…ところが、同じパリ航空ショーに参加していたコンコルドのライバル機のほうは、ある不幸に見舞われます。ソ連のTU-144は、イギリスとフランスが共同開発したコンコルド同様、超音速による空の旅という新しい時代の門戸を開くべく製造された飛行機でしたが、こちらは上昇中に突如方向を変えて、まるで石が落ちるように近郊の村グッサンヴィルに墜落、飛行機の乗員6人と地上の住民8人が犠牲となったのです。

 このような悲劇に見舞われはしたものの、1973年のパリ航空ショーは超音速時代の幕開けを告げるもので、その先駆けとして登場したのがコンコルドでした。

 1976年から2003年まで、コンコルドは大西洋横断にかかる時間を半分に短縮して、ニューヨークからロンドンまたはパリへ向かう乗客を、わずか3時間半で運んだのです。飛行高度は5万フィート以上で、窓から外を眺めると、地球が丸いことがはっきりわかります。そしてチケット代は、おそろしく高額でした。ほんの数時間であれ、未来を経験できるのですから安いわけがありません。

 そしてその未来も、今ではすでに過去のものとなりました。

 なぜなら、財政的な問題や音速を超える空の旅の難しさから、コンコルドは15年以上も前に引退してしまったからです。以後、超音速旅客機の路線便はひとつもありません…いまのところは。しかしながら初飛行から半世紀が経過した今も、コンコルドのエンジニアリング精神は生き続けています。とりわけ、超音速旅行の復活を模索する新しいタイプの航空事業者などの間においては。

コンコルドの誕生

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Marc Garanger / Getty Images

 1947年10月14日、その壁を破ったのは、チャック・イェーガー氏(Chuck Yeager)でした。実験機ベル「X-1」のテストパイロットとなった彼は、4万フィートを超える高度で音速を突破、歴史にその名を刻みました。現在に至るまで、飛行機で最も速く飛んだのはこの男になります。

 しかし、このことは当時は誰も知りませんでした。というのも、アメリカ合衆国政府は1948年まで、このプロジェクトをトップシークレット扱いにし、秘密のベールに包んでいたからです。しかし、音速を超えるスピードでの飛行が可能だということは、すぐに世界中の国々に知れ渡りました。

 1950年代は、宇宙開発競争が勃発した時代ですが、成層圏では音速を超えるスピードで乗客を運べる旅客機をつくって、効率的に地球を小さくする競争が繰り広げられたのです。

 地球を周回する軌道にソ連が人工衛星を投入し、アメリカがそれを追いかけるという展開の宇宙開発競争では、イギリスはほとんど傍観者の立場にありました。しかし、超音速旅客機をめぐる争いは、戦後のヨーロッパがもう一度プライドを取り戻す、格好の舞台となったのです。

 国の要請を受けて、様々なグループがこの競争に参加してきました。例えば1956年に商業利用に適した超音速旅客機(SST)の開発を課せられた、イギリスの超音速輸送機委員会(Supersonic Transport Aircraft Committee)などがそれに当たります。

 この野望を後押ししたのが、ナショナリズムだったのです。

 「コンコルドがつくられたのには、政治的な理由が大きかったのです」と語るのは、スミソニアン博物館の国立航空宇宙博物館で航空部門の部長を務めるボブ・ヴァンダーリンデン氏。コンコルドというのは、ヨーロッパがアメリカを凌駕するためのひとつの手段だったわけです。アメリカは1950年代にもっと小型のSSTをつくろうとして失敗していたものの、商業機の市場では依然としてアメリカの支配が続いていたのが事実です。

 しかし、イギリスの航空専門家はすぐに、このような飛行機の製造には莫大なコストがかかることに気がつきます。そこでイギリスは、協力者を捜すことにしました。『コンコルド — 超音速旅客機の栄光と挫折』の著者であるジョナサン・グランシー氏は、「イギリス政府としては、製造にかかるコストをよその国と分け合いたかった」と言っています。まずはアメリカへ協力を依頼します。ですがそれに失敗し、そのあと白羽の矢が立ったのがフランスだったのです。1962年、両国は英仏コンコルド協定に調印し、航空機の世界を最終的にヨーロッパの独擅場にするような新型機を共同開発することにしたのでした。

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  「(イギリスとフランスには)政治と国の威信がかかっていました」と、ヴァンダーリンデン氏は言います。

 そして、「コンコルドは市場向けの飛行機を製造するというより、自分たちが—アメリカ以上ではないかもしれないけど—アメリカと同じくらい優れていることを示すための手段だったわけです。イギリスとフランスは国の威信をかけて、なんとしてでもそれを見せつけなければならなかったのです」と加えて語ってくれました。

 「concorde(コンコルド)とはローマ神話の女神Concordia(コンコルディア)に由来していて、フランス語で「調和」「協調」を意味する言葉です。この名称は2国で共同開発する航空機にはうってつけのものだったわけです。

 その製造を託された航空業界の巨人2社、フランスのアエロスパシアル(のちのエアバス)とイギリスのブリティッシュ・エアクラフト・コーポレーションは、この困難な問題に立ち向かいました。「彼らがやらなければならなかったのは、飛行機をほとんど一から発明し直すようなことでした。そして、それを見事にやってのけたのです」と、ヴァンダーリンデン氏は『ポピュラーメカニクス』誌に語っています。

 スピード自体は問題ではありませんでした。1960年初頭には、音速を超えるスピードでの飛行というのは、戦闘機の世界ではすでに画期的なことではなく、当たり前になっていたのです。しかしながら、高い料金を支払った乗客を100人乗せた定期便でこのスピードを出すとなると、また話は違ってきます。

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Rob Garbarini / Getty Images

 コンコルドは、ロールスロイスのアフターバーナー(ジェットエンジンの排気に対して、もう一度燃料を吹きつけて燃焼させて高推力を得る装置)を4基備えています。これらは戦闘機に使用されるのと同種のもので、1基が約17トンの推力を生み出すのです。

 機首は折れ曲がったような形で傾斜していますが、これは離陸時と着陸時には機首を下げて、パイロットが滑走路を目視できるようにするためのものです。ブレーキシステムには改良が加えられて、音速以下の飛行機に比べて、遥かに高スピードで着陸しても損傷を受けることなく、滑走路に降り立つことができるようになりました。

 飛行中には機首の温度が130度を超えるくらいまで上昇することがあるので、反射性のきわめて高い白い塗料を使用して、熱を発散するようになっていました。

 そして、エンジニアリング上の改良の中でも最も印象的なのが、三角形のデルタ翼でしょう。その中でもコンコルドは「オージ翼」(または同じ形の翼を持つ『F-16XL』では『クランクト・アロー・デルタ翼』)と呼ばれるものです。

 「技術的な細かな改良点はいろいろありますが、薄いデルタ翼に比べたら、他は取るに足らないものばかりと言っていいでしょう。あの画期的なデザインのおかげで、超音速飛行を持続させることが可能になったのです」と語るのは、『コンコルド最後の日々』の著者、サム・チッタム氏です。

 国の威信をかけた努力が実を結んで、コンコルドは、人類が初めて月面に降り立つ4カ月前に、初飛行に成功しました。1973年のパリで、ソ連の超音速機に勝利するのです。そして、それからほどなくして、コンコルドはついに飛行場に姿を現しました、ブリティッシュ・エアウェイズとエール・フランスのロゴを機体にまとって…。

ゴージャスな空の旅

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Hulton Archive / Getty Images

 コンコルドは、マッハ2(時速1350キロ)を超えるスピードで飛行することができました。音速を超えると耳障りな轟音が生じますが、客室は静寂そのもの。またコンコルドは、時間に関する常識も超えたのです。

 公式の予定時刻によると、ロンドン発ニューヨーク行きのフライトでは、出発時刻よりも前に到着することになっているです。アイルランド人のジャーナリスト、テリー・ウォーガン氏(Terry Wogan)はコンコルドに乗ると、「ヒースロー空港で朝食を食べたあと、到着したニューヨークでもう一度朝食を食べることができた」と、当時のことをうれしそうに振り返っています。

 コンコルドはボーイングの大型機747のデビュー以来、久しく見られなかったようなセンセーションを巻き起こしました。

 やがて同機は、ショービジネス界のスター御用達の飛行機となります。例えばイギリスのテレビ司会者デヴィッド・フロスト氏は、ロンドンからニューヨークへ行って番組を収録したあと、またロンドンに戻ってから就寝していたという伝説を残しています。しかしサム・チッタムが、『ポピュラー・メカニクス』誌に語っているように、コンコルドでの空の旅というのは、その他の人たち…一般の人々にしてみれば、「一生に一度はやってみたいもの」のひとつだったのです。


「コンコルドの旅に対して、『期待や憧れを持つな』というのは無理というものです。乗客がそこで実際に経験したことは、期待を大きく上回るものではなかったとしても、期待外れのものでは断じてありませんでしたので…。この超音速機に搭乗する乗客は、それが『2度とない経験』であることがわかっていたのです。超音速で飛行しながら、客室のディスプレイに映った水平線のカーブを目にした乗客は、地球の丸さがわかるほどの高度を自分が飛んでいることを実感して、ゾクゾクするような興奮を覚えたのです。あれで感動しなければ、よっぽど鈍い人に違いありません…」

 コンコルドのエンジンは1時間に6770ガロンの燃料を消費するので、チケット代金は4桁になってしまいます。その金額に見合うだけのフライトにするため、最高級のサービスと素晴らしい設備が提供されました。

 2019年に行われたCNNの取材で、「会員制クラブの中に足を踏み入れたんじゃないかと思ったよ」と語ったのは、ブリティッシュ・エアウェイズのコンコルドで客室の改装を受け持ったメインテナンス・チームの一員、トム・フォード氏です。

 「自分の知らなかった世界を、垣間見た気分だったね。上品で心配りがあって、隅々まで洗練されていた…。下にも置かないもてなしを受けていると思わないほうがどうかしてるよ」。

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
Concorde Take Off; Sonic Boom [𝗣𝗹𝗲𝗮𝘀𝗲 𝗿𝗲𝗮𝗱 𝘁𝗵𝗲 𝘃𝗶𝗱𝗲𝗼 𝗱𝗲𝘀𝗰𝗿𝗶𝗽𝘁𝗶𝗼𝗻 𝗯𝗲𝗳𝗼𝗿𝗲 𝗰𝗼𝗺𝗺𝗲𝗻𝘁𝗶𝗻𝗴] 🙂
Concorde Take Off; Sonic Boom [𝗣𝗹𝗲𝗮𝘀𝗲 𝗿𝗲𝗮𝗱 𝘁𝗵𝗲 𝘃𝗶𝗱𝗲𝗼 𝗱𝗲𝘀𝗰𝗿𝗶𝗽𝘁𝗶𝗼𝗻  𝗯𝗲𝗳𝗼𝗿𝗲 𝗰𝗼𝗺𝗺𝗲𝗻𝘁𝗶𝗻𝗴] 🙂 thumnail
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 乗客は飛行中にシャンパンで乾杯し、キャビアベルーガ(オオチョウザメのキャビア)を口にすることもできたのです。コンコルドの客室はとても狭くて、天井の高さは180センチあまりとかなり窮屈なのですが、不平不満を口にする人はほとんどいませんでした。

 「その理由のひとつは、コンコルドのチケット代が高額だったことで、この飛行機に引き寄せられた常連客の多くは、役員クラスのビジネスマンでした。娯楽など必要としていなかったわけです」と、ジョナサン・グランシー氏は語っています。続けて、「もちろん、そんな乗客でもおしゃべりはします。ですが、多くは機内で仕事をしていたわけです」。

 それでもコンコルドの豪華さや最大の魅力である、マッハ2のスピードで飛行することのスリルの背後には深刻な問題が潜んでいました。

 当初は16の航空会社から注文が舞い込んだコンコルドでしたが、1973年のオイルショックで、音速旅客機の需要が一気に減少してしまいます。トータルでは、実際に製造されたコンコルドはわずか20機にとどまり、そのうち6機はプロトタイプのままだったのです。

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Mirrorpix / Getty Images
1986年4月14日、ダイアナ妃がコンコルドで出発。ヒースロー空港からウィーンへ。

鳴り物入りで登場し、ひっそりと退場

 コンコルドはどんな旅客機よりも速く飛ぶことができましたが、常につきまとった経済的な、および技術的な問題からは、ついに逃れることができませんでした。例えば、燃料コストがこれほど膨大になると裕福な常連客と言えども、チケット代を払うのは楽ではありません。

 「チケット代があまりに高額なので、コンコルドには大抵、多くの空席がありました」と、ヴァンダーリンデン氏は言っています。

 1970年代は環境保護運動が盛んになった時代であり、燃料を大量に消費するコンコルドは運動家たちに目の敵にされ、空港に到着すると激しい抗議運動に迎えられるのが常でした。また、耳を覆いたくなるようなソニックブームのせいで、多くの国がコンコルドが上空を飛行するのを禁止したため、飛行ルートは海上に限られました(アメリカ合衆国は現在でも、騒音問題や窓ガラスが割れる被害が出るおそれがあるため、SSTが上空を通過するのを法律で禁じています)。

 アンチコンコルド・プロジェクトが活動をスタートさせたのは、コンコルドの運行開始とほぼ同時で、同機が環境に悪影響を与えるとする学術的研究を実証していきました。

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Fox Photos / Getty Images

 そしてついに、墜落事故も起きました。

 2000年7月、エール・フランスの4590便が離陸直後に墜落したのです。離陸中に破裂したタイヤの破片が当たって、燃料タンクが破損したのが原因でした。タンクから漏れ出した燃料に引火して機体が炎に包まれ、109名の乗員乗客全員が死亡。超音速旅客機に対する人々のイメージは大きく傷つきました。

 「あの事故は完全に防ぐことができるものでした」とサム・チッタム氏は言います。「不適切な状態のタイヤを、より状態のいいタイヤに交換していなかったのです。過去に起きた離陸中のタイヤ破裂事故の二の舞になることがわかっていたのに、それを放置していました」と続けて語ります。

 しかしながら、コンコルドの終焉を招いたのは決してエール・フランス4590便だけの責任ではありません。事故から間もない2001年9月11日に、テロリストたちがアメリカで起こした事件もまた、大衆の恐怖心をあおって航空産業に対するウォールストリートの信頼を失墜させたのです。

 しかし、あの墜落事故が終わりの始まりを告げるものだったことは確かです。それ以前からコンコルドのメインテナンス費用は増すばかりだったのに、法外なチケット代金を支払ってくれる乗客は減少の一途をたどりました。2003年には、コンコルドの製造メーカーであるエアバスが増大する懸念をたびたび口にするようになって、苦境に陥っているコンコルドを今後数年間にわたって維持していくためには、ブリティッシュ・エアウェイズ1社だけでも40万ポンド(約56億円)の出費を強いられることを明らかにしました。

 結局、コンコルドで節約できる時間がその出費に見合うものではないということに、多くの旅行者が気づいたのです。

 「中には、節約できる4時間が決定的な意味を持つという人もいるでしょうが、ほとんどの人にとっては大して重要なことではなくて、高額のチケット代を正当化できるものでもなかったのです」と、ヴァンダーリンデン氏は言います。

 そして、まずはエール・フランスが…。その5カ月後にはブリティッシュ・エアウェイズが、コンコルドの運行を相次いで停止したのでした。

超音速機の復活?

 いまやコンコルドは、博物館の展示品でしかありません。ですが、音速より速く飛行するという夢がなくなってしまったわけではありません。NASAやロッキード・マーティン、さらには「ブーム・スーパーソニック(Boom Supersonic)」社のような新興企業にいたるまで、さまざまな顔ぶれがSST(Supersonic transport=超音速輸送機)を復活させるべく競い合っているのです。

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Boom Aerospace
ブーム・スーパーソニックによるイメージ画。

 技術的に可能であることは、すでに証明されています。が、SSTの商業飛行を再開させるためには、まだ多くの困難が残されています。アメリカ合衆国は、コンコルドが現役だった時代から現在にいたるまで、商業機のSSTが国の上空を飛行することを禁止しています。それでも、もしソニックブームを最小限に抑えることができれば、SSTの復活に前向きな立法関係者もいるのです。

 例えば、NASAとロッキード・マーティンによるX-59のプロトタイプでは、発生する音を軽い衝撃音程度まで、小さくする方針を打ち立てています。が、それでもなお、解決しなければならない課題は山積しています。サム・チッタム氏は、「SSTが復活しても、以前とはちがったカタチであり、もっと定員の少ないものになるのではないか」と見ています。

 「私が貯金をはたいて、それに乗ることはないでしょう。考えられるのは、お金持ちのビジネスマンが超音速のプライベート・ジェットを利用するようになることです。超音速機が誰にでも乗れる商業便になるとは、ちょっと考えられませんね」とのこと。

 だとすれば…コンコルドが、あるいはそれと同じような旅客機が、大空に戻ってくることはもう2度とないのかもしれません。

▶▶▶【ギャラリー】超音速旅客機「コンコルド」の機内の様子から、1960年代~70年代に撮影された当時の様子を写真や映像にて振り返ってみましょう

From POPULAR MECHANICS
Translation / Satoru Imada
※この翻訳は抄訳です。