【2024年2月14日更新】
2023年1月28日、両国国技館を埋め尽くした観客の前で、綱を締め、 白鵬は最後の四股を踏んだーー。あの断髪式の日から約1年、ひとたび「12代 間垣」を襲名するも、師匠である元幕内竹葉山の宮城野親方と名跡を交換して宮城野部屋を継承し、「宮城野親方」としてこの1年精進してきた親方。そこで現在の想いを語っていただきました。
※収録は2023年12月に行っています。
2024年2月11日(土)には、小学1年生から高校3年生までの女子を対象とした相撲大会「ドリームガールズ杯女子相撲大会」の第1回大会が東京・墨田区のすみだフットサルアリーナで開催。そこで、この大会の特別応援サポーターを務める宮城野親方のまな娘たちも出場しました。
そこで小学1年生の部にエントリーしていた三女の眞結羽(まゆは)さんは、予選リーグを3戦全勝。決勝トーナメントへと駒を進めます。そして迎えた準決勝、取り直しの末に寄り切りで勝利。しかしながら、決勝では健闘もむなしく…準優勝となりました。
取組後は悔し涙を流していた眞結羽さんでしたが、表彰式で父 宮城野親方からメダルをかけられると笑顔に。そして宮城野親方は、「パパの夢がかなってうれしかったです」と、照れくさそうな笑顔でコメントしていました。
そして2月12日(日)には、宮城野親方が主催する子ども相撲大会「白鵬杯」の第14回大会が東京・両国国技館で開催されました。今大会では日本、ウクライナ、モンゴル、米国など10カ国から約1100名のエントリーがなされ、熱戦が繰り広げられました。
また、“昭和の大横綱”であった故・大鵬(納谷幸喜)氏は40年にわたって計70台もの献血運搬車「大鵬号」を全国の血液センターに寄贈してきた想いを引き継いだ、“平成の大横綱”のひとりでもある宮城野親方はこの日、日本赤十字社を通じて血液運搬車「白鵬号3号」を寄贈。さらに、能登半島地震の募金活動なども行われ、髷(まげ)を落としてからも勢力的に日本に元気をもたらしていました。
【2023年6月1日公開の記事】
それでは、宮城野親方のこれまでを振り返りましょう…。
帰化前の名は、ムンフバト・ダヴァジャルガル(Mönkhbatyn Davaajargal)。1985年(昭和60年)3月11日、モンゴル国 ウランバートル市出身。2000年10月、15歳で6人のモンゴル人とともに来日した少年はやがて、「白鵬 翔」という新しい名を持ち、厳しい相撲の稽古のかたわら深い探究心で日本文化を学び続けた。
今では古事記や神事の来歴について驚くほど詳しく、熱く語る彼はまぎれもない日本の横綱(2007年7月場所~2021年9月場所) であり、親方である。
その日、宮城野部屋には、真新しい麻の束が積まれていた。
2022年12月24日。極寒の朝稽古を終えると部屋には13メートルの晒さらしもめん木綿が広げられ、麻はその中に巻かれて1本の綱になった。私たちがふだん目にする亜麻(リネン)ではない。古代より神事に使われてきた、麻。やがて3本の白い綱ができ上がり、部屋中が総出で撚より合わせる。横綱が腰に締める綱はこうして部屋の衆手ずから作られ、それを“綱を打つ”と言う。宮城野部屋では第69代横綱白鵬の誕生以来、14年間打ち続け、そして今回が最後となる。
「一見、和気藹々(わきあいあい)としているんですけど…」と、部屋付き床山の床竣(とこしゅん)がつぶやいた。「部屋は今、すごく張り詰めています。親方から髷(まげ)がなくなる。一体どうなってしまうんだろう。全員がそんな気持ちです」
そう、21年に引退を発表して宮城野親方となった横綱白鵬の断髪式が近づいていた。綱はその日のために打たれたのだ。髷は力士の象徴であり、肉体の一部でもある。体格検査では髷までを身長とみなし、先に大銀杏が土俵に着いたほうを負けとする。その髷を、落とす。
「今でも、初めて髷を結った日のことをはっきり覚えています」
そう、白鵬は話し始めた。
「ああ、本当にお相撲さんになったんだな、と胸が震えた。引退してもうだいぶ経ちますが、やはり髷を切るということは特別です。これで本当に相撲取りではなくなってしまう。たまらなく寂しいですよ」
横綱在位84場所。幕内優勝45回。幕内通算1093勝。全勝優勝16回。北の湖、大鵬、双葉山。誰もが知る大横綱たちの記録を次々と塗り替えてきた。
「『白鵬はとにかく強い』、皆さんそう思っているでしょう? でも、最初から強かったのではないことを知ってほしい。15歳で日本に来たときの私は、60キロ台の痩せっぽちです。見込みなしと思われて、 どこの部屋からも声がかからなかった。帰国の日に先代の宮城野親方に拾ってもらって。でも、最初の場所は負け越して、そこから必死で上がってきたんです」
「そして、帰れなかった…」と、ぽつりと言った。
「私の父は、モンゴル相撲のチャンピオン。その息子が尻尾を巻いて帰ってきたら、親父に恥をかかせることになる。だから、帰れない。ほかに選択肢はなかった」
吐くこともあったほどに食べて体重を増やし、先輩に食らいついて稽古した。誰よりもビデオを駆使して対戦相手の取り口の研究もしたという。自らを追い詰めあらゆる力を振り絞ることで“強い白鵬”は作られたのだ。
やがて白鵬はさらに自らを追い詰めていく。
「20歳で大関、22歳で横綱。そこからまた苦しくなった。綱打ちを見たでしょう? 横綱は、神社の注しめなわ連縄を人間が体に巻いて土俵に上がるんです。初めて綱を締めたとき、『負けることは許されない』と思いました。そして、苦しくなった――。よくアスリートが、『明日は楽しんで戦いたい』と言いますよね。『何が楽しいんだろう?』と思っていました。取組や稽古の後、口の中に血の味がするんです。どこも切れていないのになぜだろうと高名なトレーナーの先生に訊(たず)ねると、『あまりに激しい呼吸に、肺の毛細血管が切れているんじゃないか』と。そうやって戦ってきました」
神に捧げた身体、神に捧げた心。モンゴルからやって来た彼は誰よりも強く日本の、相撲の神に自らを投げ出し、神は彼を選んだ。そのあまりにも深い意志に報いたのだ。
「今は楽しいですよ」、一転して笑顔になって言った。
「引退したら毎日がとても楽しくなりました。どうやって若い衆を育てるか――今の若い人は頭ごなしに言ってもついてきませんから。稽古場にビデオシステムを導入して、 15秒後には大画面のモニターで自分の取り口を確認できるようにしました。自分の目で見て、自分の頭で考えてほしい。自主性が育つように指導しています」
「一方で、やみくもに稽古すればいいというわけでもありません。私が長く横綱を張れたのは、激しい稽古の後に意識的に身体を休ませていたから。弟子たちのオンとオフのめりはりに目を配っています。こういうことを考えるのが楽しいし、今後新しく着工する部屋の構想も立てています。海外からの見学者、特に子どもたちが寝泊まりして、相撲の面白さを肌に感じて帰る。そんな、まったく新しい部屋にしたい。相撲をもっともっと世界に広めたいんです」
そして、 その日、 断髪式の日がやって来た。
2023年1月28日。両国国技館を埋め尽くした観客の前で、綱を締め、 白鵬は最後の四股を踏んだ。
日本・モンゴル両国の国歌斉唱、長男 眞羽人(まはと)君との“最後の相撲”。やがて親しい人たちが次々と髷にはさみを入れていく。そのすべてに落ち着いて臨んでいた彼が、一度だけ、涙をぬぐった瞬間があった。
東西両横綱として火花を散らした好敵手・日馬富士が声をかけたとき。相撲の神へと最も近づいた者だけが分かち合う、歓喜と苦しみ、栄光と孤独があるのだろう。最後まで、横綱はその身にまだ血の匂いを宿していた。
こうして髷を落とし“白鵬”に別れを告げた宮城野親方は、最後に土俵に額をつけ、国技館を去った。 北青鵬、 落合。次代を担う力士が既に彼のもとで育っている。彼ら、あるいはまだ見ぬ若い誰かのために再び宮城野部屋で綱が打たれ、ここへ立たせる。彼の背中はそう告げていた。
次代を育てることで、
相撲の神の恩に報いたい
断髪式の最後、額をつけ土俵に別れを告げる姿がフラッシュバックしてきます。そこには初土俵から21年間の感謝、そして、次代を育てるという誓いが込められていた。
協力/日本相撲協会公式サイト
※この記事は、2023年4月14日(金)発売の『エスクァイア・ザ・ビッグ・ブラック・ブック』SRING/SUMM号からの転載となります。