2023年9月9日(土)に閉幕した第80回ヴェネツィア国際映画祭。最高賞である金獅子賞(Leone d'Oro)に次ぐ作品賞次点、銀獅子 審査員大賞(LEONE D’ARGENTO – Gran Premio della Giuria)を獲得した濱口竜介監督に対し、エスクァイア日本版は映画祭プレミア上映直後にインタビューを実施しました。
音楽映像としての企画
受賞作品の中でとりわけ異色な『悪は存在しない』
今回の受賞作一覧の中でもアート性が高く、とりわけ異色の作品とも言える『悪は存在しない』。受賞会見では海外の記者から、「日本映画と言えば、今やマーケットのメインは大規模資本のアニメーション…。かつて、芸術性を評価されてきた日本映画が輝きを失いつつあるように感じるなか、あなたが小規模なこの作品で銀獅子賞を受賞したことは日本にとって希望の星のように見えます」という声も出たほど。
多くのミュージシャンから尊敬を集める(『ドライブ・マイ・カー』の音楽も担当した)シンガー・ソングライターの石橋英子氏から、ライブで上映する映像として依頼を受けたことがそもそものこの映画製作のスタートだったことを考えても、それは当然と言えます。
「海外のプロモーターから、『映像と一緒にライブ・パフォーマンスをしてみないか?』と提案されたときに、『きっと実験的な映像を望んでいるのだ』と思ったのですが、『ドライブ・マイ・カー』でご一緒した濱口監督にお願いしたいと思いました」と、石橋氏は説明します。そして濱口監督が、「この依頼が、まさか今回の審査員大賞(銀獅子賞)につながるとは思わなかった」と受賞後に語ったとおり、さまざまな偶然によって作品が形作られたそうです。
「『ドライブ・マイ・カー』が評価されて、そのあと正直次何をしようか? と迷っていた時期に依頼がありました」と語る濱口監督。「どう手をつけていいかわからず、まずは石橋さんの製作現場を撮影させてもらっていて、ドキュメンタリー映像になるかもしれないとも…。(制作過程は)セッションしているかのような雰囲気がありましたね」
この先がどうなるかわからない状態で石橋氏と対話を重ねていったそうで、その結果、今回の物語の元になる出来事に出合ったということ。
「シナハンをし、ヴィジュアルのリサーチも始めました。自然を映したくて、石橋さんの住んでいらっしゃる場所(山梨)周辺を取材していたら、(映画の物語と)似たような話があったのです」
石橋氏の音楽を乗せた自然美が聴覚的にも視覚的にも表現された導入部を抜けると、そこからじわじわと生々しい現実が幕を開けていきます。味方にも敵にもなる自然と共存共栄する地方の暮らしに、都会から降って湧いたような開発話がもちかけられ、そうして地元の住民たちは疑問を抱いて業者と対峙します。
こういった話はどの国においてもよくある話であり、そのため海外の記者たちの質問にも、上映後各メディアの評にも「自然と人間の対立」といった視点での言葉が散見されました。しかし、この話はもっとより普遍的な、そして切実な危険が見えてきます。
「考えない人」が物事を進める恐ろしさ
そこに暮らす人々と、開発しようとする人々との膨大な対話によって炙(あぶ)り出されるのは、物事を「よく知りもしない」で「とりあえず実行だけしてしまう」ことの滑稽さと恐ろしさ。そして「現実を見ようとしない」ことの危険性です。
濱口監督が言うところの、「あまりに稚拙」で「あまりにも杜撰(ずさん)な計画」にもかかわらず、一定の集団がゴールに向かって一直線につき進むことはよくあります。そんな中で集団が止まれなくなる理由は、「自分が進めている仕事が最終的にどんな結果をもたらすのか?」、そこにいるひとりひとりがそれを「考えることを放棄する」から。
そこで考えることを諦めた人物たちはというと、とりわけ意地悪なわけでも、何か悪意があるわけでも、愚かであるわけでもない…。ただただ目の前の課題を片づけたい――普通のいい人たちであるところが滑稽であり、きっとどの組織にも、どの会社にもいるだろう人々です。しかし、片づけるためなら詭弁(きべん)を使うこともためらわない姿は、悪意がないゆえに余計に恐ろしく感じます。
監督はこう語ります。
「あらゆるプロジェクトは集団が大きくなると、自分一人では決断できない状況が生まれます。それは、映画づくりでもよくある状況です。立てた計画をある程度合意して進めたとしても、思わぬ横やりが入って計画を変えなければならくなることも…。そこで『え? またイチからやるの? 面倒くさい』と思わないことは正直難しいのではないでしょうか。(作品中に)描かれている状況は、批判的に描いたように見えるかもしれませんが、私たちも陥りがちなもの。すごく簡単にハマってしまう罠です」
1963年に『ザ・ニューヨーカー』に連載されたドイツ出身のアメリカの政治哲学者ハンナ・アーレントによる裁判記録では、このような行動を「悪の凡庸さ(陳腐さ=The Banality of Evil)」と呼び、その連載のタイトルも『Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil(エルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告)』として記しています。この連載は1961年にエルサレムで始まった、ナチのユダヤ人移送責任者であるアドルフ・アイヒマンの公開裁判を死刑が執行されるまでをつづったものです。
この裁判の中でアイヒマンは、集団虐殺を止めなった理由について「言われたことをやっただけ」と“公務員的回答”をします。その「小者感」と、「ユダヤ人虐殺」という結果のギャップ――それと似たものが『悪は存在しない(Evil Does Not Exist)』というタイトルと映画の牧歌的な雰囲気のギャップにも見て取れます。
「これはある意味、小さな話です。取材した地域にも、実際このような問題がありました。つまり、冷静に指摘していったら、どんどん自壊へと向かってしまうような杜撰な計画はよくあることなのです。これは、あらゆるプロジェクトで言えることですし、決して他人事ではありません。ですが、それが拡大していって、国家レベルにもなっても、ずいぶん似たような、覚えのあることがたくさんあるのが現実です。われわれが陥りがちな小さな手落ちや見通しの甘さなどが、ものすごく大きなものへと繋がってしまう…そんな感覚を持ってはいます。それがおそらく、この“小さな話”に、ある意味“壮大な”タイトルがついた理由だと思っています。少なくとも自分は、ある程度腑に落ちて(このタイトルを)つけています…」
不思議なことに壇上で濱口監督と並んだ作品賞三位(特別審査員賞)のアニエスカ・ホランド監督も「2014年から続く難民問題」を取り上げた自身の受賞作を実現するのにもっとも障害となったのは「(この問題に関し)想像しようともしない人たちだった」と語りました。『人間の境界(英題:Green Border)』と『悪は存在しない』、そこに奇妙なつながりを感じた瞬間です。
ヴェネツィアでのプレミア上映では、ところどころで会場中が笑いに包まれた『悪は存在しない』。ひとつひとつのエピソードがあまりに日常的で、「あるある」にあふれているからこそ、劇場で多くの人々と一緒に共有することで何倍も楽しめるこの物語。自然にあふれ、のどかなムードに包まれた「スローライフ」な映画の中に込められた、ある種の鋭い「何か」と併せて、劇場で鑑賞したい(すべき)作品と言えます。
Interview, Text & Edit: Keiichi Koyama