世界が注目した2018年5月19日のロイヤルウエディングは華やかに、そしてハリー王子らしさが随所に光るカタチで滞りなく終演しました。そんな世紀のイベントで、主役の一人であるハリー王子が選んだ服装は軍服だったのです。これもまたハリー王子らしい選択。これに象徴されるように、ハリー王子の青年期の大半は軍服で過ごしたと言っても過言ではないのです。そこで、ハリー王子の軍服の歴史 ― タリバンとの戦闘から「インビクタス・ゲーム」を立ち上げて負傷した退役軍人を支援するまでを、ここで振り返ってみましょう。
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ハリー王子とメーガン・マークルの結婚式は、王室の伝統にならった典型的なものではありませんでした。
まず第一に、花嫁はアメリカの女優です。そして離婚歴もある…。これは1936年に、英国王エドワード8世が離婚歴のある平民のアメリカ人女性ウォリス・シンプソンと結婚するため、グレートブリテン王国成立以降のイギリス国王としては歴代最短の在任期間わずか325日で退位したという、いわゆる「王冠を賭けた恋」のストーリーを思い起こした方もいたことでしょう。
これは、のちのウィンザー公の話になります。あれから約80年余りの時がすぎ、さらに黒人の血を引く米国人女性というストーリーも加わった上で、主役のハリー王子とメーガン妃は、見事なまでに秀麗なる結婚式を終演させたのでした。
これまでハリー王子は、さまざまな騒ぎも起こしてきました。未成年の喫煙や飲酒、アルコール中毒などなど、そのヤンチャぶりで幾度もメディアからの注目を浴びました。なかでも、そのピークは…本人はいまもなお後悔しているかもしれません。それは2012年8月のこと。アフガニスタンへの2回目となる派遣が行われる直前のことではないでしょうか。このときベガスにあるウィン・ホテルのVIPスイートに泊まっていたハリー王子一行。この日ホテルのバーに出向き、出会った女性のグループをスイートルームに招き入れたという話…。
そして、負けたら服を1枚づつ脱いでいくというストリップビリヤードに興じたようです。そしてハリー王子は、裸になったところをパパラッチされました。それを掲載した英タブロイド紙には、「子供じみた振る舞い」と批判…という出来事です。
このように長い間、ハリー王子の行動は英タブロイド紙や全世界のメディアにマークされ、さまざまな行動が報告されてきました。彼の軍務キャリアの報道も、そのうちのひとつとなります。ですが、こうして軍務に就くことによって、メディア(パパラッチ)側に私生活まで追跡されないようにするという思惑もあったに違いありません。これは否めないことでしょう。
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彼の写真は幼いころから、悲しくも母親を亡くした(1997年8月31日)13~14歳のころも、さらに20歳以降になってからのものも、星の数ほどメディアに残されています。そのことは、彼がどれほどカメラに監視された生活を送っているのかを思い起こす証拠にもなります。
ハリー王子のこれまでの人生は、「シンプル」なものとは言えません。むしろ、「複雑」であったというほうが正解ではないでしょうか。ですが、2005年にサンドハースト王立陸軍士官学校に入学してから2015年6月19日の除隊まで過ごした英国軍で10年間(最高階級は陸軍大尉)は、ハリー王子にとって良い変化をもたらしたといって過言ではないでしょう。
2回目のアフガニスタンへの出征が終わったとき、ハリー王子は「ガーディアン」紙にこう語っています。
「私の父は、いつも私が誰であるのか、そんなことを思い出させようとしています。ですが、私が軍隊にいるときは、自分が誰であるか忘れることはとても簡単なのです。軍隊では誰もが同じ制服を着用し、同じことをしているからです。私は同僚である青年たちと仲良くやっていましたし、仕事も楽しんでいました。その2つだけは、私にとっては同様にシンプルなことでした」と。
それではここで、ハリー王子が過ごした英国軍での姿を一緒に振り返ってみましょう。これを観ることで、当時、ハリー王子の胸中を覆っていた「複雑」な何かを少しでも感じることができれば…と願っています。そして今後、ハリー王子がメーガン妃とともに母親である故ダイアナ元妃の意を継ぐ、自分の地位だからこそできる「worthwhile(価値ある仕事)」に対し、応援していこうじゃありませんか。
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ハリー王子の英軍務歴 01
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2006年4月の陸軍士官学校卒業後、ハリー王子は近衛騎兵連隊「ブルーズ・アンド・ロイヤルズ」に配属。同連隊は儀礼的任務だけでなく戦闘地域における任務にも投入されています。英国メディアはこのような格式高い人物が戦争の(軍事)前線へ送られたことを受け、いままでの王室と軍に対するイメージは払しょくされたのでした。そしてハリー王子のイラク派遣も決定したのでした。が、イスラム過激派等が「ハリー王子を標的に攻撃する」と予告したため、こここで取り止めとなったのでした。
ですが、特別な待遇を望まないヘンリー王子は、「失望している」との声明を発表するとともに「軍を辞めるつもりはない」ともコメント。
そうして2007年末から、ハリー王子はアフガニスタンにおけるタリバン掃討作戦に対し、極秘に加わっていたのでした。「もし自分の所属する部隊が派遣されるのであれば、彼らと共に私もいたい」と、ハリー王子は譲ることはなかったということです。このときのハリー王子の任務は前線航空管制官としてタリバン部隊への爆撃を誘導するという、かなり危険を伴うものだったそうです。
これまで王室から軍事的作戦地帯へ向かった人物といえば、ハリー王子の叔父にあたるアンドルー王子になります。アンドルー王子がフォークランド紛争に従軍したのは、1982年のこと。こうしてハリー王子は約半世紀の時を経て、王室から前線にたった人物となったのです。
「もし(同期生の)彼らが、『あなたを前線に連れて行くことはできない』と言うのであれば、私はサンドハーストでの勉強に夢中になんかなれません。そしてそれ以上に、いまここにいないでしょう」と、2005年にハリー王子は語っています。
ハリー王子の英軍務歴 02
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英陸軍のヘッドは、ハリー王子が兵士として実戦に参加することに同意しました。ですがその決断は、最終的には逆転しました。その理由としては、ハリー王子ほどの名のある人物存在によって、他の兵たちをより高い危険にさらす可能性があることを恐れたからだったのです。
さらに、のちに報告された英陸軍からの見解によれば、当時のイスラム過激派テロリスト集団である「アルカーイダ」の司令官ウサーマ・ビン・ラーディンが、ハリー王子のイラク駐留に対して深い興味を示しているという情報を、その時点で英陸軍が入手していたから…ということなのです。
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2007年にハリー王子の配属場所が報道されてしまい、安全上の理由から撤退しなくてはならなくなったこともありました。そのことに対しハリー王子は、「とても怒りを覚えた。陸軍にいることは、一番の逃避になったんだ。それでも僕は、何かを成し遂げているという気持ちになれた――異なる経歴や生い立ちをもって軍隊に来ている人たちを理解することができたし、また、チームの一員であると感じられた」と告白しています。「陸軍での私は王子ではなく、単なるハリーだったんだ」とも言っています。
こうした事実のもと、英陸軍は2007~2008年のアフガニスタンのヘルマンド州への彼の配属にあたって、ある試みが決定されたのでした。それはハリー王子の居所を秘密裏に行うこと。そしてメディアとの間に、ハリー王子の配属先は報道しないという協定を結ぶことだったのです。
2007年の撤退後、英国防省および英陸軍はハリー王子に対して、イラクに代わってアフガニスタン派遣を検討しました。そしてハリー王子に、航空管制について再教育を施したうえで、2007年12月14日にハリー王子をアフガニスタンに派遣したのです。それは通常の兵士同様、2週間の休暇なしで14週間現地にとどまり、2008年4月には英国に戻る予定だったのです。
ちなみに、このことを知っていたのは国防省内でも15名だけであり、後に祖母である女王エリザベス2世を始めとするごくわずかのハリーの身内と友人だけでした。ハリー王子の階級は少尉で、その任務はアフガニスタン南部のヘルマンド州(Helmand Province)のパキスタン国境付近の堅固な基地から、統合戦術航空管制グループに属する前線航空管制員として、タリバンの所在情報をもとに米英仏の戦闘爆撃機に対して自身の受け持ち地域における爆撃目標を指示し、最終的には爆撃許可を与えることでした。
そうしたなか英陸軍は2007年9月から12月にかけて、英国の主要メディアほぼすべて、および米国のCNN等若干の海外メディアの加えて計30~40のメディアと交渉。「ハリー王子のアフガン派遣が終わるまで一切報道をしない代わりに、取材等さまざまな便宜を図る」という紳士協定を結んでいたのでした。そして、このような紳士協定など、1週間ともたないだろうと懸念されているなか、英国では一切報道されることなく推移していたのです…。
ところがオーストラリアの女性誌「New Idea(ニューアイディア)」のウェッブサイトが2008年1月7日に、初めてハリー王子のアフガン派遣の噂を報じます。すると、これにドイツのタブロイド系新聞である「Bild(ビルド)」紙が続き、さらに2008年2月28日には前出の「ニューアイディア」の記事を引用する形で、世界中で数百万人が読んでいる米国の政治ブログの「Drudge Report(ドラッジュ・レポート)」が本件を報じるに至っったのです。となると…英メディアも黙っていません。その後、一斉に報道を始めることとなったのです。
そこで英陸軍参謀総長はこれが事実であることを認めるとともに、報道に対して遺憾の意を表明。すると予想通り、イスラム系のウェッブサイトのいくつかが「ハリー王子を発見するように努めよ」と煽り立て始めます。この時点で、ハリー王子は予定を繰り上げて帰国せざる負えなくなったのでした。
とはいえ、オーストラリアの「ニューアイデア」がこの取り決めを破るまで、英国メディアはこの紳士協定を守られていたのです。そのお陰で約10週間、ハリー王子の存在は秘密にすることができたという事実、これは素晴らしいことではないでしょうか。
ちなみに2012年9月には、英陸軍航空隊の一員としてアフガニスタンへ再派遣されています。
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王室騎兵将校だったハリー王子の役割に関して、取材が行われていました。それは、2012年2月9日に公開された「テレグラフ」紙のウェブでいまも確認できます。記者ジョン・ビンガム氏による、ハリー王子の仕事場での様子はこちらをご覧ください。
そこには、「ある男が頭上を飛ぶジェット機から避難する様子」が記せられ、その誘導をハリー王子が陸から行ったというものでした。
「その瞬間、泥の壁のような輪郭が浮かび上がり、たちのぼるほこりの雲のなかのものは一瞬にして消え去りました。数キロ離れたノートパソコンの画面上で、それがまるでビデオゲームのように繰り広げられていたのを見たのです」と、ビンガム氏は生々しく綴っています。
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2008年2月、ハリー王子はタリバンの兵士に向けて、50口径の銃で初めて発砲しました。その様子でさえ、映像におさめられているのです。
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2012年までに、ハリー王子は攻撃ヘリコプター「AH-64 アパッチ」のパイロットとしてのトレーニングと、カリフォルニアでの武装ヘリコプターのトレーニングを完了しました。 その腕前は「かなり良い」とも言われていました。
2011年には、英国の軍事関係者がハリー王子のべた褒めをフォローするかのようにこう語っていました。
「これは嘘のようにも聞こえますが、ハリー王子は攻撃ヘリコプター「AH-64 アパッチ」の若手パイロットの一人であることが真実を物語っていると言っていいでしょう。彼の腕前、目利き、判断力の早さ、それらはすべて彼の生まれもった才能なのです。『ハリー王子は王室の人間だから、特別扱いをうけている』と疑う人もいますが、彼の才能は開花しつつあるのです」と。
英国防省および英陸軍は、ヘリコプターの副操縦士としてのハリー王子の新たな地位のほうが、以前のように地上で職務を遂行するときよりも危険性が低いと考えたようです。彼はついに、自分の居場所を見つけることができたのです。
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しかし、メディアの注目からはそう簡単に逃れることはできませんでした。2013年に彼のベースでインタビューが行われましたが、インタビュー中に出動の声がかかった途端、マイクを外し、ヘリへと駆けていくハリー王子の姿。
一瞬の間に自分がどの立場にいる人間なのか判断する姿は、感動を集めました。その後、彼は控えめながらインタビューに答えています。
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ミリタリーベースでのインタビュー中には、「ヘリに乗れる人数は限られている。だから、“誰も”僕たちについてくることはできないよ」と冗談も。
“誰も”というのは、取材関係者のことになります。軍事ヘリコプターを操縦することは、ハリー王子の兄ウィリアム王子も、そして彼らの父も叔父も、代々受け継がれていることでもあるのです。
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ハリー王子は2015年6月19日に除隊。最高階級は陸軍大尉になります。そして同年にロイヤル・ヴィクトリア勲章のナイト・コマンダーをも受章しています。
そしてその1年後の2016年以来、彼は戦争の犠牲者に対する活動に対して、慎重かつ丁寧に取り組んでいます。自分自身が一度も経験したことのない、負傷という経験をした兵士が帰国する様子を見て、ハリー王子は「タイムズ」紙にこう応えています。
「路傍の爆弾による地元の人々へ起こった悲惨な傷害と死亡、そのなかには子供もいました。 戦場に横たわる連合軍 。キャンプ・バスティオン(軍事基地)で負傷した人々を病院へ強制運搬すること…そして病院へ、犠牲者の傷害の詳細をラジオで流すこと。そのラジオでは時折、『オーピー・バンパイア』という言葉が含まれていますが、それは犠牲者が多くの血を必要とする場合です。その言葉を聞くと背筋が凍りつきます…。深夜に『チヌーク(大型輸送ヘリコプター)』と『ブラックホーク(中型多目的軍用ヘリコプター)』のダウンフォースでベッドが揺れ動いていたことなど、至るところで体験したことはいつも思い出します。 それを見て、それを聞いて、そして感じて…逃げることはありませんでした」
写真は2018年5月19日の結婚式のハリー王子。この日は兄ウィリアム王子とともに、英国近衛騎兵連隊「Blues and Royals(ブルーズ・アンド・ロイヤルズ)」の制服であるフロックコートを着用していました。王室の公式SNSでは、「女王がハリー王子に対して、式でのそのユニフォーム着用を許可しました」、そして「(ロンドンの老舗テーラーが並ぶ)サヴィル・ロウのDege and Skinner(デッジ&スキナー)によって仕立てられたものです」と発表しています。
また、ジョージ王子を含めたページボーイの4人も、これと同じフロックコートを着用していました。
ハリー王子はこれと同型のフロックコートを、2014年11月6日の「Remembrance Sunday」に着こなしていました。
この日は、11月11日が第1次世界大戦の戦闘状態が解除されたことを記念する日「Remembrance Day」とされていますが、英国では行事実施の都合上、最も11月11日に近い日曜日を「Remembrance Sunday」と呼んで、これに当たる日にしています。
そして「Remembrance Sunday」には、英国全土の町で戦没者を慰霊する式典が執り行われます。下の写真はロンドン・ウエストミンスター寺院にて、ポピーがついた小さな十字架を授けるハリー王子です。
第一次大戦下の1918年11月11日の明朝、中央同盟国側のドイツと、ロシア帝国、フランス第三共和政、グレートブリテン及びアイルランド連合王国の三国協商に基づく連合国側との間に休戦協定が結ばれました。その協定によって、戦闘状態が当日(11月11日)の午前11時をもって終了することとなったのです。これを由来とし、当時の国王ジョージ5世が「戦没者のことを忘れないように」と毎年11月11日を「Remembrance Day」としたことが始まりとなった行事です。
ハリー王子の英軍務歴 10
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これらの経験がハリー王子を変えたことは間違いありません。
彼は戦場から戻った後、負傷兵のためのパラリンピック・スタイルのスポーツイベント「インビクタス・ゲーム」を創立し、退役兵士らを支援しています。 最初のゲームは2014年にロンドンで開催され、デイヴィッド・キャメロン、チャールズ皇太子、ウィリアム王子、その他外国の高官も出席しました。2018年はオーストラリア・シドニーで、10月20日~10月27日の期間で17カ国の参加予定で開催されます。
2013年のインタビューで、彼のラスベガスでの悪行が書かれたタブロイド紙を振り返り、こう語っていました。
「おそらく私は典型的なミリタリータイプで、プリンスにはふさわしくないのだと思います」と…。インビクタス・ゲームでの王子は、この表裏を叶える拠り所となっているのかもしれません。
Esquire US(原文:English)
BY LUKE O'NEIL on MAY 19, 2018
Translation by Mirei Uchihori
※この翻訳は抄訳です。
Edit / Kaz OGAWA, Mirei Uchihori