1796~1809年にわたるナポレオン・ボナパルトとジョセフィーヌ・ボナパルトの結婚生活は、彼らがフランスの皇帝と皇后になったときの動乱そのものを映し出す鏡のようなものと言っていいでしょう。そして200年以上経った現在、そんな彼らが権力の座に就いた19世紀の転換期を主題に、リドリー・スコット監督は新作伝記映画『ナポレオン』を描いています。

この映画は海外では現在上映中であり、日本においては12月1日(金)より公開。俳優ホアキン・フェニックスが悪名高い軍司令官ナポレオン・ボナパルトを、ヴァネッサ・カービーが彼の最初の妻であるジョゼフィーヌを演じています。その名前が示すように、映画『ナポレオン』はナポレオン自身が残した政治的・軍事的な功績、統治下における体制整備など数々の遺産に焦点を当て、初期の戦場における成功から最終的な没落と亡命まで、ナポレオンの人生を詳細に描いたものになります。

同時に彼とジョセフィーヌの13年にわたる結婚生活は、それ自体がとても魅力的であり、この映画でも名高い指導者の生涯において重要な一部分として描かれています。お金の問題で諍(いさか)いになったり、後継者を産むため長期にわたり苦闘したりします。そして最終的には彼らの結婚生活は困難に満ち、別れへと至りましたが…。ここでは改めて、2人の関係について振り返りましょう。

つつましく育った
ジョセフィーヌ

ナポレオンに出会い、ジョセフィーヌという名前で呼ばれるようになる数十年前、ジョセフィーヌはマリー・ジョゼフ・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジュリという名で、1763年6月23日にカリブ海に浮かぶフランスの支配下であった島マルティニークの街レ・トロワ・イレにある農園で誕生(現在、この東カリブ海の島はフランスの海外領土です)します。もともとは「ローズ」という愛称で呼ばれることが多く、ときには愛情を込めて「イエット」とも呼ばれていたそうです。彼女は砂糖栽培農家であるジョゼフ・ガスパール・ド・タシェールと、ローズ=クレール・デ・ヴェルジェ・ド・サノワの長女でした。

アーネスト・ジョン・ナプトンが1963年に出した著書『Empress Josephine(エンプレス・ジョセフィーヌ)』によれば、ジョセフィーヌは死者440人を出した1766年のハリケーンで家は破壊され、家族とともに農園の製糖工場を住まいとしていたそうです。地味な家庭ではありましたが、そこでジョセフィーヌは島の生活と彼女を取り巻く色鮮やかな鳥や植物を楽しんでいたそうです。

portrait painting of josephine de beauharnais
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ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネは、1796年にナポレオン・ボナパルトと結婚する前に、最初の夫との間に2人の子どもをもうけていました。

10歳のとき、両親は彼女をマルティニークの首都フォール=ド=フランスにある修道院へ送り出し、教育を受けさせました。ただ両親は娘の自己向上や成長にはあまり関心がなく、裕福な家庭に嫁がせるため、そうした家にふさわしい女性に育てようとしたとされています。そして1779年12月、その想いは実を結びました。父ジョゼフは16歳のジョセフィーヌをフランスに連れて行き、アレクサンドル・ド・ボアルネと結婚させたのです。

それから夫婦はパリの郊外に住み、1781年に息子のユージン、1783年に娘のオルタンスをもうけました。しかし彼らの関係はすぐに破綻し、1785年に別れることに…。最終的にジョセフィーヌは娘を連れてマルティニークへと戻り、夫のアレクサンドルがユージンを引き取りました。

ナポレオンとの出会いは
ギロチン刑を逃れた後

フランス革命が始まり、それに関連する奴隷反乱がマルティニークで勃発した後、ジョセフィーヌは1790年に娘のオルタンスとともに、フランスの地でアレクサンドルと再会。彼らは正式に離婚していなかったため、関係を戻しました。この頃アレクサンドルは政治家として成功を収め、1791年には立法議会を率いる立場となり、その後は陸軍で指導者の地位に就くことになりました。

3年後、2人は恐怖政治の最中に逮捕されました。アレクサンドルはギロチンで処刑され、ジョセフィーヌも同様に処刑を待つしかありませんでした。が、幸運なことに、フランス革命期で最も有力な政治家であり、代表的な革命家であるマクシミリアン・ド・ロベスピエールの失脚と処刑により、彼女は命を長らえました。

フランス革命
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マクシミリアン・ド・ロベスピエールと、その仲間たちが処刑される様子。

その後収入がなく、1人で2人の子どもを育てることになったジョセフィーヌは社交界の仲間であるテレーズ・カバリュスと親交を深めました。テレーズは1795年のパーティーで、将軍を志望するナポレオン・ボナパルトをジョセフィーヌに紹介。彼は出会った瞬間からジョセフィーヌに惹かれ、1796年1月にプロポーズします。ですがジョセフィーヌのほうは、この新しい恋人を最初はあまり好ましく思っていなかったようです。「彼は無口で女性との接し方が不器用。人柄もどこか変わっている」と指摘していた、とされています。

しかし最終的には、ナポレオンの増大していく権力と社会的・経済的な力を知って、彼のプロポーズを受けました。彼らは1796年3月9日に市民結婚式(シビルウェディング)を行いましたが、2日後にナポレオンは初めてのイタリア遠征に出発するため、ハネムーンは先送りされました。

結婚生活ではすぐに
お互いの不貞や
家庭内の不和が頻発

ジョセフィーヌは夫の戦場での勝利により、経済的に恩恵を受けました。が、二人の長期にわたる別居生活は、即座に家庭内に不和をもたらしたようです。彼女とナポレオンの両方が不倫関係に陥り、ナポレオンは1810年までに少なくとも婚外子を2人もうけています。

そしてジョセフィーヌのほうはお金を贅(ぜい)沢に使い、これがナポレオンを激怒させました。彼女はテュイルリー宮殿で豪華なパーティーを催し、最高の素材で華やかなワードローブをオーダーし続けていたそうです。また1799年にはパリ近くにあるマルメゾンの邸宅を購入し、美しいバラの庭園やカンガルーやダチョウなどの珍しい動物で飾り立てたとのこと。

ナポレオンはしばしば彼女に高額な請求書について抗議しましたが、最終的には彼女の魅力と世間からの評判がその怒りも鎮めてしまったとされています。ナポレオンはこうも言っていたそうです。

「私は戦いに勝つが、ジョセフィーヌは人の心をつかむ」と…。

浮気や意見の相違があったにもかかわらず、ナポレオンがジョセフィーヌを非常に大切にしていたことは彼の言動から明らかと言えます。戦場で描いた手紙の中で彼は、ジョセフィーヌからの返信が少ないことを嘆き、「栄光と野心が私を遠ざけていることを呪わずにはいられない。紅茶一杯も飲むことができない」とも書きつづっています。

ナポレオンはまた、ボナパルト家とボアルネ家(ジョセフィーヌが最初に嫁いだ家)を結ぶことを試み、ユージンを養子に迎え、弟のルイには義理の娘オルタンスと結婚を許しました。そして皇帝に選出され1804年に執り行われた戴冠式では、妻に戴冠させることを強く主張し、自らの親族から離縁の圧力が高まる中でジョセフィーヌへの愛情を公然と示しました。

戴冠式
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戴冠式は1804年12月2日に、パリのノートルダム大聖堂で行われました。

こうした絶頂期を迎えた後、2人の運命がどうなるのかは後編で。

Translation / Yumi Suzuki
Edit / Satomi Tanioka
※この翻訳は抄訳です

From: Biography