◇アメリカ対ソ連の時代 

 1962年10月27日、世界は小さな島国のキューバを固唾(かたず)を呑んで見守っていました。アメリカ、ソ連という2つの超大国が、このとき核戦争へと向かってまっしぐらに突き進んでいくかのように見えたからです…。しかしながら、カリブ海で大きなドラマが繰り広げられている間に、もうひとつの国際事件が東シベリアで秘かに起こっていたのでした。 

 ソ連の核実験を監視するミッションの一環として、米軍パイロットであるチャールズ・W・モルツビー大尉は、北極へ向けて飛行する指令を受けていました。GPSができるはるか以前のことであり、北極近くではコンパスが役に立たないためにモルツビーは、昔の船乗りのように六分儀(天測法や正中緯度法、地文航法などに使う船の道具)と空の星だけを頼りにして飛行していました。

 ところが帰還している最中、オーロラのせいでモルツビー大尉は星の見分けがつかなくなり、いつの間にかソ連の領空を侵犯してしまっていたのです。

U-2
UNDERWOOD ARCHIVES / GETTY IMAGES
航空機「U-2」

 通信機器は距離が遠いため使用することができず、ソ連の通信係からはソ連領空のさらに奥へと侵入させようとする妨害が入ります。アメリカの偵察機を撃墜せよとの指令を受けた「ミグ19(MiG-19とはソ連初、世界で2番目の超音速戦闘機)」が、すでにソ連の複数の基地からスクランブル発進していました。 

 窮地に陥ったモルツビー大尉ですが、彼は経験豊富かつ有能なベテランパイロットです。冷静さを失うことなく、ソ連のラジオ放送を受信した場所から位置を割り出し、安全な空域へ脱出できることを願って飛行コースを修正していました。 

U-2が撃墜されるのは時間の問題でした。もしモルツビーが急激な旋回をしようものなら、あっという間に翼は壊れてしまいます

 そのころソ連のミグ戦闘機は、モルツビー大尉の1万フィート(約3000メートル)下を飛行していました。ミグの上昇限度高度は6万フィート(約1万8000メートル)です。なので、上昇限度高度が7万フィート(約2万1000メートル)以上ある高高度偵察機「U-2」が飛行する高度まで到達することなどできませんでした。しかしながら「U-2」は武装せず、スピードも遅い…。撃墜されるのは時間の問題とも言えました。

 そして、もしモルツビー大尉が撃墜を避けるため、急激な旋回をしようものなら…あっという間に「U-2」の翼は壊れてしまうでしょう。実際、このアメリカのパイロットの安全を保っていたのは、この偵察機と下の戦闘機とを隔てている距離だけだったわけです。 

 しかしその間、燃料は減っていくばかりで、いつまでもこの状態を続けていられないことは彼もわかっていました。モルツビー大尉は同盟国の領空に近づいていることを願って、エンジンを切る決断を下します…。「U-2」の大きな翼を利用して、グライダーのように、できるだけ遠くまで滑空していこうというわけです。驚いたことに「U-2」は、高度7万フィート(約2万1000メートル)を維持したまま、10分ほど飛び続けます。そして、ようやく下降しはじめました。 

 そうして機体は、攻撃を受けることなく高度6万フィートの地点を通過…。さらに高度2万5000フィートまで下降するころには、「U-2」を救助しにきた戦闘機「F-102」と合流することができたのでした…。 

 モルツビー大尉がアメリカの基地に無事生還できたのは、彼のパイロットスピリットのおかげであることは否定できません。ですが、それだけではありません…。高い高度を飛行する「U-2」のエンジンが、10年近く前に想定されたとおりの性能をここで発揮してくらたからでもあるのです。

飛行機,航空機,旅行,U-2,歴史,美しい,アメリカ,ソ連
MUSEUM OF FLIGHT FOUNDATION / GETTY IMAGES
写真は「X-104」。この胴体が後に、「U-2」の基礎となります。

◇まったく新しい脅威

 1949年に初めて原爆実験を行ったソ連は、1950年ごろから国境に接近する航空機に対して、積極的に攻撃をしかけてくるようになります。

 当時、世界で唯一の核保有国だったアメリカは間もなく、自分たちが独占的な立場を失ったばかりか、敵にリードを許していることに気がつきました。そんな状況下、アメリカはソ連に関して、爆撃機に関しての様々な情報、ICBM(大陸間弾道弾)の開発状況、さらにどれくらいの核兵器を保有しているか…などなど、国防総省にとっては喉から手が出るほど知りたい情報がたくさんありました。ですが、その情報を得るための明確な手段が、当時は見あたらなかったのは事実なのです…。 

 アメリカが偵察衛星を打ち上げるのは、この10年先のこと。そして、ソ連の核兵器開発の進捗状況を知るに必要な写真の解像度が得られるまでには、さらに20年を要しますわけです。そのような状況下であったこの時代のアメリカとしては、「攻撃を受けることなくソ連の領空内に侵入できる航空機」がどうしても必要だったわけです。

 「マーティン B-57」のような、すでにある偵察機を改造するだけの性能では不足であると考え、その案はすぐに放棄されます。さまざまな状況を鑑みるに、当時は全く新しい偵察機を一からつくる必要があることが明白だったわけです。 

 そして1953年にアメリカ空軍は、高度7万フィートまで到達でき、およそ3000マイル(約4800キロメートル)を無給油で飛べるような航空機の設計案を探し始めます。当時、ソ連の最も優れた迎撃戦闘機だった「ミグ17」でも、到達高度は5万4000フィート(約1万6500メートル)あたりが限度。レーダーシステムにしても、6万5000フィート(約2万メートル)以上までターゲットを追跡できるものはほとんどなかったからです。実際アメリカのほうも、そのわずか5年前に初めてのジェット戦闘機である「ロッキードP-80」の運用を開始したばかりだったのです。この機の実用上昇限度は、4万7000フィート(1万4300メートル)とされています…。 

 さらに、それだけの高度から2.5フィート(約75センチメートル)の物体を識別できる解像度を有する写真が撮れるカメラを搭載する必要もありました。そのようなことができるカメラなど、この時代にはひとつもありません。なのでロッキード社は、ハーバード大学のジェームズ・ベイカー、およびパーキンエルマー社のリチャード・スコット・パーキンと契約をかわして、450ポンド(約200キログラム)しかない新しい飛行機の積載重量を超えることなく、必要な解像度が得られるようなカメラも特注することになったわけです。 

 そこで登場したのが、ロッキード社の特別開発チーム「ロッキード・マーティン先進開発計画(Lockheed Martin's Advanced Development Programs)」、通称「スカンクワークス」のチーフエンジニアだったケリー・ジョンソン氏です。彼はすでにアメリカ軍のため、「P-38」や「F-104」などの飛行機を設計した実績があり、後には「SR-71 ブラックバード」の設計も手がけることになる人物です。

 そう、彼の提出した設計案は、いつも実に風変わりなものでした。

 当時、彼が提出した航空機の案は、「XF-104」の機体を改造したもの。シングルエンジンでグライダーのような翼を持ち、軽量化を徹底した結果として着陸用の装置は不十分でした。

 2015年に使用されている「U-2」の着陸シーンの動画を下でご確認ください。

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
U-2偵察機の難しい着陸(並走車の車載映像) - U-2 Dragon Lady Difficult landing
U-2偵察機の難しい着陸(並走車の車載映像) - U-2 Dragon Lady Difficult landing thumnail
Watch onWatch on YouTube

 最近実用使用されている「U-2」もこのように、着陸用の車輪が胴体前部と後部の2箇所にしかありません。なので着陸時には、並走車がU-2の翼が地面につかないよう指示を出しながら、十分に低速になったところで翼端を地面に擦りつけて着陸。補助輪を装着して滑走路から移動を行わなけらばいけない…など、現在でも奇抜なつくりのDNAは受け継がれています。

 なので当時のアメリカでは、理解などできるはずがなかったことでしょう。この当時の設計案は、軽く見送られてしまいます…。


◇高く飛ぶこと

飛行機,航空機,旅行,U-2,歴史,美しい,アメリカ,ソ連
Getty Images
1953年12月8日、第34代アイゼンハワー大統領がニューヨークの国際連合総会で演説を行い、「平和のための原子力」という原子力に対する考え方を提唱。

…しかし、アイゼンハワー大統領には別の考えがありました。

 ソ連の核開発計画に、是が非でも目を光らせておきたいアイゼンハワー氏は、CIAが独自に偵察機の開発計画を進めることを承認したのです。 

 というわけでロッキード社は、急遽新たに「U-2」の設計と組み立てに取りかかわけです。そして、たった8カ月でそれを完成させました。ジョンソン氏と彼のチームは秘密裡に、頼りになるコンピューターを使うことなく、手作業で仕事を行っていったのでした…。

 計画の秘密を保つため、ほかの従業員にも知られることがないよう、休み時間や日曜日などにロッキードの工場で組み立てを行うこともしばしばでした。

 そしてロッキード社は、大きな困難の数々にも直面しました。高度7万フィートというと、かろうじて機体を浮かせていられる程度の大気しかなく、コクピットの与圧が失われると、パイロットに血液の沸騰を引き起こしてしまうのです。

「与圧服なしだと、コクピット内の急激な減圧によって、血液や細胞組織に溶け込んでいた窒素が気泡となり、血流や関節などに…」

 「我々が与圧服を着用するのは、気圧が急激に下がったときに起きる減圧症から身を守るためだ」と、米『ポピュラー・メカニクス』誌に語るのは、「U-2」のパイロットを務める第99偵察飛行隊の“トーチ”・ミラー少尉です。

 「与圧服なしだと、コクピット内の急激な減圧によって、血液や細胞組織に溶け込んでいた窒素が気泡となって、血流や関節などに出てくるわけです。それが脳まで運ばれたときには、体は正常に機能しなくなります。場合によっては、命を落とす危険性もあるのです」 

 しかし、そのような危険があるにもかかわらず、CIAは高高度を飛行することが重要であると考えていたのです。それは…それだけの高度になれば、ソ連戦闘機や地対空ミサイルからの攻撃が避けられ、レーダーに捕捉されることもなくなる…という考えられたからです。


◇エリア51で浮かび上がってきた問題点の数々

飛行機,航空機,旅行,U-2,歴史,美しい,アメリカ,ソ連
CENTRAL PRESS / GETTY IMAGES

 「U-2」の初飛行は1955年8月1日で、CIAとスカンクワークスが“ウォータータウン”と呼ぶ、ネバダ州の人里離れた乾燥湖の湖底で行われました。周囲には原子力委員会(AEC)の核実験場や新兵器の試験場などがあり、しかも人里から遠く離れていることから、試作機を人目に触れぬようにするにはぴったりの場所でした。 

 仮設滑走路と格納庫があるこの乾燥湖の湖底は、その後、極秘開発される様々な飛行機のテスト飛行にも使われるようになり、最終的にまったく別の名称で呼ばれるようになりました。それが、かの有名な「エリア51」です。 

 しかし、最初のころに行われたテスト飛行では、U-2は完全無欠にはほど遠い状態で、新たな問題が次々と浮上してきました。高度が高くなると密封状態から洩(も)れが生じるようになり、着陸後には変則的な着陸装置のブレーキがうまく効かず、飛行機のスピードを落とすことができませんでした。

 さらに、ジェット燃料に関しても問題が浮上してきます。高高度で気圧が低くなる影響でエンジンが突然、燃焼停止状態(フレームアウト)に陥ってしまうのでした。また、大きな翼にも問題があって、パイロットが着陸しようとしても機体が滑走路の上で浮かび上がろうとしてしまうのです。 

 これらの問題点の解消にチームは決死の覚悟で努めたものの、完全に取り除くことはできませんでした。

飛行機,航空機,旅行,U-2,歴史,美しい,アメリカ,ソ連
JOHN BRYSON

 「長時間のミッションをこなしたあとにはいつも、この飛行機を着陸させるという大きなチャンレンジが待っているんだ」と取材に語るのは、元U-2パイロットのサム・クラウズ氏です。

 「バランスをとるのがすごくたいへんで、滑走路の30センチくらい上で失速(ストール)させ、尾翼が下がっていることを確認しながら、機体のコントロールを方向舵から後輪へ切り替えるんだ」 

 さらにまずいことには、この飛行機が軽量構造のため、パイロットがスピードを出しすぎると機体がバラバラに壊れてしまう危険性があったのです。そして、試験飛行を続けていくうちに高度7万フィートを適切に航行するときの、いわゆる“コフィン・コーナー”(高所を飛行する際には、飛行可能な最低速度と最高速度の差が縮まります。その飛行可能な範囲)が、およそ6ノット(約時速11キロメートル)の幅であることがわかりました。速度が遅すぎるとエンジンがフレームアウトを起こし、速度が速すぎると機体がバラバラになってしまう恐れがあるのです…。 

 多くの問題を抱えながら…極秘のテスト飛行ではクラッシュを繰り返しながらも、ソ連の核計画を知る可能な限り早く察知しなければ…という必要性から、「U-2」は初飛行の1年後に実務につかなければならなかったでのです。

◇古い飛行機に新しい技を

飛行機,航空機,旅行,U-2,歴史,美しい,アメリカ,ソ連,機体,登録,写真,平和のための原子力,核,核兵器
SCIENCE & SOCIETY PICTURE LIBRARY / GETTY IMAGES
一機の「U-2」に急いでNASAのマークを描き、ニセのシリアルナンバーをつけていた。

 およそ4年の間、「U-2」はCIAの管理下でソ連のはるか上空で活動を行いました。運用開始の数年後には、ソ連のレーダーが「U-2」を捕捉できることが明らかになりましたが、たとえ迎撃戦闘機がスクランブル発進しても、ソ連の手の届かない高度を飛んでいるため、いかなる攻撃も受けることはなかったのです…1960年5月1日までは。 

 その日は、パキスタンの基地から飛び立った「U-2」パイロットであるフランク・パワーズ氏は、ノルウェーに向かって飛ぶ飛行経路を取りました。このフライトパスは、ソ連の領空上を2900マイル(約4667キロメートル)にわたって通過するものです。そしてその途中で、このパワーズ氏の「U-2」はソ連の対空ミサイルに撃墜されたのです。一方、高度6万5000フィートからから緊急脱出に成功したパワーズ氏。これだけ高度の飛行です、緊急脱出の際には「命は助からない」という前提での活動でした。が、パワーズ氏は一命を取りとめるものの、そのままKGBに捕らえられてしまったのです。

 この事件は、その後「NASAが調査飛行を行っていたうちの一機が、トルコ上空で行方不明となる」として報道されます。これはアメリカが、ソ連を偵察していた事実を隠すための隠蔽(いんぺい)工作です。「コースを外れてソ連領内に入った可能性が高い」との発表後、急いでプレス提出用の写真を撮るため、一機の「U-2」にNASAのマークを描き、ニセのシリアルナンバーをつけましたのでした。そうしてその写真を、マスコミへ流したのです。 

 この件に関しソ連は、数日間、「アメリカ当局が話をでっちあげている」ことを見守っていました。やがて、「実はそれがスパイ活動であり、パイロットの身柄を確保している」ということを暴露します。

 この事件によってアメリカとソ連の関係はさらに冷え込みます。一方、パワーズは後に、ほかのアメリカ人とともに、アメリカに捕らえられたソ連のスパイ、ルドルフ・アベル氏との身柄交換で釈放されることになります。 

 この撃墜事件によって、CIAがソ連上空で行っていた「U-2」の偵察飛行には終止符が打たれます。ですが、高高度における「U-2」の活動が終わったわけではありませんでした。

飛行機,航空機,旅行,U-2,歴史,美しい,アメリカ,ソ連,機体,登録,写真,平和のための原子力,核,核兵器
CBS PHOTO ARCHIVE / GETTY IMAGES
写真は、ジャーナリストのウォルター・クロンカイト氏。1960年、メーデーの日(5月1日)にソ連を偵察飛行していたアメリカ合衆国の偵察機「ロッキードU-2」が撃墜され、偵察の事実が発覚した事件を伝えています。

 「『SR-71』を別にすると、『U-2』ほどユニークな経歴を持った飛行機は、ほかにないんじゃないかな」とミラー少尉は語っています。「冷戦中は、ずいぶん恥知らずな飛行機の使い方をしたものです。そういった気風のDNAは、今日の活動にもきっと残っていると思います」とのこと。 

 その後、「U-2」の運用は空軍の管理下に入って、それが60年近く続きました。その間、プラットフォームは何度もアップグレードされており、その中には80フィート(約24メートル)もある翼長をさらに103フィート(約31メートル)まで伸ばしたものもあります。

 新たに採用されたターボファンエンジンによって、限界高度が7万4000フィート(約22555メートル)へと上昇する一方、フレームアウトは減少して、最高速度も時速500マイル(約805キロメートル)を超えるまでにスピードアップします。

 最新の(そして極秘の)装置やセンサーのおかげで、「U-2」はこれまで以上に正確かつ効率的に戦闘地域の偵察を行うことができるようになります。それによって、衛星ではカバーしきれない場所での偵察を行うようになります。

 「およそ8時間もあれば離陸して、カリフォルニア州全体のカバーすることができます」と語るのは、トラヴィス・“レフティ”・パターソン少佐です。「どのくらいの精度かと言うと、もし誰かが新聞を広げて読んでいれば……たぶん、その見出しくらいは読めるでしょう」と語ります。 

 外国の基地に頼らなくてもすむように、空母での運用が可能な改造が行われたこともありました。しかし、一般に知られている限りでは、これまでアメリカの空母から発進して偵察飛行を行った「U-2」はありません。


◇異色の飛行機

飛行機,航空機,旅行,U-2,歴史,美しい,アメリカ,ソ連,機体,登録,写真,平和のための原子力,核,核兵器
GREG MATHIESON/MAI / GETTY IMAGES

 度重なるアップグレードや変更にもかかわらず、「U-2」は今日でも、当初と同じように異色の存在であり続けています。

 いかにも不安定そうに見える着陸装置は、機体に収納されるようになってはいますが、それをサポートするのは両翼先端の“ポゴ”(補助輪)だけです。コクピットからの視界も依然限りがあるもの。なのでパイロットは、着陸態勢に入った飛行機のすぐ後方を走りながら、必要となるコース修正を指示する車両(チェイスカー)の助けを借りなければ着陸を完了させることはできません。

 誕生から60年以上になりますが、「U-2」を操縦することは、軍のパイロットにとっても極めて難度が高く、そしてユニークな体験でもあるのです。

 「この機で低い高度を飛ぶのは、大変なんだ。ものすごい集中力が要求されるし、この機はメカニカル・フライト・コントロールだけなので、思いどおりに動かすためには、自分の手で色々な操作をしないといけない…」とミラー少尉は語っています。

 「長時間におよぶ偵察飛行を遂行するには、精神的にも肉体的にも忍耐力が必要になる。与圧服を着用したまま、11時間もシートベルトで緊急脱出シートに固定されているなんて、誰にでもできることではないよ」 

 近年では、「U-2」のパイロットは、イラクやアフガニスタン上空で偵察任務を行っており、それらは最高で12時間におよぶものでした。しかし、彼らがこの地域で収集したイスラミックステートやタリバンの位置情報などは、貴重でかけがえのないものでした。

 空軍が長年運用している他の航空機とは違って、現在稼働中の「U-2」は1960年代に飛んでいたものとはプラットフォームが異なっているわけです。開発開始から1989年までに製造された「U-2」は全部で104機あり、1981年には新しいタイプの「U-2R」が導入されました。このニューバージョンでは、地上をスキャンする側方監視レーダーをはじめとして、数々の改良が加えられています。

飛行機,航空機,旅行,U-2,歴史,美しい,アメリカ,ソ連,機体,登録,写真,平和のための原子力,核,核兵器
JONATHAN DEVICH / GETTY IMAGES

 空軍は無人機の「RQ-4 グローバルホーク」を重用する計画のもと、2014年には「U-2」を退役させる予定を立てていました。ですが、偵察に関してはいまだに「U-2」のほうが無人機よりもはるかに優れていました

 「U-2」なら、無人機よりも重くてクオリティーの高いセンサーを搭載できますし、運用コストも無人機より安くすむのです。 

 ソ連崩壊後は、空軍でスパイの任務にあたっていた「U-2」はすべて、新型の「U-2S」にコンバートされました。現在、いまだ31機の「U-2」が稼働中ですが、それらはすべて、正式の型名は「U-2S」ということになります。

 「現在、我々が乗っているのは、新しいやつで機体は前より大きくなり、エンジンも機器もセンサーも新しくなって、より強力な飛行機に生まれ変わっているよ。デザインは、1955年のオリジナルを引き継いでいるけれど、こいつはまったく新しい野獣と言ってもいいくらいさ」と、ミラー少尉は語っています。

 「このような進化と改良が、いつまでも続いてくれるといいね。このプラットフォームなら、投資が続く限りは遠い未来までいい仕事ができるに違いないから…」と締めくくってくれました。

From Popular Mechanics
Translation / Satoru Imada
※この翻訳は抄訳です。