『ローリング・ストーン』誌の共同創刊編集長ジャン・ウェナーは、このほど発売された回顧録『Like a Rolling Stone: A Memoir』の中で、「ジョン・F・ケネディ・ジュニアが亡くなった頃には既に、彼らの結婚生活は破綻状態だった」と明かしています。

そんなウェナーが親友でもあるジョン・F・ケネディ・ジュニア(以降は彼の愛称、ジョン・ジョンに)と最後に話したのは、1999年7月とのこと。これはジョン・ジョンが自分で操縦する飛行機事故で妻と共に、38年間の人生を終えたわずか2週間前のことでした。

ジョン・f・ケネディ・ジュニア
Rose Hartman//Getty Images
ジョン・F・ケネディ・ジュニアと妻キャロリン・べセット・ケネディ(John F. Kennedy Jr.、Carolyn Bessette-Kennedy

彼の結婚生活は当時難礁に乗り上げていた

「彼の結婚生活は既に、危ういものになっていました」と、ウェナーはつづっています。さらに、「(飛行機事故の日)彼は2時間も遅れて、日没後に離陸したのです。しかも、灯りの見える海岸線に沿った航路を選ばず、あえて視界の悪い洋上のコースを選んでいたのです……」と、続けて記述しています。

そのプライべートの飛行機には、ジョン・ジョンの妻であるキャロリン・べセット・ケネディと彼女の姉ローレンが同乗していました。夫婦の遺体は海底から引き揚げられ、その後教会で行われた小さな葬儀の場に招かれたウェナーは、ジョン・ジョンの従姉妹(ジョン・F・ケネディの妹であるユーニス・ケネディ・シュライバーの長女で、アーノルド・シュワルツェネッガーの元妻)マリア・シュライバーと再会し、「お互いの腕の中に倒れ込み、泣き出した」ということ。

その一方で、「僕はジョン・ジョンを愛していた。彼は良い友だちであり、弟であった。そして今では、神話の世界に生きる堕ちた王子だ」ともつづっています。

ウェナーは彼を親友として、実に深く慕っていました。その証拠にウェナー自身にもし何かあった場合、自分の子どもたちの後見人にジョン・ジョンを指名していたほどです。ですがこの回顧録でウェナーは、当時共同編集長として雑誌『George』まで刊行した同業者でもあるジョン・ジョン の人物像について、率直に明かしています。そこには二人の関係性の複雑さも、少々垣間見られるかもしれません。

※ジョン・F・ケネディ大統領の妹ユーニス・ケネディ・シュライバーの娘。アーノルド・シュワルツェネッガーの元妻としても知られています 

ジョン・f・ケネディ・ジュニア
Ron Galella//Getty Images
95年7月『ジョージ』誌発表の記者会見にて。

この著作の中でウェナーは、メドウランズで開催されたローリング・ストーンズのコンサートに、ジョン・ジョンと行ったときのことも回顧しています。

「僕は彼に、『ドープ(麻薬)を持ってきてくれたらチケットを取ってあげる』って言ったんだ。そして当日、会場に着いて車を駐車させたときに彼は、1フィート(約30㎝)もあるボング(水パイプ)を取り出してきたんだ。『さあ、これを席まで持っていこうぜ』とでも言うようにね。ジョン・ジョンらしいよ…」

またウェナーは、「暗殺されてしまった(第35代)大統領ジョン・F・ケネディの息子であるジョンは、政治家になるべきだ」とも強く思っていたようです。「僕らはよく、ジョン・ジョンが何をすべきかについてよく議論していたんだ。彼は大統領選に出るものだと思っていたし、そうすべきだと強く思っていたんだ。庶民的で話し方も真面目で、思いやりのある人物だったしね。事実、彼は礼儀正しく、面白い、そして全てにおいて素晴らしい男だった。でもその一方で短気でせっかち、そして、時折無鉄砲なところもあったなぁ…」と、回顧しています。  

評判を異様に気にする性格

ウェナーは、二人は亡くなる前の数カ月間、仲違(たが)いをしていたことも著書の中で告白しています。その仲違いのきっかけは、ジョン・ジョンの母方の従兄弟アンソニー・ラジウィル(母ジャクリーンの妹リー・ラジウィルの息子)にあるとのこと。

「ジョン・ジョンは衝動的でもあり、短気でもあったんだ。彼は電話の折り返しもくれなかったこともあるからね」とも、ウェナーはつづっています。それはあるとき、ウェナーがジョン・ジョンの従兄弟であるアンソニー・ラジウィルに、「『George』誌にことだけど、実際のところどう思う?」と訊いたことが発端になったようです。

「僕がアンソニーにそう訊いたことを、アンソニーはジョン・ジョンに話してしまったんだ。すると彼は、僕が悪口を言って回っていると感じたようでね…。そのとき僕は、『アンソニーにそこまで率直に訊くべきではなかった』と後悔したね。でも、そんな風に家族間で疑心暗鬼にさせてしまう性分は、あの一家について回っているものだと思ったね。振り返ってみると、それが事態をより悪くしたのだと思う…」と、ウェナーはつづっています。

ジョン・f・ケネディ
Bettmann//Getty Images
ジョン・F・ケネディ大統領(John F. Kennedy)のデスク下から顔を出す、ジョン・ジョン。大統領が暗殺された際の国葬日は、彼の3歳の誕生日でした。

ジョン・ジョンとウェナーの二人はその後、マリア・シュライバーの仲裁のおかげで和解します。ですがそれは、彼の死のわずか2週間前のことだったそうです。

そんなウェナーは、ジョン・ジョンの姉のキャロラインとも、さらに母ジャクリーン・ケネディ・オナシスとも親交がありました。「ジッキーと過ごす時間が大好きでした。公の場にいても、散歩していても、彼女といると美しさの真っただ中にいるようで…。まるで、キラキラした日の差す泡の中にいるようだったね。人々は彼女を観ると、道を譲ったりする。彼女は人々を魅了しているようだった。僕たちは何度も、ランチを共にした」と、ウェナーは記述しています。

ウェナーとジャッキー・オナシスの最後のランチは、1994年の4月の終わりだったとのこと。そのとき彼女は、「自らの子どもたちについて、そして自分の妹のリー(・ラジウィル)が未だに自身に対して怒り(※)を持ち続けていること、さらにそれに対する彼女の深い悲しみについて話した」とつづっています。

当時64歳だったジャッキー・オナシスが、「奇妙な乾いた咳」をしていたことをウェナーは覚えていることも記されています。「彼女が、癌(非ホジキンリンパ腫)の治療をしていたことなんて全く知らなかった。その2週間後、彼女は亡くなったんだ」と、この回顧録で明らかにしています。

※ジャクリーン・ケネディとギリシャの富豪アリストテレス・オナシスの再婚は、先に交際していた妹リーからの略奪愛でした。

Like a Rolling Stone: A Memoir

Like a Rolling Stone: A Memoir

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