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本連載「セント・オブ・ジャパン / 日本の香り」は、「エスクァイア日本版」東京特派員であるクリストファー・ベリーが、独自の視点で“日本のいまの姿”、“日本の社会”をニュートラルに見つめるコラムです。生粋のニューヨーカー…マンハッタンのアッパーイーストで育ち、ペンシルバニア大学で日本語の修士課程修了。現在は東京で働く彼が愛情を込めて、ときに彼なりにクリティカル(多様な角度から検討し、論理的・客観的)な視点で「日本の香り」を求める放浪記をお楽しみください。

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2022年は、沖縄県にとって特別な年と言っていいでしょう。1971年(昭和46年)6月17日に、日米間で「沖縄返還協定(正式名はAgreement between Japan and the United States of America Concerning the Ryukyu Islands and the Daito Islands:琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定)」が調印が行われ、1972年(昭和47)5月15日に発行――この日、沖縄の施政権がアメリカから日本に返還されることになりました(安保条約をはじめ日米間条約は沖縄にも適用されるものとし,米軍基地の維持については周到な規定が設けられていました)。

そうして2022年、沖縄が日本の主権に復帰して50年が経ったのです。

沖縄返還(沖縄本土復帰)は戦後の日本の発展にとって重要な出来事であると同時に、沖縄に住む人たちが琉球王国の時代から何世紀にもわたり保持してきた“独自の”アイデンティティとの闘いに、新たな複雑さを加えることとなったとも言えるでしょう。

沖縄が持つ複雑な歴史、その中で暮らしてきた人々の思いは、そう簡単に推し量ることなどできません。いや、「推し量る資格すらない」と言っていいかもしれません。地図上では東京よりも台北に近い位置にあるこの地に住む人々の「自己」をめぐる葛藤は、想像をはるかに超えたところで苦悩に満ちていたに違いない…そんな感覚だけは頭に浮かびます。実際、アメリカ施政権下以前から本土から見た琉球および沖縄に対する認識は非常に外地的で、ある意味「差別」のような対応を示す人もいたと聞いています。

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そうして50年の時は過ぎ2022年、現代社会に生きる私たちは「沖縄」という名を聞くと、真っ先にポジティブで華やかなイメージを(無責任に)持つでしょう。特に、沖縄は毎年夏になると太陽とバカンス、「インスタ映え」という承認欲求を満たしたい日本の若い世代は、他人から嫉妬という熱い視線を誘う亜熱帯地域である沖縄の“美しきコンテンツ”から、大いに恩恵を受けているのです。沖縄で休暇を過ごすことは、いまや「ステータス」の一種というわけです。

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沖縄戦・「ひめゆり学徒隊」を学ぶ

2022年10月22日、天皇陛下と皇后陛下が即位後初めて沖縄を訪問されています。

(現在の)上皇さまは、皇太子時代の1975年7月に初めて「ひめゆりの塔」を訪れた際、火炎瓶を投げつけられました。ですが、その事件当日の夜に上皇さまは談話を発表し、「深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていく」と心から訴えておられました。

「ひめゆりの塔」は、太平洋戦争末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕(ごう)の跡に立つ慰霊碑です。この慰霊碑の名称は当時、第三外科壕に学徒隊として従軍していた「ひめゆり学徒隊」にちなんでいます。

「ひめゆり学徒隊」に動員された生徒と引率教師240人のうち、その半数以上である136人が命を失ったと言われています。その多くは、1945年6月18日に日本軍からの突然の「解散命令(「学徒隊を解き各自自らの判断で行動せよ」ということを意味)」が出された後に亡くなったと伝えられています。解散命令後、生徒たちは砲弾の飛び交う中、自らで行動しなければならなかったのです。学徒隊として動員されなかったひめゆりの生徒と教員91人も、沖縄戦によって亡くなったと言われています。

沖縄県で日本軍に学徒隊として動員された生徒・教員の内、男子1552人、女子441人、教員99人、計2092人が戦場で命を落としたとされています。

この沖縄戦は「鉄の暴風」とも呼ばれており、約3カ月にわたって米軍の激しい空襲や艦砲射撃を受け、住民を巻き込んだ地上戦で20万人以上の人が亡くなったと伝えられています。その人数を当時の沖縄県民数で換算すれば、県民の4人に1人が亡くなるという結果をもたらしました。(※参考資料:「ひめゆりとハワイ」参照

戦後1945年(昭和20年)~1949年(昭和24年)の5年間近く日本本土では戦後の復興政策が図られる中、沖縄はほとんど放置状態で「忘れられた島」と言われていたそうです。『タイム誌』(1949年11月28日号)でフランク・ギブニー記者は、「OKINAWA: Forgotten Island(沖縄 – 忘れられた島)」と題して記事をつづっています。

その理由としては、「アメリカの軍部と日本政府側の調整に時間がかかり、明確な統治政策が図られなかったため」とあり、また「米軍の施政権下におかれた沖縄は27年もの間、日本政府から十分な支援を受けることができなかった」とも言われています。

そんなわけで1972年(昭和47年)に日本本土に復帰したときの沖縄は実際に、道路・港湾・学校・病院・住宅など…社会インフラのあらゆるものがことごとく不足していた状況だったそうです(※参考資料:沖縄県公式HP「沖縄から伝えたい。米軍基地の話」参照)。

そのような過去もあり、沖縄にとって2022年は特別な年であったことでしょう。このような年に、私は人生で初めて沖縄を訪れる機会を得たことに感謝しています。戦時中の悲惨な過去を内包する一方、それ以前はおよそ450年間も琉球諸島を中心に存在した王国という一面もあり、国際貿易の重要な寄港地として機能していました。沖縄の人々の温かいもてなしと、中継貿易に長けていた才能は世界中に知れわたっていたはずです。

ニューヨーカーが見た、
いまの沖縄【放浪記】

2022年の夏に東京から沖縄に向かいました。私の目的は、島々をありのままに体験することでした。私は日本人でもなく、沖縄在住の米軍軍人でもありません。そして典型的なアメリカ人でもないのです。小さな島(マンハッタン島)出身の、名もなきニューヨーカーが見る沖縄は、どんな風景に映るのか自分でもとても楽しみでした。

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限られた時間の中で、私は自分の中で、「沖縄」という土地の見え方と、その土地で実際に暮らす人たち見え方を捉えられるように努めてみました。その作業には、日本人、アメリカ人といった国籍を超えたところで挑戦してみたかったのです。

まず最初に、ある友人のすすめで沖縄本島北部の山麓に残る城(グスク)…名護城(なんぐすく)跡を散策することにしました。(グスク時代と呼ばれる)14世紀初期から当地を治めた豪族(=土地を支配した領主)の居城だったとされています。

城(グスク)を中心に、各村落が結ばれるようになった12世紀~15世紀の時代をグスク時代と呼ばれており、各地の按司(あじ=琉球の官名のひとつで各地で領域支配を行っていた豪族・首長)たちは互いに競い合っていたそうです。

14世紀~15世紀にかけての本島では、南から「南山(なんざん)」、「中山(ちゅうざん)」、「北山(ほくざん)」の三つの地域勢力が形成されたと言われており、権力抗争が繰り広げられるようになったそうです。ちなみにこの「名護城跡」は、「北山(ほくざん)」に位置しています。

真昼の真夏の太陽の下、20分かけて頂上まで登ると、かつてこの城(グスク)を占領していた按司(あじ)に思いを馳せることができました。現在では、城跡一帯は名護城公園として整備されていて、名護神社やレクリエーション広場、散策路が整備されています。

私は名護市にある、この古代の要塞(グスク)でひと休みをしました。何百年も前なら、この景色はごく限られた人たちだけが観ることしかできなかったであろう眺めを、そのときは自分のためだけにあるように思えたのです。私が一人でそこで過ごしている間、名護城神社にお参りをする一人の男性としかすれ違うことはありませんでした。

そして、この素敵な出会いを楽しみにしながら城(グスク)を後にしました。

沖縄で暮らす元米国海兵隊員

別の友人の紹介で、90年代に初めて沖縄の米軍基地に配属され、沖縄に暮らす人と文化に魅了された元米国海兵隊員と話す機会を得ました。匿名希望で本人の名前を出すことができませんが、彼は沖縄で家庭を築き、今では地元の学校とスポーツ、特にサーフィン(と猫鑑賞)を通じて沖縄社会に深く関わり、誇り高き父親となっています。

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ハワイアンシャツにビーチサンダル、そして本人も認める“ひどい”タトゥー(世界各地での奉仕活動で蓄積されたもの)があっても、実際に話をしてみると温和な性格が伝わってきて、プロフェッショナルであることがわかりました。

アメリカで育った彼は、「新進気鋭のバンドに囲まれながら音楽に親しんでいるうちに、生涯を通じてギターを愛するようになった」と言います。仕事と家庭が第一だそうですが、オフタイムには波を追いかけ、沖縄の地元の人たち…老若男女問わず交流しているとのこと。

そこで、彼の日本(沖縄)での生活について、改めて私はいくつかの質問をしてみました。

日本に来るまでの経緯は? なぜこんなにも長く滞在しているのですか?

「海兵隊に入ったのは、“漠然とした何か”を探していたからです。高校卒業後、ミュージシャンとして何かを成し遂げようと5年ほど過ごしましたが、その夢はかないませんでした。ブートキャンプ(=新兵訓練)を終えて、最初の勤務地が沖縄だったんです。この島に足を踏み入れた瞬間から、私はいつも故郷にいるような気がしていました。20年もの米軍生活の中で、何度もここに駐留することになったのです。ずっと沖縄にいるつもりはなかったのですが、子どもが生まれ、成長するにつれ、ここが私たちの故郷になったのです」

日本の他の地域(他県)と比較して、沖縄の印象はいかがですか?

「私は、日本本土で時間を過ごしたことはあまりありません。沖縄では、ほとんどの時間を島の北部で過ごしています。退役後、私たち家族は名護の北にある小さな村に引っ越しました。家の裏はジャングルで、数百メートル先には海が広がっています。妻の親戚は大宜味村(おおぎみそん)という北部の村の出身で、ここは『長寿の里』、『長寿日本一宣言』をしていて、日本で最も寿者が多い地域だと聞いています。この村については、多くのドキュメンタリーやニュースが報道されているんです。私の子どもたちは、この村とその周辺で育つことができました。私は、大宜味村や妻の親戚について多くのことを記録してきたんです」

沖縄の歴史は、あなたの人生にどのような影響を与えますか?

「海兵隊がこの島に存在するのは、第二次世界大戦の最後の主要な戦闘が行われたからです。私は20年近くかけて、異なる視点から沖縄を見つめ、愛し…、『慈悲』と『恵み』という概念に焦点を当てて生活をしてきました。大宜味村の人々は、日々の暮らしの中で、そしてお互いに献身し合う中で、これらの姿勢(概念)を体現しています。私は、『“愛”と“帰属意識”そして“食事”と“運動”を心から継続していくことによって、彼ら彼女らはこれほどまで長生きすることができるのだ』、と確信しました」。ジョージ・H・カー著『沖縄 島人の歴史』は、沖縄のニュアンスを見事に表現されていると思います」

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私たちはビーチに向かう途中で停車し、太陽で温かくなった駐車場で堂々と伸びのポーズをする猫の友人からの出迎えを受け、話を続けました。

地元の文化とは、どのように関わっていますか?

「私は常に外国人であり、この島の客人ですが、この場所のことはよく知っています。いろいろなところを旅してきましたが、大宜味村で観た夕日ほど美しいものはありません。特に離島では海が違います。沖縄の海は独特の青緑色をしていて、観ていると心が癒されるほど美しいのです。

沖縄と海兵隊は、私の創作活動にも大きな影響を及ぼしています。最近のビデオ作品は、負傷者を抱えて山に登るアメリカ海兵隊武装偵察部隊たちを描いた26分のドキュメンタリーです。この作品は昨年(2021年)、いくつかの映画祭で取り上げられました(彼のビデオ作品集はコチラから)」

その他のビデオ作品については、以下をご覧ください。

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
Black Diamonds
Black Diamonds thumnail
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「私は人生の大半を現役のミュージシャンとして過ごしてきましたが、この10年間、徐々にオーディオ(音響)とビデオの仕事を組み合わせてきました(私のオーディオ・ポートフォリオはコチラです)」

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私たちは、島の静かなビーチで写真撮影した後、北谷町美浜にある「美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジ」の遊歩道を歩きながら、『コイーバ・シグロ(葉巻)』とコーヒーを楽しみ、人生について語り合いました。

「アメリカンビレッジ」のネオンに対抗するかのように、涼しげで蒼く深い夕暮れの空がすべてを包み込むようでした。

私たちは(葉巻のコイーバ)シグロを吸い終わると、急いで飲み干したコーヒーカップにその吸い殻を入れました。そして遊歩道の端まで来ると、コンクリートの壁に腰掛けた高校生の一団が、打ち寄せる波と沈みゆく冷たい夕日に目を奪われているのが見えました。

「彼らは、学校が休みなんだろうね」と私は言いました。きっと地元の子どもたちは、大人たちから何度も「危ないから壁を飛び越えるな」と言われ続けられ…でも、そんなアドバイスなど聞かない彼らに、大人たちはついに音(ね)を上げて諦めてしまったのでしょう(笑)。打ち寄せる波のように、好奇心と若者の潮流を押し返すことなどできないのです。

「あ、あそこに私の子どもがいたような気がする、ちょっと探してみるよ」と彼は言言い、私たちはそこで別れました。

「自分が家という居場所を選ぶ」のと同じように、その逆、「家も住む人を選んでくれることがある」と、私はこの旅で感じたのです。