その日、ジョン・F・ケネディ・ジュニアは、ハドソン川が一望できる窓の外を眺めていました。目の前のデスクの上には各種雑誌、ゲラ(雑誌として出版する以前に、校正用として一部刷りだされたシート)、NBAニックス戦のチケットの半券、テイクアウトしてきた食事の容器などなど。そして、「口元にはかすかに笑みを浮かべていた」と、元同僚は述懐(じゅっかい)しています。

 それは1996年夏、彼が編集長を務める雑誌『George(ジョージ)』は創刊からまだ1年も経っておらず、方向性を模索している最中でした。そしてそのとき、彼はあるアイデアを思いついたのです。それは、彼の母親である「ジャクリーン・ケネディ・オナシスに扮したマドンナを、9月号の表紙にする」というものでした。

 彼がアシスタントのローズマリー・テレンツィオ(RoseMarie Terenzio)にメモ帳を持ってこさせ、マドンナへの依頼を走り書きしている間に、雑誌『ジョージ』のクリエイティブ・ディレクターのマット・バーマン(Matt Berman)は彼らが求めている表紙のイメージをすぐにスケッチに描き出しました。撮影するのは前衛ファッションカメラマンであるニック・ナイト(Nick Knight)で、「写真は一見したところは編集長の実母のように見えるけれど、よくよく眺めてみると実はマドンナだった」というふうになる目論見でいました。

 この表紙の興味深いところは、雑誌を創刊する前にケネディ・ジュニアが、マドンナと付き合っているという噂が実際にあったというところです。

ジョン・F・ケネディ・ジュニア マドンナ
Getty Images

 残念ながら、ここで表紙モデルとして浮上したポップスター(当時、ケネディ・ジュニアよりも有名だった数少ない人間のひとりです)は、この依頼を断りました。

 「親愛なるジョニー坊や」という書き出しから始まる手書きファクスが、マドンナから届きました。テレンツィオの著書『Fairy Tale Interrupted』の中にそれが登場しています。「私を『あなたのママに』というお話をありがとう。でも、私ではその役目は務まらないんじゃないかな。私の眉毛は、あなたのママほど濃くないし…とかね」

 このようにマドンナに断られたことで、9月号の表紙はすっぱりと方向転換するしかありせんでした。そうしてケネディ・ジュニアが母親の代わりに選んだ内容が、彼の父親と関わりのあったもうひとりの有名女性、マリリン・モンローだったのです。

 肌色のカクテルドレスとプラチナブロンドのウィッグをまとってポーズをとったには女優ドリュー・バリモアで、左の頰にほくろもつける徹底ぶりとなりました。これは『ジョージ』のエグゼクティブ・エディターだったエリザベス・ミッチェル(Elizabeth Mitchell)のアイデアで、ビル・クリントン大統領の50歳の誕生日を記念して提案したものでした。

 元ネタは、1962年5月にマディソン・スクエア・ガーデンで開かれた民主党の資金集めイベントで、10日後に45歳の誕生日を迎えるケネディ大統領(ケネディ・ジュニアの父親)のために、モンローがセクシーなハスキーボイスで「ハッピーバースデー、ミスター・プレジデント」を歌ったという有名な出来事になります。もちろん、元ネタにしたその背景には、この女優と父である大統領との関係がなにかと取り沙汰されていたことにあります。 

 自分の母親を愛してやまない息子が、こんな写真を自分の雑誌の表紙にしたというのは、なんとも奇妙な(マドンナに自分の母親の真似をさせるアイデアよりも、さらに奇妙な)選択のように思えます。が、ミッチェルによるとケネディ・ジュニアは、「父親とモンローとの間にはなんの関係もなかった」と信じていたそうで、「彼はあの表紙を、大衆の期待をカタチにしただけのものと考えていました」と、後年になって語っています。

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Hearst Magazine Media, Inc.
雑誌『ジョージ』(1996年9月号)より。表紙はマリリン・モンローに扮するドリュー・バリモア。

 政治とポップカルチャーを大胆に組み合わせながら、ケネディ風味の味つけを加えたこのバリモアがモンローに扮した表紙は、1995年にケネディ・ジュニアが創刊した『ジョージ』という雑誌を見事に表現しています。彼のコンセプトは、少なくとも現在から見れば、比較的明快なものと言えるでしょう。要は、「政治を中心に据えたライフスタイル・マガジン」なわけです。

 しかし『ジョージ』は当時としては画期的な雑誌であり、このようなものはそれまでありませんでしたし、また、ジョン・F・ケネディ・ジュニアのような弁護士資格を持っている雑誌編集長も他にはいませんでした。

 予想されたようにメディア批評家たちは彼をあざけり、「方向性が見えない」だの、「能力不足」だの、「アイデアが軽薄」だのと揶揄しました。『エスクァイア』ではこの雑誌を当時、「悲劇が刻印された乳母日傘(おんばひがさ=乳母に抱かれ、日傘をさしてもらうなどして、ちやほやされながら大切に育てられる意味)の人生を歩む男が乗りだした、最も危険な冒険」と呼んでいました。

 『ニューズウィーク』は、「ケネディ・ジュニアは、これまで真の責任を負わずに生きてくることができた少々いけすかないやつであり、たくさんの女性たちを大事にし、自分が本当にやりたいことや楽しみにしていることが、よくわかっていない人物。公園でフリスビーを楽しんでいるよう男がいま、どうやらこれから成長しようとしているようだ」と。

 そして「ロサンゼルス・タイムズ」は、「ケネディ・ジュニアの『ジョージ』はアメリカの政治をセクシーにしようとしているのか? それとも、いまよりもっとひどくするつもりなのか?」と批評しています。

 しかし、ケネディの直感は間違っていませんでした。

 彼の死から20年が経ち、政治とポップ・カルチャーはすっかり近しいものとなり、いまでは大統領候補が週末の対話集会と同じくらいの時間をテレビ出演に費やし、夜のトーク番組で有権者に訴えかけています。政治家がまるで芸能人のように扱われ、芸能人は芸能人で、政治的発言を積極的に行うといった按配(あんばい)…。現職のトランプ大統領はテレビのリアリティ番組が生み出したような産物であり、オバマ前大統領も先ごろNetflixと契約を結んでいます。オプラ・フィンフリー(テレビの人気司会者)はこれまでも大統領選への出馬が真剣に取り沙汰されていますし、ザ・ロック(元プロレスラー)やマーク・キューバン(実業家)も、「真剣に」とは言えないかもしれませんが同様の状況に。

 第35代合衆国大統領と、エレガントな元記者(「ワシントン・タイムズ・ヘラルド」紙)であったファーストレディの息子であるケネディ・ジュニアは、政治とポップ・カルチャーの融合を狙い、さらにそれを推し進めるという申し分のない立場にいたのです。なぜなら、彼自身がその中で生きてきたからです。

実際に『ジョージ』の表紙になった、
アート・ディレクターである
マット・バーマンが描いたスケッチ :

存在しない画像

 ケネディ・ジュニアと親しい人たちの中には、『ジョージ』は彼自身が公職選挙に出馬するための第一歩だと考えている人たちがいました。いずれ彼が政治の世界に飛びこんでもいいように『ジョージ』を、「スターである彼の力がなくてもやっていけるような人気雑誌に育てる計画だった」と言うのです。しかし彼には、それを成し遂げるだけの時間はありませんでした。というより、なくなってしまいました。

 1999年7月16日、彼が操縦する飛行機が大西洋に墜落して、妻のキャロリン・ベセット、その姉ローレン・ベセットとともに死亡したのです。そしてその1年半後、雑誌『ジョージ』は廃刊になりました。

 この個人的な悲劇よりも大きかったのが、ひとりの職業人としての悲劇でした。

 結束の固いチームをつくり上げ、エキサイティングなブランドを築き、政治を考えるための新しい方法を確立するために、ケネディ・ジュニアは懸命の努力を積み重ねてきたのです。が、彼の場合、個人とプロフェッショナルは分かちがたいものでした。

 出版社や広告主、そして読者が彼に期待をかける動機となったのは、「ケネディ」という名前があったからです。そして同時に、ケネディ家の人間であるがゆえに、編集長としての彼の立場を複雑なものにし、雑誌の内と外の両方で確執を生むことにもなりました。

 「ジョンは命を落とす前から死んでいた」と言うのは、ケネディ・ジュニアのあとを受けて編集長になったフランク・ラッリ(Frank Lalli)です。

 彼は、2000年にドナルド・トランプが『ジョージ』の表紙に登場して話題になったときの編集長でもあります。「そしてこの雑誌も、廃刊を迎える前にすでに死んでいたんだ」と彼は言っています。


裏話 知られざる…
Esquire
1989年にニューヨーク大学のロースクールを卒業。

 合衆国大統領ジョン・F・ケネディの第二子で、1983年にブラウン大学、そして1989年にニューヨーク大学のロースクールを卒業した後、1989年から1993年までニューヨークの地方検事補を務めた彼が、政治家の政策よりも人物に重点をおいた政治雑誌をつくることを思いついたのは、ビル・クリントンが勝利した1992年の大統領選挙のときでした。このときクリントンは、人気TV番組『アーセニオ・ホール・ショー(The Arsenio Hall Show)』にゲスト出演してサックス演奏も披露していました。

 ケネディ・ジュニアは友人のマイケル・バーマンと食事をしているとき、その雑誌のアイデアを話しました。当時バーマンは、マンハッタンで「PR/NY」というPR会社を経営していました。バーマンはその話にすぐに乗っかります。彼らがまず最初にとった行動は、1993年にニューヨーク・ヒルトンで催された「自分の雑誌を創刊するために」と題された2日間のセミナーに参加することでした。

  そのときに行われた講義のひとつで、講師は次のようなことを話しています。

 「どんなテーマの雑誌を創刊しても、成功することは可能です。しかし、宗教と政治だけは別になります」と。ですがケネディ・ジュニアはこのときに既に、決意を固めていたのです。

 当時、雑誌『フォリオ(Folio)』の記者で、現在は「ニューヨーク・ポスト」紙のメディア・コラムニストであるキース・ケリー(Keith Kelly)は、そのセミナーに有名人がいることに気がつきました。会場に到着したケリーが目をとめたのは、みんなの目の前でインストラクターがプロジェクターのセッティングをやるのを手伝っている、ケネディ・ジュニアによく似た男の姿です。

 「まさか、ジョン・ジョン(ケネディ・ジュニアの愛称)のはずがない」と彼は思いました。しかし、後になって話しかけてみると、まさしくケネディ・ジュニアその人だったのです。

キース・ケリー氏(Keith Kelly)
Esquire
『ニューヨーク・ポスト』のメディア・コラムニストであるキース・ケリー(Keith Kelly)。

 「ジョン、自分の雑誌をはじめるつもりなのかい?」とケリーが訊ねます。

 すると、ケネディはためらいがちに「さあ、どうかな。よくわからないね」と答えました。

 ケリーは念を押しました。「もしはじめるときは、真っ先にぼくに教えてくれるかな?」


 ケネディ・ジュニアとバーマンは、このプロジェクトに関する作業を1994年の春まで断続的に続けていました。バーマンのオフィスに秘密の準備室を設けると、毎日そこで戦略会議を行いました。それから数カ月後にバーマンは、自分の会社を売却してケネディ・ジュニアと事業をはじめることを事務所のスタッフに伝えます。そして、バーマンの部下だったローズマリー・テレンツィオをアシスタントに採用して、彼らはこの新プロジェクトを本格的に推し進めることになったのです。

“「あまりに政治的で、
熱々のポテトみたいに
触ると火傷しそう」”

 90年代の初めは、高級娯楽雑誌の黄金時代でした。非常に収益の上がるビジネスだったのです。

 と言うのも、インターネットが普及する以前は、企業の広告予算はもっぱら雑誌広告に注ぎ込まれていたからなのです。読者も増える一方でした。中でも『ピープル』のようなセレブの動向に焦点を絞った雑誌は、1994年には週に310万もの人々が手に取っていました。発行部数の多い雑誌ともなると、その表紙には時代の雰囲気が色濃く反映されていて、表紙に起用された有名人が一夜にして時代を象徴する人物になることもあり得ました。

 『ヴァニティ・フェア』の表紙で、アニー・リーボヴィッツ撮影による妊婦ヌードを披露したデミ・ムーアしかり。1992年に「ロックのニューフェイス」という称号とともに、『ローリング・ストーン』の表紙を飾ったニルヴァーナなどがそれに当たります。そんな状況の中でも、ケネディ・ジュニアとバーマンのコンセプトをバックアップしてくれる会社を見つけるのは、ケネディの名前をもってしても容易なことでなかったのは事実です。

 それは出版界には、「政治的な出版物に広告を出してもらうのは難しい」という考えが以前からあったからです。高級娯楽誌に比べると、『ニュー・リパブリック』や『ナショナル・レビュー』のような雑誌はこの時代でも部数も広告ページも少なく、入っている広告も大学出版局のような広告料の安いものがほとんどでした。

 ケネディ・ジュニアは、『ジョージ』のプロトタイプを出版界の巨人「ハースト」にプレゼンしました。ハーストと言えば『コスモポリタン』や、そうです!『エスクァイア』などの雑誌を出しているところなわけですが、結果的にはケネディ・ジュニアのプレゼンは却下されました。

 90年代半ばに「ハースト」のコンサルタントをやっていたサミール・フスニによると、「ハーストは『ジョージ』があまりに政治的で、熱々のポテトみたいに触ると火傷しそうだと思ったよ」と言っています。「その雑誌を続けていけるようなビジネス・モデルが見えなかったんだ」とのこと。

 1995年の『エスクァイア』の記事によると、『ローリング・ストーン』を創刊したメンバーのひとりで、ケネディ家の友人でもあったヤン・ウェナー(Jann Wenner)は、『ジョージ』の噂を耳にして激怒したと言います。「いったいどういうつもりだ?」と、彼はケネディ・ジュニアを問い詰めたという話。「悪いことは言わないから、俺の言うことをきけ。政治は売れない、金にならないって」と…。

 そして1994年初頭、バーマンとケネディ・ジュニアはデヴィッド・ペッカー(David Pecker)というパートナーを見つけます。当時のペッカーは、『エル』『カー・アンド・ドライヴァー』『ウーマンズ・デイ』などの雑誌を出していた「アシェット・フィリパッキ・マガジンズ」の社長でした。ちなみにこの3誌は、現在いずれもハーストから出ており、ペッカーはドナルド・トランプの友人としてすっかり有名になりました。彼の現在の会社で、『ナショナル・エンクワイアラー』を出している「アメリカン・メディアInc.」は2016年、大統領候補だったドナルド・トランプにとって不利になる話をおさえ込むのに一役買っていました。

 ペッカーは、ケネディと取り引きができるこのチャンスに飛びきます。当時の報道によれば、「向こう5年間に2000万ドルを投資する」ことに同意したと報告されています。1995年の雑誌『ニューヨーク』に載ったインタビューでペッカーはうっかり口をすべらせ、『ジョージ』のことを「命を得て息づいている絶頂感」だと言っていますが、この記事のライターは「彼が望んでいるのは、どうやらそれにかなり近いものらしい。いずれにしても、ペッカーはワクワクが止まらないようなのだ」との結論を下しています。

デヴィッド・ペッカー氏(David Pecker)
Esquire
1994年に撮影されたデヴィッド・ペッカー(David Pecker)。

 「ジョンは、『ジョージ』のアイデアをすべての大手出版社に提示していましたが、その多くはヤン・ウェナーのように彼の個人的な友人。でも、返ってくるのは断りの返事ばかりで、その多くは『政治とポップ・カルチャーを結びつけた雑誌なんてうまくいきっこないから…』というのが言い訳になっていたんだ」と、ペッカーは当時のことをeメールで振り返っています。

 「結局ジョンは、私を訪ねてアシェットにやってきた。彼からコンセプトを説明してもらった私は、それを熱烈に支持した。ジョンが編集長の雑誌なら、読者にアピールするだけでなく、どんな広告主でも興味を持つに違いないと思ったんだ」

 アシェット社が真っ先に求めた変更点のひとつがその誌名であり、政治とポップ・カルチャーの交差点を示唆する『クリスクロス(Crisscross)』などの代替案が示されました。ですが、ケネディ・ジュニアとバーマンは『ジョージ』という誌名、初代大統領をやや気安い調子で肯定した表現にこだわりました。

 そうした中、ケネディ・ジュニアが『ジョージ』という雑誌を創刊することを匿名の情報提供者がページ・シックス(『ニューヨーク・ポスト』のゴシップ欄)にリークされることになります。こうなると、もはやこの誌名で行くしかなくなるわけで…。

 広告に関しては、ペッカーのにらんだとおりでした。雑誌が創刊される前、ケネディ・ジュニアは自動車メーカーに広告を出させるため、デトロイトに出向きました。自動車メーカーは潤沢な予算の点でも企業としての格の点でも、昔から最も望ましい広告主のひとつだからです。

 「私はGM、クライスラー、フォードの人間と話をするため、デトロイトに向かいました。ジョンから1週間遅れて行ったんです」と振り返るのは、元『ヴァニティ・フェア』の編集者、グレイドン・カーター(Graydon Carter)です。

 「ジョンに会うための長い行列ができていました。どの会社も、オーディトリアム(大ホール)にいっぱいの人が集まっていたんです。私が到着したとき、メタル製の家具が置かれたオフィスには、もう誰もいませんでした。いるのは私とうちの営業担当者だけ…といったありさまです。ジョン・ケネディ・ジュニアの前では、こちらも形なしですよ」 

 ケネディの売り込みが功を奏して、GMは『ジョージ』の最大の広告主となりました。ペッカーによると、「創刊号には500ページ以上の広告が入ったよ。同時期に出た『ヴォーグ』9月号のページ数より多かったんだ」と振り返っています。

From Esquire US
Translation / Satoru Imada
※この翻訳は抄訳です。