ。応援していただけることに幸せを感じています。

山﨑晃裕
Eri Takahashi
トレーニングの冒頭には跳躍系の練習を。黙々とこなしていきます。
“やり投げって、芸術なんです”

編集部:パラやり投げの魅力や、どういった点に注目をするとより楽しむことができますか?

山﨑:個人的な意見ですが、そこには2つの見方が楽しめると思っています。まず1つ目が、やり投げは「投てき競技の中で最も遠くまで投げられる競技である」という点です。円盤投げや砲丸投げなどの種目もありますが、パラで60m以上の飛距離が出せるのは、やり投げだけですので…。

2つ目は、「やり投げとは芸術である」という点です。これは、僕のもう1つの拠点でもある、びわこ成蹊スポーツ大学の石井田茂夫先生が提唱していることでもあるんです。僕の投げるやりは、コーチ陣が力を合わせてつくり上げたものです。助走のリズム、流れ、投てきフォームから美しい放物線まで、すべてチームでつくり上げた芸術と言っていいでしょう。だから自分の投げるやりは、たくさんの人の想いが込められています。僕はそんな風に思いながら、やりを投げ続けています。

とにかく、やり投げはとてもシンプルで、わかりやすい競技です。見ていただける方には細かいルールや技術は度外視して、まずは「どれだけ遠くにやりが飛んだか」を単純に楽しんでもらいたいですね。

 

編集部:現在のトレーニングの進み具合はいかがですか?

山﨑:身体に負担の掛かる競技なので、フィールドで実際にやりを投げるのは週に2、3回くらい。残りの日は、身体づくりのトレーニングに励んでいます。現在は順天堂大学の職員として、9時から14時まで仕事をしているので、その後にトレーニングをしています。

パラ五輪本番のやり投げは8月31日で、代表選手は6月末くらいまでには決定する見込みなので、現在はパラ五輪出場を目指して、逆算しながら練習プランをこなしているところです。2014年の障害者野球世界大会のときもそうでしたが、自分自身、人生の節目のタイミングでいつも大きな舞台がやってきます。巡り合わせに恵まれているとしか言いようがありません。「客観的だね」ともよく言われますが、映画を観たり、本を読んだりするような気分で自分の人生を歩んでいます(笑)。

5年前に競技転向したときから、パラ五輪で表彰台の一番上に立つことを目標に掲げてやってきました。その思いは一度もブレたことはありません。地元の人もたくさん観てくれるでしょうし、これまでお世話になった先生方にも頑張っている姿を見せたい…。多くの人を勇気づけ、喜ばせたいと思って臨んでいます。

山﨑晃裕
Eri Takahashi

編集部:パラ五輪東京大会のその先には、どんな未来が見えていますか?

山﨑:健常者の中に入って、どこまでいけるかに挑戦したいと思っています。記録としては最低でも65mは出したいですね。キャリアが物をいう競技なので、30代で自己ベストを出す人もいるんですよ。

それから幼いころに、僕がジム・アボット選手に勇気をもらったように、同じような障害を持っている子どもたちに夢を与えられる選手になりたいですね。親御さんにも、その子の可能性を狭めることなく、いろいろな挑戦をさせてあげてほしいなって思っています。

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 こちらが投げるどんな質問にも、ていねいにテンポ良く答える山﨑選手。そのやりとりは心地よく、まさにキャッチボール。その言葉はシンプルでわかりやすく、まっすぐに飛んでいくやりのようでもありました。

 物事を理論立てて考え、明確な目標を立てて1つ1つクリアしていく…。そして、「人と違う」ということやプレッシャーも楽しみながら前向きに突き進むその姿に、アスリート気質を感じました。

 現やり投げ日本記録保持者…山﨑選手は、「2020年の8月の終わりに彼の最高の笑顔を見たい」と心から思わせてくれる、真っすぐな心を持った美しき勇者でした。

山﨑晃裕
Eri Takahashi

♢PROFILE
山﨑晃裕さん(やまざき・あきひろ)
…1995年、埼玉県鶴ヶ島市生まれ。順天堂大学職員。パラ陸上やり投げF46クラスの日本記録保持者。2015年にパラやり投げ界に彗星(すいせい)の如く現れた若手最大の注目株。デビュー翌年に日本記録を樹立し、現在の自己ベストは2018年に出した60m65cm(現日本記録)。主な戦歴に、日本パラ陸上競技選手権2016〜2019優勝、2018年アジアパラ大会で5位入賞などがある。


 東京五輪・パラ五輪は当初2020年7月24日からの開催が予定されていましたが、新型コロナウイルスの世界的流行により、「1年程度」延期されることが決定いたしました。
 それでもなお、開催を心待ちにされている読者の皆さまに向けて、「Esquire」は今後も変わることなく、東京五輪に向けて全力で取り組むアスリートや、彼らを支える人々の姿をお伝えしていきます。これからもぜひご期待ください。