1984年、ジュリアン・レノンのアルバム「ヴァロッテ(Valotte)」がリリースされた日、私(筆者ライアン・ダゴスティーノ)は兄と芝刈りで稼いだお小遣いを出し合い、コネチカット州ウェスト・ハートフォードのレコードショップ「レコード・エクスプレス」まで自転車を飛ばしました。

地元のトップ40局だった96.5 WTIC FMでは(MTVでも)、1曲おき「ヴァロッテ」に収録されている 『Too Late for Goodbyes』が流されており、私たちはどうしてもこのアルバムを手に入れたかったのです。

これはThird partyの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。

そのアルバムを今でも持っています。モノクロのジャケット写真のジュリアンは、後ろ向きに椅子にまたがり、にこりともせずにこちらを見つめています。当時はわかりませんでしたが、今になってみると、この写真の彼がどれだけ父親に似ているかがわかります。当時の私は9歳でしたが、恐らくこのアルバムは私にとってビートルズという世界への入り口であり、最初の授業のようなものでした。

記者に囲まれるジュリアン・レノン
Nick Elgar//Getty Images
アルバム「Valotte」がリリースされた1984年、記者に囲まれるジュリアン・レノン。このアルバムで彼はグラミー賞最優秀新人賞にノミネートされました。『Too Late For Goodbyes』は父親について歌ったものという説も。

1年前、私はジュリアン・レノンにインタビューをしました。ちょうどドキュメンタリー映画『ザ・ビートルズ:Get Back』が公開されたばかりで、ジュリアンはショーンとその映画を観たそうです(注:ショーン・レノンの母はオノ・ヨーコ、ジュリアンの母はジョン・レノンの最初の妻シンシア・パウエル)。

このインタビューは、自分自身について書かれた曲を持つことの意味を探るプロジェクトの一環として行われました。その曲とは『ヘイ・ジュード』のこと。ポール・マッカートニーがジュリアンとシンシアについて書いたという曲です。ちなみに私の友人のチャドウィック・ストークスディスパッチというバンドのメンバー)は最近、私と私の家族、そして辛かった時期を題材にしたをつくったのですが、そのプロジェクトの話はまた別の機会に…。

今回は、ジュリアン・レノンのインタビューを掲載します。インタビューの中で、ジュリアンは、当時発売されたスタジオアルバム「ジュード」について話してくれました。

映画をきっかけに
変わった想い

エスクァイア: 両親が離婚したとき、ポール・マッカートニーがあなたとあなたのお母さんを慰めるために『ヘイ・ジュード』を書いたと言われていますが…。

ジュリアン・レノン(以下、レノン):最初は 「Hey Jules」(「Jules」はジュリアンの愛称)だったのですが、リズム的に座りがよくなかったそうです。「ヘイ・ジュード」でよかったと思います。

この曲はポールが母を、そして私を慰めるために書いたものです。そこに込められていたのは間違いなく美しい心情で、とても感謝しています。彼が私のために、そして母のために曲を書いてくれたという事実は、とてもありがたいものです。

ただ、その日の気分やどこでその曲を聴くかによって、良いものにも、少しストレスを感じるものにもなり得ます。心の奥底では、それを悪く思う気持ちは全くありませんが…。

カンヌ映画祭会場に向かうジョン・レノンとシンシア・パウエル
Manchester Daily Express//Getty Images
1965年、カンヌ映画祭会場に向かうジョン・レノンと、最初の妻(ジュリアンの母)シンシア・パウエル。

この歌詞は現在にも通ずるものです。それは肩にのしかかった重圧を取り払い、人生をより良くするということ。特に私は、ミュージシャンとして歩んできた道では、父の後に続くことにしましたから…。

正気か? なぜそんなことを? と言われかねないようなこと、多くの人が困難だと思うような道を私はこれまで選んできましたが、だからこそ30年間音楽を続けた後に、「今こそ自分が抱いていた他の夢を追いかけるときが来た」と感じることができたのです、写真やいろいろなことを…。

音楽は常に私の血の中に息づいていて、それは父のおかげでもあり、ビートルズのおかげでもあります。特に『ザ・ビートルズ:Get Back』を観た後はそう感じています。

exclusive 100 minute sneak peek of the beatles get back
Charley Gallay//Getty Images
2021年、ビートルズのドキュメンタリー映画『ザ・ビートルズ:Get Back』の試写会に出席したジュリアン・レノンとショーン・レノン(ジョン・レノンとオノ・ヨーコの息子)。ジュリアンは不安を感じていたもののショーンが「試写会に参加したい」と言ったため、ジュリアンは “一緒に悪夢(不安)に立ち向かおう”と連帯して出かけたそうです 。

ショーンも実際、『ザ・ビートルズ:Get Back』のプレミアに行くことに乗り気ではありませんでした。彼は圧倒的なプレッシャーを感じていたのです。私も特に「行きたい」とは思っていませんでした。でもショーンが、「観に行かなくては」と感じているようだったので、「わかった、僕も一緒に行くよ。一緒に悪夢(不安)と立ち向かおう」と言いました。私は彼をとても大切に思っていますから。

私たちは常に、特にイギリスのマスコミに、“レノンの息子たちの確執”といった話をあれこれ書かれてきましたが、これまで一度だって喧嘩したこともありません。全くナンセンスな話です。

私は、自分たちが微笑んだり、大笑いしたり、ふざけたりしている、何の変哲もないハッピーな写真をたくさん投稿しました。これは私にとっても、平安のためにも、家族にとっても重要なことでした。もちろん過去には、間違いなく私たちの間に軋轢(あつれき)があったからです。でも、皆少しずつ大人になっていき、年を取るとともに亡くなる人もいて、「人生で最も大切なものが何であるか」に気づきました。

ショーンへの愛、ヨーコへの愛、ステラ、ポール、メアリー(マッカートニー)への愛、ダーニ(ジョージ・ハリスンの子息)への愛、ザック(リンゴ・スターの子息)への愛…。私たちは、過去からのつながりを持つちょっと変わった大家族です。ただ、よく言われるように、家族にちょっとしたトラブルはつきものでしょう。

『ザ・ビートルズ:Get Back』を観て、私は改めて父を好きになりました。というのも、そのドキュメンタリーの中で、関係が少しこじれる前にあたる子どもの頃の記憶にあったそのままの彼の姿を見たからです。そこで改めて、ジョン・レノンの子どもであることをとても誇りに感じることができました。

私はいつも自分自身の道を切り開こうとして父の存在を少し遠ざけてきましたが、このドキュメンタリーを観た後は新たな決意が生まれたと言いますか、かつての栄光や歴史の一部であることをとても誇りに思えるようになったし、それを受け継いでいくことに正義感のようなものを感じるようになりました。

ジョージ・ハリスン、オノ・ヨーコ、リンゴ・スター、ジュリアン・レノン、ショーン・レノン
Ebet Roberts//Getty Images
ジュリアンの言う「過去からのつながりを持つちょっと変わった大家族」。1988年、ビートルズがロックの殿堂入りを果たした年に。(左から)ジョージ・ハリスン、オノ・ヨーコ、リンゴ・スター、ジュリアン・レノン、ショーン・レノン。

レノンにとっての
『ヘイ・ジュード』の存在

エスクァイア: 物心ついて初めて聴いた音楽は何ですか?

レノン:『青い影(Whiter Shade of Pale)』です。私が3歳のときだったと思いますが、なんとなくこの曲は好きだと思ったことを覚えています。歌というのは、過去のあるとき、ある場所へと人を回帰させるものです。

これはThird partyの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。


『ヘイ・ジュード』もそうです。不思議なことに、観客は私に対して『ヘイ・ジュード』について言うのを気が利いたことだと思っている節があるのですが、彼らはあの曲が生まれた背後にある多くの痛みを知らないのでしょうね。

『ヘイ・ジュード』について触れられるたびに、私は母が父と別れたこと、失われた愛、その後父とはほとんど会わなかったことを思い出します。亡くなる前に会ったのは多分2、3度です。多くの人はそれがどれほど強烈で、どれほど感情的で、どれほど個人的な体験であるのかを理解していません。

これは、「自分を取り戻し、古いほこりを払って、幸せになる」といったことができるような単純なものではなく、心の奥深くに抱えた痛みなのです。私はそれを前向きにとらえることができますが、同時にそれが常に私の暗部であることも事実です。

「許す」とか、そういう感情が入り込む問題でもないのです。私の人生において、あるとき、ある場所で、あることが起こった。それだけのことです。私がそれにどうやって向き合っているか?は、誰にもわかりません。もしかしたら、向き合っていないのかもしれませんし…。ただ、セラピーが必要か? と言われれば、答えは「ノー」です。人生そのものが、十分セラピーの役割を果たしているように思います。だからこそ、とても奇妙な話なのです。

ジュリアン・レノンと「u2」のボノ
Earl Gibson III//Getty Images
2016年、ロサンゼルスのライカ・ギャラリーで開催されたレノンとマチュー・ビトンとの合同写真展のオープニングで。一緒に写っているのは「U2」のボノ。

エスクァイア: ヘイ・ジュード』以前で、覚えていることは?

レノン: 5歳のとき、サリー州ケンウッドの家に住んでいたことですね。誕生日のケーキが蒸気機関車の形をしていたことを覚えていますから。その当時、アメリカの 『ケイシー・ジョーンズ』という白黒のテレビ番組に夢中になっていたんです。そこに登場するケイシー・ジョーンズが、蒸気機関車の運転士でした。あとは、テーブルとキッチンの様子を覚えています。父が鍬(くわ)を持って立っている写真があって…ガーデニング用のね。私はベビーチェアに座り、髪をアップにした母が座っていました。

家に、見知らぬ人が来ていたこもを覚えています。それが大丈夫な子どもにとってはワクワクするようなことかと思いますが、私はというと、極端に人見知りで、そのまま人見知りは治りませんでした。信じられないかもしれませんが、今でも人見知りの問題を克服しようとしています。ここ数年は、恐怖心を持たないよう自分を奮い立たせています。そうですね、常に、何らかの防衛システムを持たなければなりませんでした…。

私と関係のない世界の人々は、子どもの頃、父と多くの時間を過ごし金銭的にも余裕があった」と思っていますが、そうではありません。むしろ、全くそんなことはありませんでした。

ジョン・レノンとジュリアン
Keystone-France//Getty Images
ジョン・レノンとジュリアン。1968年リバプールにて。

エスクァイア: 本当に?

レノン:ええ。両親が離婚したとき、母は自立し、私も自分の道を切り開きました。ある時期にお小遣い程度のお金が入ってきたこともありましたが、ほとんどはただ生きていくためにひたすら奮闘し、さまざまな噂と戦ってきたのです。

母は「どうやって家族を養っていくか」ということについて、あれこれ思いを巡らせていたと思います。夫はもういない、ジュリアンの世話をしなくてはならない…。これは彼女にとって大変なことだったでしょう。私が今こうしていられるのも、母が品位と威厳を保っていたからだと思います。母は間違いなく私の道標であり、ヒーローでした。心から尊敬する唯一の人です。

エスクァイア: お母さんのことを歌にしたことはありますか?

レノン:Beautiful』という曲は、母と、私が失った全ての人に捧げた曲です。母への想いや母をどれだけ誇りに思っているか、母が何と戦い、何に耐えなくてはならなかったか、生きていくために何をしなければならなかったか、ということをクローズアップした曲はもっとあります。

祖母は昔、アンティークの陶器をたくさん収集していたのですが、母は結局、私の身支度を整えて学校に通わせ生活していくために、祖母が集めたそれらの品を全て売らなければなりませんでした。

ジョン・レノンの平和活動を称える記念碑の除幕式に出席したジュリアン・レノンと母シンシア
Dave Thompson - PA Images//Getty Images
2010年、レノンの70歳の誕生日に、ジョン・レノンの平和活動を称える記念碑の除幕式がリバプールで行われました。そこに、レノンと母シンシアは出席していました。

父が殺害されたと聞いたとき、母はロンドンにいてその日のうちに帰宅したのですが、私が真っ先に考えたのは「母は大丈夫か」ということでした。彼女は父と結婚し、同じアートスクールに通い、一緒に暮らしていた人です。恐らくまだ父を愛していたことでしょう。自分がかつて愛していた人を愛する心がまだ残っているということは、私にも理解できます。それは決して消えることがないものです。

エスクァイア: お母さんは家に戻ったのですか?

レノン: 当時、私は家で義父と一緒にいたのですが、義父のことを特に好きだったわけではありませんでした。母は義父に、「私が家に帰るまでジュリアンには言わないで。私が話すから」と言ったそうです。ただ、私の寝室は屋根裏、母の寝室は階下の通りに面した部屋だったのですが、階段を下りているときに多くのカメラマンが来ているのが見えたので、「ああ、何か起きたな」と思いました。私は17歳だったと思います。

ジョンが妻のオノ・ヨーコと住んでいたニューヨークのアパート「ダコタ・ハウス」
Keystone//Getty Images
ジョン・レノンが殺害された後、ジョンが妻のオノ・ヨーコと住んでいたニューヨークのアパート「ダコタ・ハウス」の外には大勢の人が詰めかけました。

エスクァイア: その後、あなたにとっての『ヘイ・ジュード』の存在に変化はありましたか?

レノン:最初、この曲は母を想定したものだと思っていました。ですがその後、自分のことだと感じるようになり、「この先の人生で何と向き合うことになるのか?」がわかりました。実際、私が経験してきたうんざりするような出来事について、(ポールの言葉は)間違っていませんでした。

どう思っても、私の人生は順風満帆だったわけではありません。いつも、ほとんど平気な顔をしてきましたが、トラウマを抱えた人生でした。それは間違いありません。さまざまな出来事やトラウマを乗り越えてきました。年寄りのような表現になってしまいますが、年を取ることが天から与えられる救いなのだと思います。

健康かつ、ほぼいつも健全な精神状態でいられるなら、私にとって年齢は関係ありません。年齢とは知恵と経験、そして物事が現在の自分にどう関わっているか? 今の人生で何が重要か? という問題に関わることなのです。

『ヘイ・ジュード』は私にとって、以前よりも重要な曲になっていると思います。

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The Beatles - Hey Jude
The Beatles - Hey Jude thumnail
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エスクァイア: 最高の芸術作品の中には、痛みやトラウマから生まれるものがあります。あなたの写真の素晴らしさは類いまれなものですが、それらの一枚一枚が自身の人生経験から生まれたものだと思わざるを得ません。

レノン: 非常に同感です。私は周囲のミュージシャンや俳優に対して、カメラ越しに彼らの本質や真実を捉えようとしてきました。私の写真には決まった設定がありません。ファッション写真も撮れません。ストリートの写真や突然ある瞬間をとらえた写真を撮りたいし、どこかで私の心を動かし、「今起こっている現実をとらえなければならない」と切実に思われるものを撮りたいのです。

子どもの頃は木に登ったり、マウンテンバイクで川を渡ったり、どんなことでもしていました。私はアウトドアがとても好きで、そのことを母はいつもそれを理解してくれていました。

「なぜ他の人たちは、この世界がどれほど美しいか、そして人間は、この惑星に寄生する存在であり、人間のためにこの世界を台無しにしている」ってことに気づかないのだろうか?と不思議に思います。本当に残念なことです。先のコロナ禍はターニングポイントになりました。世界は二極化していて、自撮り写真に夢中になっているようなうぬぼれた人々か、最終的に人類の財産は何か、それがどんなに美しいかということに気づける人かに分けられます…。

「ジュード」は
縛られていた
過去からの解放

エスクァイア: リリースされた「ジュード」について、うかがいます。

レノン: 精神面で、また音楽という点に関して、「自分の人生にどう折り合いをつけるか?」ということを聞きたいのですよね。ジャケットは、私が7、8歳くらいの、実際に『ヘイ・ジュード』で歌われた存在だった頃の写真です。現在私は、自分という存在について、それがどういう意味であれ、以前より気楽に考えられるようになったと思います。

その大部分は、私が孤独感を味わったおかげだと思っています。コロナ禍では、これまで以上に自分自身に向き合う必要がありました。コロナ禍では自分自身、ただ一人でした。鏡の中の自分を見て、これまで自分が抱えていたあらゆる悪夢(不安)と向き合い、暗い隠れ場所を見つけるか、あらゆる道を探るか、つまり、最終的になりたい自分になり、怖がるのをやめるか? ということを考えました。このことがやはり『ヘイ・ジュード』と関係しているのです。

ジュリアンを抱くギリシャ旅行中のポール・マッカートニー
Central Press//Getty Images
1967年、ジュリアンを抱くギリシャ旅行中のポール・マッカートニー。後ろに写っているのはジョン。

だから私は、本当の意味で基本に立ち返ったのです。レーベルから「タイトルは決めているか?」と聞かれたので、「決めている」と答えたら、「ええ! それはすごい」と皆同じ反応をしました。このタイトルは、単なる思いつきではないのです。

「自分の中で重荷になっていたものを全て手放す」ということなのですから、よいのです。そうでしょう? このことがわかるまでに時間はかかりましたが、その価値は十分にありました。大変だった分、長い間の苦しみや悲しみを味わう価値がありました。

さまざまな状況について「もっと違っていたら…」と望んでも、それは変えられないことです。結局、過去に縛られて生きていてもいいことはないのです。生きる意味がありません。自分が持っているもの、自分が経験して学んだ全ての恵みと知恵を活かし、幸せになろうとするだけです。

今の私の活動はこういう思いに基づいています。少し利己的かもしれませんが、私はできるだけ幸せでいたいですし、友人や愛する人たちに幸せでいてほしいのです。さまざまなものを尊重することで、逆にあなたも尊重され、世界があなたを尊重してくれるでしょう。だから、これは一つの大きな愛の循環なのです、あえて言うならね。

これはThird partyの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。

Translation / Keiko Tanaka
Edit / Satomi Tanioka
※この翻訳は抄訳です

From: Esquire US