2022年3月。スイス・ジュネーブのとある一角には、世界を代表する超一流時計ブランドの経営者たちが勢ぞろいしていました。時計業界にとって最大の年中行事とも言える豪華を極めたトレードショー、「ウォッチズ&ワンダー」の会場です。総額にして数百億円に相当する新作時計の発表を、各社がまるで競い合うようにして行います。

「ウォッチズ&ワンダー」は、その年のビジネスとの行方を左右してしまうほどに重要なイベントとして位置づけられています。流通や小売に関する取り引き、ブランドのアンバサダーを務めるセレブリティたちによるプロモーション、世界各国のメディアに向けたPRなど、この時期のジュネーブではあらゆることが行われます。馴染みの顔との再会が繰り返される場所でもあり、あちこちでシャンパンを抜く音も響きます。

オメガとスウォッチが不在の会場で、“ある質問”がひらめいたジャーナリストがいました

取材に訪れていたジャーナリストの1人が、少し斬新なアイデアをひらめきました。何しろこれだけの数の一流メゾンのCEOが集まる機会など、そうあることではありません。その全員に同じ質問を投じたら、それぞれどのように応じるのでしょうか。彼ら自身のブランドについてではなく、他社に関する質問です。

この年のフェアにはなんと、オメガとスウォッチの姿がありませんでした。この2ブランドがインスタグラムでコラボレーションを発表したのは、フェアが開幕するつい6日前のこと。もちろん、それは偶然のタイミングではありません。一週間限りのイベントに出展するために、巨大な予算を投じる他社をあざ笑うかのようでもありました。スウォッチと言えば、ポップでカラフルなクォーツ式の腕時計を1980年代に大ヒットさせた抜群の知名度を誇るポップなブランドというイメージです。それが、対極とも言えるオメガと手を組んだのです。高級時計の世界では、オメガはロレックスに次ぐ売り上げを誇るプレステージあるタイムピースのブランドです。

image
Universal

ブランドに対する敬意とその人気の高さに加え、オメガには安定した評価も備わっています。1932年から現在までオリンピックのオフィシャルタイムキーパーを務め、そこに1995年以降は映画「007」シリーズのオフィシャルパートナーというポジションも加わり、劇中で主人公のジェームズ・ボンドが着用しているモデルは「ボンド・ウォッチ」とも呼ばれています。

1969年に宇宙船アポロ11号のニール・アームストロング船長と宇宙飛行士のバズ・オルドリンが月面着陸を成し遂げた際には、後に“ムーンウォッチ”と呼ばれることになる「スピードマスター プロフェッショナル」は月面で時を刻んだ初めての時計となりました。このように、ブランドにとってのマイルストーンとなり得るマーケティングチャンスを決して逃さないのがオメガと言えるでしょう。そんなオメガに、また新たなひらめきが訪れたのが2022年のことでした。

スウォッチとのコラボレーションにより、「ムーンスウォッチ(MoonSwatch)」と名づけられた11モデルからなるコレクションを発表したのです。バイオセラミックという、見た目も感触もまるでプラスチックと見紛うようなハイブリッドの新素材を採用した、あの「ムーンウォッチ」のレプリカです。オメガの「スピードマスター ムーンウォッチ」であれば、モデルによって5700ポンド(89万1000円)から4万6500ポンド(726万円)といった高額な代物。ところが、「ムーンスウォッチ」はたったの307ポンド(日本での販売価格は3万6300円)での販売となりました。

このコラボレーションに関して、どのように考えるべきか?

その問いをライバル企業のCEOたちに投げかけようというのが、前出のジャーナリストが思いついたアイデアでした。

「ムーンウォッチ」は、オメガの王冠に輝く宝石のごとき名作です。それをなぜ、こんなふうに安っぽく貶(おとし)めてしまうのか」

「オメガのブランドイメージを下落させ、本物のコレクターを遠ざけてしまうに決まっているでしょう。20世紀を象徴する時計として、誰もが認めるデザインの悪用にすぎないのでは?」

「シュコダ(※編集注:チェコの自動車メーカー)とロールス・ロイスのコラボ…とまでは言わないが、そう大差あるまい!」

「全くバカげた話だ」

…こういったところでしょうか。回答した18人のCEOのうち、17人の意見がほぼ一致しました。

そのような中、「このコラボレーションを素晴らしいアイデアだ」と高く評価したのは、たったの1人。そしてその意見こそ、まさに正解だったのです。

image
OMEGA/SWATCH

2022年の時計業界に激震が走ったモンスターモデル

「ムーンスウォッチ」の販売が開始されるや否や、ロンドン、東京、ニューヨークの店舗には予想を遥かに上回る人々が押し寄せました。店舗を開けておけないほどの大混乱を招く大ヒットとなったのです。ストリートでは暴動さえ起き、2000人を超える群衆が詰めかけたニューヨークでは警官隊が出動する大騒ぎとなり、負傷者が病院へ担ぎ込まれる事態まで発生しました。新聞各社もその模様を一面で取り上げています。転売市場での「ムーンスウォッチ」の価格は、瞬く間に8100ポンド(約130万円)にまで高騰し、なんと本家を超える高値をつけてしまったのです。

昨今のハイプウォッチというトレンドに端を発した展開であったことは、もちろん間違いありません。在庫数を限定することで、行列を意図的につくり出したと言えるでしょう。転売価格は急騰しますが、通常それは長続きせず、すぐに沈静化するものです。ですが、今回の一件については「例外的であった」と言えます。2022年の終わりを迎えてなお「ムーンスウォッチ」の転売市場は、(2022年3月ほどではないにせよ)いまだ活況を呈したままでした。そしてこのコラボレーションがオメガにとって、ポジティブな結果をもたらすこととなったのです。それは…販売開始からの数週間、オメガの直営店への客足が大幅に増えたという事実が示すとおりです。

1980年代のピークには年間約1500万本とも言われたスウォッチの売り上げも、今や数万本にまで落ち込んでいるとするインサイダー情報もあります。その情報筋の見立てでは、今回の「ムーンスウォッチ」の効果で2022年のスウォッチの総売り上げは50万本にまで達しています(ちなみに「ムーンスウォッチ」は、直営店のスウォッチストアのみで販売されていました)。

2021年度には180億ポンド(約3兆円)という輸出総額を記録したスイスの時計業界も、このニュースには注目せざるを得なかったのでしょう。なにしろ「ムーンスウォッチ」で実現したコラボこそが、2022年における時計業界最大の話題の1つとなったのです。「過去10年で最も注目された新作リリース」とうたうメディアまで現れたほどでした。

攻勢のオメガ。注目作のリリースはなおも続きました

現行モデルのアップデートなどを通じポートフォリオの充実を図るという点においては、オメガも他の時計ブランドと変わりません。しかし今回のオメガは、さらにいくつかの隠し玉を仕込んでいました。

オメガとして前例のないことですが、10月に入ってからニューモデルの発表が行われました。スウォッチ・グループ傘下の別ブランド、ブランパンとの共同開発を続けてきた「ミニッツリピーター」の技術を組み込んだ2種類のチャイム機能付き腕時計です。1つが「スピードマスター」のニューバージョン。そしてもう1つが、1932年のロサンゼルスオリンピックで使用されたストップウォッチのレプリカです。

image
OMEGA
「オリンピック 1932 クロノチャイム」
image
OMEGA
「スピードマスター クロノチャイム」

いずれの時計にも18Kソリッドゴールドが用いられており、「オリンピック 1932 クロノチャイム」が日本円で6560万4000円、「スピードマスター クロノチャイム」が同7029万円と、まさに前代未聞でした。後者の製造工程は複雑を極めるもので、そのため「年間5本のみの生産が限界ではないか?」とも言われています。実に575もの精巧な部品の集合体ということですが、そのうち20以上の部品が今回のために初めて開発されているのです。

さらに「シーマスター」の「ジェームズ・ボンド」モデルの新作発表を行ったのが、そのわずか1カ月後のことでした。オメガとしては1995年公開の『ゴールデンアイ』でジェームズ・ボンドを演じたピアース・ブロスナンがその腕にブルーの「シーマスター300M クォーツ」を巻いて以来、映画『007』シリーズと良好な関係となっています。今回の最新モデルでは、1995年当時のデザインを巧みに取り入れたうえで2021年公開の最新作『007/ノー・タイム・トゥー・ダイ』でダニエル・クレイグ演じる退役後の007が愛用しているモデルと同じデザインのブレスレットという脈絡を持たせています。

特筆すべきはそのケースバックです。秒針の動きを利用してモアレと呼ばれるアニメーション効果を演出しており、映画シリーズのあのタイトルシークエンスでお馴染みの、銃を構えたボンドのイメージを際立たせてみせたのです。

伝統を重んじるスイス時計業界の名門ブランドの多くは、このような斬新なアイデアを取り入れることにむしろ慎重です。ケースサイズが微調整されたり、新たな素材が用いられたり、ヴィンテージモデルが復刻されたりするだけでその年のビッグニュースとなるような世界です。例えばロレックスが「サブマリーナ」のケースサイズを40ミリから41ミリへと、わずか1ミリ大きくしただけで、世界中のメディアが大騒ぎとなったのがまだ記憶にも新しい2020年のことでした。

「何を大袈裟な」と笑われるかもしれません。ましてや、あのロレックスの伝統あるポートフォリオを見れば、「過激な挑戦を敢えてする必要などどこにあるのか?」という話になるのももっともなことでしょう。

ただし、同じことはオメガにも当てはまるはずです。本来であれば、スウォッチとの斬新なコラボレーションに挑戦する必要も、“誰にも買えないような18Kゴールドモデル”を6年がかりで開発する必要も、稼ぎ頭のモデルにジェームズ・ボンドを乗せて飛び回らせる必要もないはずなのです。確かにどれもクールなギミックですが、あらゆる時計コレクターに理解されるものではない…と予想できるはずです。

常識的に見れば、どれも企画段階で頓挫(とんざ)してしまっても不思議ではないようなアイデアばかり。実際に去年3月の時点では、17人のCEOも鼻で笑っていたのです。しかし今や、彼らも笑い飛ばす余裕などないでしょう。


今回の「ムーンスウォッチ」やその後の一連の注目作品について、その当事者は何を語るのでしょうか? 後編では、『イギリス版Esquire』誌の取材に対するオメガの社長兼CEOのレイナルド・アッシェリマン氏のコメントを中心に、オメガのすごみについて、より深く迫っていきます。

後編へつづく

Source / Esquire UK
Translation / Kazuki Kimura
※この翻訳は抄訳です