1982年9月13日、グレース・ケリーとその娘ステファニー公女のクルマが転落事故を起こしました。

その際、モナコ公国による公式声明は誤解や憶測を招くものであり(搬送された病院の執刀医は「ニューヨーク・タイムズ」紙で、そのことを非難しています)、そのため私たちはその自動車事故の全容と、グレース公妃の負傷の状況について混乱させられることになったわけです。

これはxの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。



当時、情報が錯綜したことで巻き起こった疑心暗鬼が、いまもってグレース・ケリーの死について、「何か隠された真実があるのではないか?」という疑念を残し、尾を引いていると言っていいでしょう。ですが、秘密の情報など実際にはどこにも存在しません。それでは、実際に何が起こったのか? その全容をお伝えしましょう。

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Michel Dufour / Getty Images
写真は、1979年のステファニー公女、グレース公妃、レーニエ大公。

グレース公妃は娘を乗せた車を運転し、駅へと向かっていました

シカゴ・トリビューン」紙に掲載された作家ジェフリー・ロビンソンによる『レーニエとグレース:私的肖像』からの抜粋に目を通すと、グレース公妃は17歳になる娘ステファニー公女の入学準備のため、パリ行きの列車搭乗券を2枚持っていました。

11年物の愛車のローバー3500の運転はお抱え運転手には任せず、グレース公妃自らハンドルを握っていました。パリでの新生活のための大きな荷物を運ばねばならず、2人乗るだけでクルマは一杯だったようです。

そして、ラ・テュルビー(フランス、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏)から、さらに3キロほど過ぎたあたりの急カーブを曲がりそこねたグレースのローバーは、そのまま40メートルの斜面を転がり落ちたのです…。

ステファニー公女の姉であるカロリーヌ公女は、ロビンソンに対して妹から伝え聞いた事故当時の状況を次のように話しています。

「“どうしよう、止まらない。ブレーキが効かない、とママは何度も繰り返したの”と、ステファニーは教えてくれました。ママは完全にパニック状態に陥っていたそうです。ステファニーは、ハンドブレーキを引いたそうです。これは事故の直後に聞かされた話になります。“ハンドブレーキを引いたのに、クルマは全く止まってくれなかったの。止めようとしたのだけど、どういうわけか…クルマは止まらなかった”と」。

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NBC / Getty Images
1977年、レーニエ大公とグレース公妃。

グレース公妃とステファニー公女は、病院へ救急搬送されました

軽症だったステファニー公女は、事故の翌日には退院しています。一方グレース公妃は、事故の怪我による2度目の脳内出血の後、「もはや意識を取り戻すことはなかった」とロビンソンは書き記しています。…52年の生涯でした。

事故は、運転中のグレース公妃が脳梗塞に襲われたことが原因だと推察されています

ステファニー公女のインタビューによれば、そのときグレース公妃は、「頭痛に悩まされていた」と言っています。その結果、瞬間的に意識を失ったと推測されてもいます。そしてクルマは道を逸れ、フルスピードで崖へと飛び出してしまったという流れです。

後日、検死を担当した医師たちにより、「グレース公妃に、脳血管発作を起こしたと思われる根拠が見つかった」と発表がなされました。公妃が運び込まれた病院で外科主任の地位にあったジャン・シャトラン医師は、前述の「ニューヨーク・タイムズ」紙 の取材に対して次のようにも語っています。

「例えこれが自宅で起こったのであれば、おそらく彼女はしばらく座って休んだ後に、回復したのではないでしょうか。症状としてはその程度の、比較的穏やかなものだったのではないかと想像できます。もちろん、もはや実際の状況を知る術などなく、これは憶測に過ぎません。見方を変えれば、全く異なった真実が浮かび上がってくる可能性もあります」と…。

「グレース公妃がブレーキではなく、アクセルを踏み込んでしまったのではないか?」という見方をする人もいますし、「なんらかの理由で、足を動かすことができなくなったのではないか?」と推測する人もいるようです。

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Michael Ochs Archives / Getty Images
1980年、グレース公妃。

当初、運転していたのはグレース公妃ではなく、ステファニー公女だったのではないか?という憶測が流れもしました

これは、事故の第一発見者となった男性のインタビューにより広まった誤解と言えます。この男性は、ステファニー公女を運転席側のドアから引っ張り出したと証言したのです。その後ステファニー公女自ら、この誤解を打ち消す証言をしています。

「助手席のドアは完全につぶれていました」と、彼女は「ガーディアン」紙に対して答えています。「運転席側のドアを通じてしか、脱出する方法はありませんでしたので」と…。

グレース公妃が快方に向かっているという誤った報道もありました

大腿骨(だいたいこつ)、鎖骨、そして肋骨を骨折したグレース公妃が危機的状態に陥っていたにも関わらず、モナコ公国のスポークスマンは「グレース公妃の容態は安定している」と声明を出し続けたのです。

その公式声明を鵜呑みにしたのは、大衆だけではありませんでした。「妹が生命の危機を脱したのだと、私も信じたのです」と、同「ニューヨーク・タイムズ」紙 の取材の取材に答えたのはフィラデルフィアに暮らすグレース公妃の兄ジョン・ケリーです。

「公式声明として示されていたのは、医学的に裏づけのある情報ではなく、政治的な情報だったわけです…」と、その記事の中でシャトラン医師と同僚の医師は語っています。

このお二人によれば、公国スポークスマンによる不確かなメッセージが広まったおかげで、「ステファニー公女がドライブしていた」や、「グレース公妃に対して適切な治療がなされなかった」などという、今日まで語り継がれるほどの疑惑を生んでしまったということでしょうか。


 
Source / TOWN&COUNTRY
Translation / Kazuki Kimura
※この翻訳は抄訳です。