<この記事の前編>:深く、深く、さらに深く。ダイバーズウォッチ100年の歴史を辿る【前編】 から続きます。


[INDEX]

▼ 飽和潜水が求めたのは、より堅牢なダイバーズ

▼ 1960~70年代に花開くダイバーズ文化

▼ ダイバーズを民主化した「スクーバ」

▼ 再び変わる(或いは、戻る)ダイバーズの役割


“飽和潜水”が求めたのは
より堅牢なダイバーズだった

海底での長時間に及ぶ作業を可能にしたのが、1960年代に実現した「飽和潜水」という新技術です。これによって、100メートル以上の深度でも安全に長時間の活動ができるようになり、潜水病の危険も減りました。

手順としてはまず、船上で高気圧チャンバーという加圧室で窒素よりも安全とされるヘリウムなどの混合ガスを取り込み、あらかじめ体内を「飽和状態」にしたうえで高圧状態が維持された「ベル」と呼ばれるカプセルに移って、目標深度よりも多少深い深度まで加圧されたのちに目標まで投入されることになります。

降下が完了したらベルはゆっくりと減圧され、ベルの圧力が水圧よりわずかに低くなった時点で、ベルのハッチが開くようになるので、実際のエクスカーション(作業潜水)に入ることになります。海中では実際のエクスカーションの間だけ過ごせばよくなったので、はるかに快適に潜水を実施できるようになったというわけです。そして作業終了後は、上記の手順を逆に行うことになるのですが、減圧症のリスクから浮上(減圧)のほうがはるかに時間がかかることが多く、作業深度100メートルの場合は5日間、300メートルの場合は11日間を要すると言います。

そしてこの新技術の誕生によって、1970年代に入りイギリスを中心とした石油採掘ブームへとつながっていきます。この飽和潜水は、まさに革新的な技術だったのです。1960年代から70年代初頭にかけては、さまざまな混合ガスが実験的に用いられました。

「エネルギー危機が叫ばれ、とにかく石油が求められていました。そのような時代なので、ダイビングができるというだけで仕事はいくらでもありました。汚れ仕事ではありませんし、給料もなかなかでした」と、石油産業に携わるダイバーとして40年間活躍したケビン・ケイシーは話します。

オメガ「シーマスター」の広告
OMEGA

そんな飽和潜水士にとって必要となったのが、より高機能で堅牢な時計でした。そのため時計メーカー各社は、1960年代終盤に入ると防水性能や耐磁性能といった技術をさらに高めていくことになります。一例としてこの時代、深海で時計内のヘリウムを排出するためのエスケープバルブ、つまり減圧室に入る前に腕時計内に侵入したヘリウム分子を外へ排出する役割を担う機構を採用するブランドも登場しました。

1980年代に入り、ダイブコンピューター(※編集注:ダイバーの水深の変化に対応しながら体内の窒素量などを計算し、安全にダイビングを楽しむための情報をリアルタイムに表示するコンピューター内蔵の機器のこと)が登場してからも、ケイシーは引退間際までロレックスの「シードゥエラー」を使い続けたのでした。

「私たちダイバーにとって、ダイバーズウォッチは他の何ものにも代え難いものです。当時は今のように高価ではありませんでした。数百ポンドで手に入りましたし、こちらは結構な収入を得ていたわけです。暇ができたりボーナスが入るようなことがあれば『ちょっと新しいロレックスでも買いに行こうぜ』などと言いながら、時計店へ向かったものです。それがいつの間にか超高級時計になっていて、驚きましたよ。なので、水中で使うのをやめてしまったんです」

1960~70年代に花開く
ダイバーズウォッチ文化

ドクサ サブ 300t
Doxa
ドクサ「サブ 300T」

1960年代終盤から70年代にかけてのダイバーズウォッチは、新機能を次々と追加しながらケースの強度を増し、複雑化の一途をたどります。1968年に登場したドクサの「サブ300T」、1974年にオメガの「マリーン クロノメーター」、1975年にセイコーの“ツナ缶”こと「マリーンマスター」といったカルトウォッチが生まれたのがこの時代です。

その流れと足並みをそろえるかのように、海洋映画もますますマッチョの度を増していき、スピルバーグの『ジョーズ』(1975年の作品。リチャード・ドレイファスがアルスタ「ノートスカフ」を着用)、ピーター・イェーツの『ザ・ディープ』(1977年の作品。ニック・ノルティがロレックスの「サブマリーナー」を、ロバート・ショウがセイコーの「ダイバー 150m(Cal.6217搭載)」を着用)などが公開されました。

そんな70年代にあって究極の怪物と呼ぶべきは、オメガの巨大なプロンジュール・プロフェッショナル、略して「シーマスター プロプロフ」の愛称で知られる「シーマスター 600」です。ちなみにプロンジュール・プロフェッショナル(Plongeur Professionnel)とは、フランス語で「熟練の潜水士」を意味します。そしてその頭文字をもじって、「プロプロフ」と名づけられたのでした。

オメガ シーマスター プロプロフ
Omega
オメガ「シーマスター 600」は55mm × 48mmという巨大ケースを備え、水深600mまで対応。9時位置に埋め込み式リュウズ、2時位置にはあるのはセキュリティプッシュボタンです。2023年には「シーマスタープロプロフ1200M」が登場しました。
「プロプロフ」は瞬く間にハードコアなダイバーを象徴する時計となった

開発には長い年月と予算が惜しみなく注ぎ込まれましたが、売れ行きは期待ほどではありませんでした。「とにかく価格が高すぎたのです」と述べているのは、『Watch Time(ウォッチタイム)』誌の編集者ロジャー・ルガーです。

「ただし、何本売ったとしても、投資しただけの時間と費用を回収することなどできなかったでしょう。その代わりに、カルトウォッチとしての揺るぎない地位を築くことになりました。発表された瞬間、ハードコアなダイバーを象徴する時計となったのです。伝統あるダイビング協会に所属するダイバーの多くが、今なおヴィンテージの『プロプロフ』と共に海の底へと潜っていきます。忘れ去るわけにはいかない時計なのです」

rolex’s perpetual planet initiative
Rolex
ロレックスは「パーペチュアル プラネット イニシアチヴ(パーペチュアル プラネット イニシアチヴ(Perpetual Planet Initiative)Perpetual Planet Initiative)」という活動を通して、地球の生態系を研究することで生物多様性の観察・保護に役立てる活動のサポートをしています。メキシコのユカタン半島では、半島唯一の淡水源である帯水層に広がる汚染問題の調査を実施しています。

1980年代初頭には、ペンシルバニア在住の3人のダイバーによって「オルカ(Orca)」というブランドが設立されます。このブランドはガス消費量や「安全潜水深度」などを計算するアルゴリズムを搭載したウェアラブルなダイブコンピューターを開発する新興企業として、1983年にいち早く市場参入を果たします。「オルカ・エッジ(Orca Edge)」は675ドル(当時の円相場で15万6600円ほど)と高価でありながら、性能は完璧とは言えませんでした。ですが、経験豊富なダイバーであれば、リアルタイム表示機能によって減圧に必要な時間を間違いなく算出することができました。

ダイバーズを民主化した
スウォッチ「スクーバ」

ダイバーズウォッチの栄光の時代に水を差したのは、先のダイブコンピューターだけではありません。1970年代にクォーツ革命が起こり、機械式時計メーカーは危機的状況に追い込まれたのです。回転式ベゼルは、在りし日の産物と見なされるようになってしまいます。そんな時代にあって、IWCの「オーシャン2000」やタグ・ホイヤーの「1000」といった人気モデルが登場して存在感を示しましたが、1980年代の終盤にはダイバーズウォッチも往年のプログレッシブ・ロックのように時代遅れの産物となっていました。

1995年公開の映画『007/ゴールデンアイ』で使われたオメガ「シーマスター300」こそが、“機械式時計の復活”の旗印だったと言う声もありますが、前出の『Watch Time(ウォッチタイム)』誌の編集者ロジャー・ルガーはまた別の見方をしています。

1980年代半ばから1990年代にかけて巻き起こったスウォッチブームとともに育ったスイス生まれの彼は、1990年に突如として大ブームとなったスウォッチ「スクーバ」を求めて店頭に押し寄せる人々の行列を、「今でも鮮明に記憶している」と言います。

スウォッチ「スクーバ」
Swatch
200メートル防水のスウォッチ「スクーバ」シリーズの1994年モデル『SEA FLOOR』。

高い防水性を備えた「スクーバ」シリーズでしたが、そこは当然ポストモダンのスウォッチらしく何よりもルックスが重要視されました。『ボラボラ』『バリアリーフ』「ヒポカンパス」「メデューサ」「ブルームーン」、そしてシリーズ最大の人気を誇った1991年の「ハッピーフィッシュ」へと、その流れは途切れることなく続きました。

「このスウォッチブームによって出現したのが、今日では某スマートフォンの発売日に見られるような、発売前夜の店舗の前で夜明かしをするような人たちです」と、ルガーは述懐します。「ダイバーズウォッチを普段使いの時計として身に着けるというファッションが世間に浸透したことで、その後のダイバーズウォッチ界のルネサンスが起きたのです」

もしかしたら80年代風の洗練されたスタイルに対する反動や、当時起きていた70年代カルチャーへのリバイバルの影響もあったのかもしれません。1990年代も半ばに差し掛かる頃には、オメガの「シーマスター300」の年間販売数は5万本になっていました。パネライも1993年に入ると「ラジオミール」を前面に打ち出すようになり、ブランパンも「フィフティ ファゾムス」を再び表舞台へと押し上げ、そしてIWCも「アクアタイマー」を復活させました。

iwc「アクアタイマー」
IWC
1998年には水深2000メートルまでの防水性を備えた「GSTアクアタイマー」が登場。上の写真は1967年に誕生した初代「アクアタイマー」。

さらに2002年には、ブライトリングが同社初となる機械式ダイバーズウォッチを発表します。またG-SHOCKの「フロッグマン」やセイコーの「SKX」、そして水深計を追加したことでダイバーズウォッチとしての性能を高めたIWCの「ディープワン」など、多彩な時計が登場しました。見栄えが良く明快で、豊富なエピソードに彩られたこれらの時計によって、スイス時計産業への関心が総じて復活することになったのです。

あの時代にはあの時代なりの、負の側面があったのもまた事実です。ダイバーズウォッチのリバイバルによって、1950年代的な価値観もまた一部で復活しました。シャークスキンのストラップ、特権的な富裕層による海の私物化、命懸けの危険なチャレンジに挑むダイバーへの資金提供など、当時であれば盛り上がったあれこれも、今となっては無責任極まりない狂気の沙汰でしかありません。「もうあのような時代が繰り返されることはないでしょう」とルガーは言います。

gショック「フロッグマン」
CASIO
カシオ「Gショック フロッグマン」

再び変わる(或いは、戻る)
ダイバーズウォッチの役割

ジンの「U1」やリシャール・ミルの「トゥールビヨン クロノグラフ」など、今なお進化を止めないダイバーズウォッチの世界ですが、近年では関心の中心はエコロジーへと移っています。ダイバーの役割もまた、自然とつながり、保護することへと変化し、時計メーカー各社は競うようにして海洋保護のための出資を行っています。

その分野におけるブランパンの取り組みは傑出しており、「それが『フィフティ ファゾムス』の評価を高めるのに一役買っている」とルガーは指摘します。もはや無名のダイバーズウォッチなどあり得ないほど人気が高まった今日において、より興味を引くのは企業ごとの社会貢献を目的とした取り組みでしょう。

エネルギー業界の要職にあり、YouTubeチャンネル「Nomad Dive Logs(ノマド・ダイブ・ログ)」のオーナーでもあるギャヴィン・ハルムストンは、新時代におけるダイバーとしての在り方を体現する人物と言えるでしょう。職業ダイバーとして、より深く、そしてより長く潜水することができるように、新たな呼吸ガスや減圧技術の研究に余念がありません。

ダイバーとは海底だけでなく、意識の底を目指す探検家なのだ
YouTube:Nomad Dive Logs
これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
Technical Diving Greece - Wreck of the Patris in 4K
Technical Diving Greece - Wreck of the Patris in 4K thumnail
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彼にとってのダイビングとは派手な冒険譚にあるのではなく、人間界から遠く離れた未知なる領域に身を置き、孤独な平穏を得るための手段なのです。容易に近づくことのかなわない難破船や海底洞窟を訪れたハルムストンが持ち帰る映像を見ると、「ダイバーとは海底だけでなく、意識の底を目指す探検家なのだ」という誰かの言葉を思い出します。

「私にとってのダイビングとは、極めて限られた人間にしか訪れることのできない場所を体験する機会であり、また陸上では決して見ることのかなわない海洋生物や歴史的遺物と、わが身を通じて触れ合う機会でもあります。

海底ほど静寂に包まれた場所は他にありませんし、電灯で照らさなければ何を見ることもできません。ただただ果てしない、まさに漆黒の闇が広がっているのです。海の底でしか味わうことのできない平穏、安らぎ、静けさがあると人は言います。そのような場所に行けるということ、それ自体が得難いことなのです」


話を再び、ゴスポートのダイビング博物館に戻しましょう。

そこではケビン・ケイシーがソレント海峡に反射する眩い太陽の光に目を細めながら、パイプライン復旧作業の現場撮影のためにニュージーランドの海に潜ったときの思い出を聞かせてくれました。「マーカーをセットしていたところカメラが急に引っ張られるのを感じ見下ろすと、1匹のタコがカメラに絡みついていた」と言います。岩場の隙間にカメラを引きずり込もうとしていたのです。

「タコは光るものに反応しますからね」とケイシーは言います。「ところで、そのカメラは私のウェットスーツにつながれていました。だから、私までカメラと一緒に引きずり込まれそうになったのです。恐ろしかったですが、闘わないわけにはいきませんでした。結果はご覧のとおり、勝利しましたよ」。ロレックスに挑もうとするなんて、思い上がったタコだったと言って、ケイシーは懐かしそうに笑います。

「引退して、退屈しているのでは?」と、私は彼に訊(たず)ねました。すると彼は、「仕事のために早起きするのはもうたくさんですよ」と言います。「でもダイビングについては……そうですね。今でも海を見るたびに恋しくなります」

ケイシーはそう話すと、背中から倒れるようにして海に飛び込んでいく真似をしながら、楽しそうに微笑むのでした。

Source / Esquire UK
Translation / Kazuki Kimura
Edit / Ryutaro Hayashi
※この翻訳は抄訳です