コーチと、ジャン=ミッシェル・バスキアのスリリングなコラボレーション。今回はバスキアの足跡をたどりながら、そのポイントを深く掘っていく。まずはコーチのブランドアンバサダーであるマイケル・B・ジョーダンの言葉を。今回のコラボについて、彼はこうコメントを寄せている。
“(His art is) personal, political and contains multitudes. It’s full conversation around Black culture”
「(彼のアートは)パーソナルで、政治的で、大衆を取りこんでいる。それはブラックカルチャーを取り巻く、あらゆる人たちの声だ」
この言葉通り、現在にも通じる問題提起とパーソナルなポップカルチャーの融合がバスキアの魅力だ。2017年にバスキアの作品「Untitled(無題)」が、アメリカ人アーティストとして最高額の1億1050万ドル(日本円で123億円)で落札されたことは記憶に新しいところだろう。今、世界で最もホットなアートと言える。
では実際、バスキアはどんな人生をたどったのだろうか。
ジャン=ミシェルは、プエルトリコ系移民の母親とハイチ系移民の父親の間に生まれ、幼いころから絵を描き、母親がアートに対する興味を育てたということ。17歳のころから地下鉄、スラム街地区の壁などにスプレーペインティングを始め、高校を中退したバスキアはTシャツやポストカードを売りながら、生計を立てていた。同時に音楽にも傾倒して、ビンセント・ギャロらとバンド活動もしていた。
また、マドンナと交際していたこともある。
MoMA(ニューヨーク近代美術館) PS1(MoMAの別館として、ニューヨーク市クイーンズ区のロングアイランドシティ地区に建てられた現代アートのみを専門とする米国最大のアート機関)で1981年の開かれた「ニューウエイブ」展に選ばれ、注目を集める。そうして21歳でニューヨークのアート界の寵児となり、ヨーロッパでも展覧会が開かれるようになった。
そして1983年にアンディ・ウォーホルと知り合い、作品を共同制作するようにもなる。
さらには、「The New York Times Magazine(ニューヨーク・タイムズ・マガジン)」の表紙にもなり、たちまち時代のスターとなった…。しかしながらバスキアはその後、徐々に薬物依存症へと陥って1988年、オーバードースによって死去、享年27歳だ。
まさに80年代、彗星のように現れて消えていった天才画家だ。
バスキアの存在とは、一体なんだったのか。NYのアートシーンに詳しいhpgrp GALLERYディレクターの戸塚憲太郎さんは、「バスキアは、“アメリカのアート”を大きく認知させた存在だ」と解説する。第二次大戦後、アートの中心がパリからニューヨークに移り、1970年代にはミニマルアートやコンセプチュアルアートが中心になった…。
これまで主流だった難しくて理屈っぽいアートに、人々は飽き始めていたのです。それに反発するよう、感情をダイレクトにぶつける『新表現主義』が生まれました。そのタイミングでバスキアが新表現主義のアイコンとなることで、瞬く間に世界のアートシーンを席巻していった。
ウォーホルやキース・ヘリングと並んで、『アメリカのアート』をグローバルに、そしてアートの枠にとらわれずに認知させた価値は大きいです。
…と、戸塚さんは続けて説明する。
80年代のニューヨークはRUN DMCが出てきて、現代を席巻するヒップホップカルチャーが生まれた時代だ。同時にパンクロックやニューウエイブといった音楽も出て、カオスな創造のエネルギーにあふれていた。
一方、地下鉄にはスプレーで落書きがされ、犯罪率が高く、今はおしゃれとなっているブルックリンは、観光客が行けるような安全な場所ではなかった。そのカオスでエキサイティングで、危険でありながらもクリエイティブなニューヨークで、バスキアのアートは生み出されたのだ。
2005年にブルックリン美術館では、大がかりなバスキア回顧展が行われた。ブルックリンはバスキアが育った地元であり、6歳のときには母親によってブルックリン美術館のジュニア会員に登録されたという、密接な係わりがある。
この展覧会では、100以上のバスキア作品が展示されたのだが、実際に作品に接してみると、その圧倒的なオリジナリティーとほとばしるエネルギー、スカルやアフリカ美術、書き込まれたさまざまな言葉、無数のコラージュ、その混沌としていながらも一貫する力強さに圧倒された。
これぞニューヨークのアートという、すさまじいカオスとパワーとクリエイティビティーにあふれていた。バスキアとニューヨークらしさについても、戸塚憲太郎さんに解説してもらおう。
バスキアの作品には、グラフィティ、宗教、音楽、人種、政治などさまざまな要素が混在しており、その混沌とした力強さが特徴。特に『挑発的二分法』という、相反する二つの要素を対比させて文脈を作る手法は、価値観の分断という現代社会の根本的な問題に通じるところもあり、改めて本質に触れるその先見性に驚かされます。
バスキア作品の持つカオス感、多様性、そして個性、他者との違いを俯瞰的に表現するダイナミックさは、とてもニューヨークらしいと感じます。
こうしたバスキアの背景を知ると、コラボレーションアイテムを手に取るとき、さらによく意味がわかる。バスキアは人種問題も多く作品に取り入れ、社会的不正や植民地主義批判など、今起きているBLM(ブラックライヴズ・マター)にもつながる問題提起をしている。
今季のコラボレーションアイテムにも、オーバーサイズトレンチコートにあしらわれたPOLICEカーのモチーフやグラフィティの言葉から、バスキアの精神が読みとれる…。また、メンズのスウェットには、1980年の作品『無題』から「Car Crush」のモチーフが生かされていて、フリースピリッツと挑発的なエネルギーを感じさせる。
Rouge(ローグ)の「クロスボディ」には、“FAMOUS”のグラフィティと王冠のシンボル、そして野球ボールがあしらわれている。これはバスキアが敬愛するブラックの野球選手、ハンク・アーロンをモチーフにした1981年の作品から取ったボールの意匠なのだ。
メンズのブルーのスウェットには、前述にあるよう1981年2月に、MoMA PS1で開催された『ニューヨーク/ニューウエイブ』展のサインが描かれている。重ねて言うが、この展覧会でバスキアは世界的に知名度をあげ、翌1982年開催された個展は大成功となるわけだ…。
また、バスキアのキャリアの中でも重要な年となった作品が、1982年の『Mecca』だ。その作品にはNYの街並みが描かれていて、その躍動感は「眠らない街」を表現している。その街並みのドローイングは、メンズのフーディやRogue(ローグ)の「クロスボディ 20」にあしらわれている。そしてメンズの「ウェルズ バックパック」には、1986年の大型ドローイングの一部を使用している。
ここには、バスキアの頭の中のアイデアが詰まっていると評され、彼が大切にしていた『知識空間』を表しており、まさに彼の頭の中を覗きこむような作品だ。
バスキア作品を生かしたコーチのアイテムは、どれもバスキアとわかる「オリジナル」さがありながら、デザイン性が高くてファッショナブルであるのが特徴だ。バスキアがファッションに親和性が高い理由について…
バスキアの作品はアート本気度が高くて、本格的な感じがすること。そして、アフリカ美術的人物像やスカル、また詩のような意味が明確ではない文字など、デザイン化しやすい要素が作品中に豊富にある。
さらに、今に残る本人のポートレートが、どれもカッコいいという点が挙げられるでしょう。
…と、戸塚さんは分析する。
コーチのブランドアンバサダーであるジェニファー・ロペスは、今回のコラボレーション作品に際して…
“Basquiat was a visionary”
「バスキアはビジョナリーだった」
…というコメントを寄せている。「ビジョナリー」とは“先見の明”を持ち、“未来を夢想”できる人物のことだ。未来を夢見るビジョナリーであり、街をカンバスにしてスプレーで彩った稀代のアーティスト、バスキア。
ニューヨークのカオスから生まれたこのアートが、ニューヨークを拠点に伝統とクラフトを守ってきたコーチの美学で今よみがえる。コーチ × バスキアのコラボアイテムはまさに持ち歩ける、身にまとえるアート作品だ。己(おのれ)のオリジナリティーを大切にし、フリーなスピリッツを擁する、未来を夢見る人にこそぜひ手に取って欲しい…。
時代を切り開いていくビジョナリーとなれ。
※現在ESQUIRE JPでは、コーチ×ジャン=ミッシェル・バスキアの特集を掲載中。
ESQUIRE JP特集ページ
ロジー黒部エリ
Ellie Kurobe-Rozie
東京都出身。早稲田大学第一文学部卒業後、ライターとして活動開始。「Hot-Dog-Express」で「アッシー」などの流行語ブームをつくり、講談社X文庫では青山えりか名義でジュニア小説を30冊上梓。94年にNYに移住、日本の女性誌やサイトでNY情報を発信し続けている。著書に『生にゅー! 生で伝えるニューヨーク通信』など。