トム・クルーズを除けば、近年クリストファー・ノーランほど映画館で映画を観ることを推奨している人物はいないでしょう。2020年には、「この業界における偉大な映画製作者と重要な映画スターたちは、偉大な映画製作会社のために働いているのだと思っていました。ですが、それは夢だったようです。目が覚めると、最悪のストリーミング・サービスのために働いていることを知りました」と、エンターテインメント系情報サイト「Hollywood Reporter」に語っています。

またコロナ禍となった2021年には、その影響で多大な被害に遭っているイギリスの映画館を支援するためリドリー・スコット監督やジュード・ロウらとともに立ち上がり、英政府(リシ・スナック財務大臣)に映画館への経済支援を嘆願する書簡を提出します。そして、これまで蜜月の関係を築いてきたワーナー・ブラザーズと公開戦略をめぐって緊張状態に陥り、複数の映画製作会社との交渉が進められているという報道もありました。

そんな彼のつくる映画は、これまで確実にすばらしい興行収入を上げています。

このようにノーランは、単なる映画館の庇護(ひご)者であることにとどまらず、映画界最大の功労者の1人なのです。彼の最新作『Oppenheimer』は、たとえそれが彼の最高作でないにしても、彼の最も壮大なスペクタクルの1つであることは間違いありません。そしてそれを、壮大な音響設備とスクリーンを備えた会場で目撃したなら、その何倍もの力であなたの心に訴えかけてくれるはずです。

※ 以下、この批評文および分析には映画の物語に触れる記述が含まれます。ご理解のうえ読み進めてください


「原子爆弾の父についての映画」として伝えられてきた通り、映画『Oppenheimer』には確かに「大爆発」があります。ですが、この3時間にもおよぶ伝記映画がIMAXこそがその上映にふさわしいと思わせる理由は、その壮絶なる爆風が体感できるからだけではありません。

キリアン・マーフィー演じる、チェーンスモーカーの薄い頬骨から突き出た海色の瞳、ニューメキシコ砂漠の異質な空虚感…。そしておそらく、最も重要なのはスウェーデン出身の映画作曲家ルドウィグ・ゴランソンが創出した、容赦なく流れ続けるサウンドトラックです。この映画の「爆発」は、常に文字通りのものを示すわけではありませんが、違う形で絶え間なく続いていくでしょう。

一見、些細な瞬間にさえ、違う形に「爆発」を感じるはずです。例えば映画の序盤、若きJ・ロバート・オッペンハイマー(マーフィーがキャリア史上最高の演技を見せています)がピカソの絵画を観察する場面があります。それは、ほんのちょっとした編集の断片にしか過ぎません。ですが、この奇才が傑作を鑑賞する様子から、ノーランがこの主人公に込めた重要な点が伝わってくるでしょう。それは、「オッペンハイマーの世界観は本質的にキュビスム*的であった」ということです。つまり、オッペンハイマーは対象物の多くの異なる側面を同時に見ることができたので、この能力によって彼は時に疑わしい行動をも正当化することができたのです。

※キュビズム描く対象である物体(モチーフ)を幾何学的形体に還元して、それを立体的に組み合わせることによって新しい抽象表現、造形美術を作り出そうと手法であり試み。

そこでこの絵画が、オッペンハイマーの万華鏡のような…多面的な心をのぞかせる初期の窓とするなら、さらにこの映画が持つ一筋縄ではいかない複雑なプロット構造を示すものでもあります。ノーランはこれまで、複数のダイヤルで構成された時計にこそ価値があると考えているようで、ひとつの時間軸で収まっている物語に出会ったことがありません。そして、言うまでもなく『Oppenheimer』も時系列を飛び越える際にキュビスム的な不連続性を採用しています。そんなノーランは、カラー(物語の大部分)と白黒(1959年に行われた、オッペンハイマーの敵役でもある米原子力委員会の前委員長ルイス・ストラウスの商務長官指名を諮問する上院公聴会のシーン)で異なる時代を区別しています。

ほとんどの場合、時系列の行ったり来たりは混乱を招くことなく、むしろ映画のスピード感に貢献しています。『Oppenheimer』の第三幕は、1954年にオッペンハイマーの安全保障認証に関して更新するかどうか、もうひとつはストラウス(ロバート・ダウニー・Jr.は2024年助演男優賞受賞級の演技を見せています)の承認を巡る公聴会です。ノーランは、映画の序盤でさまざまな宣誓証言をナレーションとしてちりばめています。

そうして私たちは、オッペンハイマーが最終的に「マンハッタン計画」の責任者に選ばれた理由(理論物理学における彼の卓越した才能)や、そのポジションに就くには危険な人物であったこと(女遊び癖と共産主義への傾倒)についてさまざまな人物が語りかけてくることを聞くのです。

Oppenheimer』は 圧倒的で、視界を覆い尽くすような抽象性に満ちています。

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
Oppenheimer | New Trailer
Oppenheimer | New Trailer thumnail
Watch onWatch on YouTube

その過程でノーランの手法は、もう一人の20世紀初頭の現代美術の巨匠ジャクソン・ポロックを思い起こさせます。彼の作品同様『Oppenheimer』は膨大な量の、圧倒的で、視界を覆い尽くしたくなるような抽象性に満ちています。

このような構成によって、この監督は非常に難しい課題をクリアしなければならないことになるわけです。つまり、「複雑な理論を映画的に表現すること」です。ノーランは核融合や核分裂の細部にあまり時間を費やさず、代わりに粒子、星、光の見事な描写への素早いカットによって、構想の壮大さを表現しています。こうしたシーンでゴランソンのサウンドトラックが最も盛り上がり、世界を揺るがすようなアイデアの、恐ろしくも興奮させる側面を勢いよく響き渡らせているのです。

このようにある種“実験的”でもある手法で盛り上がりを見せていますが、もしこの『Oppenheimer』を通常の時間軸に沿って順序立てで構成してみたなら、かなり古典的な伝記映画になることでしょう。この映画の根底にある古典的な要素は、高尚なセリフを使って複雑な主人公を特徴づけることで彼を神話化しているところに最も顕著に表れているのです。

登場人物たちは絶えずオッペンハイマーに、「あなたはただの独りよがりではない、実際に重要な存在なのです」とか、「ロバート、あなたは私たちが生きる世界の向こう側を見通せる。もちろん、私たちはあなたを支援するよ」といった言葉を投げかけます。そんな中で私のお気に入りは、「そんなに多くを見通せた男が、なぜあれほど盲目的になったのか(How could the man who saw so much be so blind?)」というセリフです。

oppenheimer
Universal Pictures
全体的に『Oppenheimer』は、原子爆弾の発明者に対して同情的ですが、批判的でないわけではありません。

ノーランが切り取ったのは、オッペンハイマーの致命的な欠点であるナイーブ(純朴)さです。彼は他の人々の悪意を過小評価したり、逆に自分よりもずっと賢いと過大評価したりしていました。そして映画の最後の1時間では、彼は厳しい経験を通して教訓を学びます。成功したトリニティ実験の後、トルーマン大統領は広島と長崎に原子爆弾を投下します。そこで私たちは、科学的には信じられないような“偉業”を成し遂げた男の、感情的な急降下を垣間見ることになるでしょう。それは罪の意識であり、感情の抑圧、そして自身の行いを正当化する理屈です。

オッペンハイマーはオーバル・オフィス(大統領執務室)を訪れたときに、(大げさな演技をする)トルーマン大統領(演:ゲーリー・オールドマン)に「私は手に血がついたような気がする」と告げます。ノーランはこの場面での感情を強調し、賛美される公の場面の中で内面的な爆発を具現化します。後にオッペンハイマーは、犠牲者を想像している姿を見せます。しかしここでノーランは、重要なことを省略しています。彼は観客に被害の惨状を具体的に示すことはしません。これは暴力を覆い隠し、ほとんど理論的なものにしてしまうという選択になります。オッペンハイマーに焦点を当てるという欲求は理解できますが、この場合は誤解が生じる可能性も極めて高いでしょう。とかく欧米の観客というものは、自分なりの理屈から判断を下しがちだからです。

ノーランは重要なことを省略しています。彼は視聴者に被害の状況を示さないのです。

全体として『Oppenheimer』は、全く批判のないまま終わる作品ではありませんが、主人公に同情的な思いを感じさせる伝記映画でもあります。ノーランはオッペンハイマーを「これまでに生きた中で最も重要な人物」と呼んでおり、その被写体の頭脳、カリスマ性、外見に明らかな魅了を感じています。バギーなハイウエストのパンツと柔らかいつばの帽子を身に着けたマーフィーは、印象的な姿を見せています。

ただ、そんな魅力を放っているのはオッペンハイマーだけではありません。全てのノーランの映画と同様に、『Oppenheimer』も全体を通してクラシカルなハンサムさに満ちています。撮影監督であるホイテ・ヴァン・ホイテマの優雅な構図は、これらの出来事に正当な重要性をもたらしています。しかし、映像美が見事である一方で、映画の深刻な雰囲気は欠点も生み出しています。フローレンス・ピュー演じる初恋の相手、ジーン・タトロックの本来のキャンプさ(規範から外れている美意識・行動)と対比させるため、オッペンハイマーが性行為中にヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』を引用するシーンがあるのですが、これは作品の魅力を半減させています。

彼女が開いたページには、「今、私は死となり、世界の破壊者となった(Now I am become Death, the destroyer of worlds.)」という文章があります。この文章は人類最初の核実験「トリニティ実験」の際にオッペンハイマーの脳裏にこだまします。オッペンハイマーはその爆発を、自らの生涯の仕事の頂点として示唆します。それはまた、この映画のハイライトでもあります。

ノーランはそれを世界的な指揮者のように指揮し、畏敬し、驚き、そして壊滅的な力を織りなすオーガズム的なシンフォニーを奏でます。それは恐ろしくも、同時に抗えないものでもあるのです。これこそが「神になれるかのような役割を務める瞬間が訪れたとして、誰がそれを拒否できるだろうか?」という、オッペンハイマーをより深く理解できる課題となるでしょう。


残念ながら作品の日本公開日も日本語字幕の付いた予告編も現時点では公になっていません。配給側が政治的論争に巻き込まれるのを嫌っているのか、日本の観客がその内容をを嫌って劇場に行かず、赤字となる可能性が高いと予測しているのかは不明です。しかしながら、この作品は被爆国である日本の人々によってこそ批評されるべきものではないでしょうか? 無論、観客個人の観る/観ないの判断は、精神の平和や信条を大切にしたうえでその人の判断に委ねられることを大前提として。

※この記事は抄訳です
Edit: Keiichi Koyama

From: Esquire US