ヴェネツィア人の忍耐強さを試したければ、この町の秘密をたずねてみるのがいいでしょう。「あまり知られていない教会、ここぞというホットスポット、チケッティバー(=Cicchetti=イタリアンタパスのこと)はどこにありますか?」と。
そして、「その中でいちばんいい、いちばん珍しい、いちばん知られていないところは?」などなど、どれもこれも、彼らがこれまで1000回以上聞かれたことばかりでしょう。
「みんなに聞かれるんです」と言うビアンカ・アリヴァベーネ(Bianca Arrivabene)は、ラ・セレニッシマ(ヴェネツィアの愛称)で最も壮大な宮殿のひとつに住んでおり、厳密に言うとヴェネツィア人ではないのですが、彼女はすぐにこう指摘しました。「でも私の子どもたちは、ヴェネツィア人ですよ」と。
アリヴァベーネは長身の、驚くほど堅実な女性で、プリンセスとして生まれジベルト伯爵(Count Giberto)と結婚しました(ふたりともフランスのルイ14世の子孫で遠い血縁関係にあたります)。
彼女に言わせれば、ヴェネツィア人は「あなたがやっているのと同じことをやっていますよ」とのこと。「まるで、世界で最もゴージャスな背景の中で日常の仕事をこなすことがヴェネツィア人の特権であるかのように思われていますが、歩いて、コーヒーを飲みに行きます。土曜日にビーチで散歩を楽しむために、フェリーに乗ってリド島(イタリア北東部ヴェネツィアの南に浮かぶ細長い島)へも行きます」。
「自制心」であったり「用心深さ」などは、島や小さな町の住人に共通する習慣と言えるでしょう。ですが、ヴェネツィアの住人にはその両方が該当します。
変化に富む海の端の不安定な干潟の上に築かれた一連の小島から成るこの町は、世界の観光地の頂点に君臨していると言えるでしょう。いろいろな意味で、アドリア海の“メイベリー”(=1960年代の人気シチュエーションコメディ『メイベリー110番 / 原題The Andy Griffith Show』の舞台となった架空の町メイベリーのことで、ほのぼのとした田舎町のイメージ)のような役割を果たしています。
このような(ほのぼのした)感覚が生まれたのは、ここ2年ばかりのことで、新型コロナウイルスの波が何度も押し寄せる中、以前は多くの日帰り観光客に埋め尽くされる危機にあった町が突然、不気味な静けさに包まれたのです。
ヴェネツィアがそのニックネームのラ・セレニッシマ(La Serenissima=イタリア語で“この上なくのどかな”という意味)に相応しい落ち着きを取り戻した奇跡のような物語を、すべての人が目にしました。中には、ラグーン(砂州やサンゴ礁により外海から隔てられた水深の浅い水域)の水がたちまち、底までまっすぐ見通せるくらい穏やかになったという人もいます。食料品店へ出かけるのにも、このときばかりは戦闘計画を立てずに済んだとか…。
町の歴史を長期間にわたって眺めてみると、ヴェネツィアが伝説的な平和の土地であったことはこれまでほとんどなかったことがわかります。
ここが東洋と西洋にまたがる境目の都市で、地理的には辺境のように見えるのは事実です。また、少数の者が権力をにぎって行う独裁的ともの言える、寡頭(かとう)政治の共和国として、少人数の厳格な支配下にもおかれていました。しかし、数世紀に及ぶ広範囲な権力争いの間、ここには常によそ者が群がっていたのでした。それは、観光客の落とすお金が主要な収入源となるはるか以前のことです。
考えてみてください。利便性という観点から、昔からずっとこの町のシンボルであり続けているゴンドラは、現在、認可を受けたわずか433人のゴンドラ漕ぎが派手な外装の船を操って、この町の177ある運河を通行しているという事実を…。その人数は、かつては1万人かそれ以上いたのです。
「以前は誰でも自由に乗れたのです」と言うのは、イタリア史と18世紀以前の水上交通の研究者であるオハイオ州立大学のロバート・デイヴィス名誉教授です。
そのことは、カナレット(Canaletto=ヴェネツィア共和国の景観画家)の描いた絵を見ればわかります。彼がジャーナリスティックな視点でこの町の運河を描いた絵の多くは、まるで夏の金曜日のロングアイランド高速道路さながらの混雑ぶりです。当時も今も、ヴェネツィアで暮らすためには戦略が求められるのです。
成功への道筋のひとつは、町の生活にさりげなく溶け込んでいる現地の人々――地元生まれの人もいれば、アート、ファッション、映画などの世界から最近やってきた人もいるでしょう――に従うことです。ここはまるで蜃気楼(しんきろう)のように見えるかもしれませんが、根はどっしりと地に足の着いた町なのです。
「ここに住んでかれこれ30年になりますが、いまだに驚かされることがあります」と言うのは、リンネル製品デザイナーのキアラステッラ・カッタナ(Chiarastella Cattana)で、サントステファノ地区にある彼女のショップは“通”には見逃せないお店になっています。「この町が人々に与えてくれる贈り物は、扉を開けるたびに、その奥に必ず別の姿、別の秘密が待ち受けていることです」。
とは言え、ヴェネツィアがもともとプライベートな部分を積極的に見せようとしないのは事実なのでは? その答えは、イエスでもありノーでもあります。
「開いているドアを見かけたら、どうぞ中へ入ってください」と、ビエンナーレのプレビューウィークが始まっているある昼下がりに、ビアンカ・アリヴァベーネは言いました。彼女の名前と肩書があれば、「普通の人間にはとうてい不可能なようなことも、可能になるでしょう」と口にしたところ、彼女はその考えを退けました。
「全然、そんなことはありません」。そう言ってアリヴァベーネは、私たち(筆者とアリヴァベーネ)が旅したときのことを思い出させてくれました。そのとき私たちはディナーで、ブルーノ・ガバニャン(Bruno Gavagnin)とルカ・ディ・ヴィータ(Luca di Vita)の店『オステリア・アレ・テスティエレ(Osteria alle Testiere)』に行ったのです。「22席しかないそのお店には、それまで私筆者がそこで食事をしたのは1度だけであり、それ以外は入れたためしがないんです」。
アリヴァベーネが早朝のチーニ財団訪問をアレンジしてくれたのも、そのときの旅でした。ここはサン・ジョルジョ・マッジョーレ島にある、あまり知られていない素晴らしい場所で、この島ではミケランジェロ財団の広範な職人技の展示や「ホモ・ファベール(Homo Faber)」も見ることができ、またアーティストのケヒンデ・ワイリーの展覧会ももうすぐ開催されます(後者は2022年7月末まで開催中)。
その島で私たちは冷たい霧の中、10世紀に建てられた修道院の荘厳な回廊を見て回りました。16世紀には建築家アンドレーア・パッラーディオ(Andrea Palladio=アリヴァベーネによると、彼の才能に嫉妬した地元の建築家たちが彼を熱心に排除したため、彼がヴェネツィアでつくった建築物はほとんどないとのこと)が設計したポーチと食堂がつくられ、ヴェロネーゼ(Paolo Veronese=ルネサンス期のヴェネツィアで活動したイタリア人画家)によって装飾が施されました。
ヴェネツィア共和国が崩壊するまでは、この修道院の食堂にヴェロネーゼの傑作『カナの婚礼(Nozze di Cana)』が飾られていました。その後、この巨大な絵画はナポレオンの命令によってカンバスを細かく切り分けてルーブル美術館に運び込まれ、現在もそこの所蔵となっています。最近では、科学的な手法を用いて作成された見事な複製がここに飾られています。
チーニ財団に、ミステリアスなところは何ひとつありません。大運河のサンマルコ広場の向かいにさりげなくあるのです。
私筆者がこれまで、そこを一度も訪ねたことがなかったという事実を証明するかのように、この町のヴァポレット(vaporetto=水上バス)をシステム・マップはいまだ使いこなすことはできていません。ですが、いまではスマートフォンでアクセス可能になっています。
水上バスの利便性はますます高くなっており、ここのところまた多くの人がやってくるようになったので、最近も週末にリアルト橋をほとんど渡ることができなくなったことがありました。(リンネル製品デザイナーの)キアラステッラ・カッタナは言います、「いっそのこと運河に飛び込んだほうが、マシかもしれませんね(笑)」。
ヴェネツィアに住む人々は、「次善策としてプランBを常に用意しておくことがヴェネツィアの暮らしでは重要だ」と言います。多くの場合それは、外の島へわざわざ出かけていくことを意味しており、目端の利く新参者や地元民はそうするのです。
例えば、若き貴族でガラス・デザイナーのマルカントニオ・ブランドリーニ・ダッダ(Marcantonio Brandolini d’Adda)は、何の制約もない『サンピエトロ・イン・ヴォルタ(=ヴェネツィアが浮かぶ潟をアドリア海から隔てる島にある村)』が、「このラグーナ・ディ・ヴェネツィア(ヴェネツィアが浮かぶ潟という意味)で私のお気に入りの場所であり、お目当ての場所なんです」と考えています。
さかんに喧伝される『ハリーズ・バー(Harry's Bar)』や、ハリーズ・バーで有名なカクテル『ベリーニ(Bellini)』のことは忘れましょう。そのバーで飲むドリンク2杯分くらいの金額を出せば、『ダ・セレステ(Da Celeste)』のような水辺のお店で素晴らしい料理と最高の景色を楽しむことができるのです。
閑静なドルソドゥーロ地区に住んでいるデザイナーのカッタナの場合、日曜日に出かけるリド島へのハイキングというカタチで、観光客の狂騒から逃れることになります。ヴァポレットに飛び乗って20分もすれば防波堤のような島に到着。それから北へぶらぶら歩いて行くと1930年代の小さな飛行場があり、そこのレストランの窓からは自家用チャーター機用に整備された芝生の滑走路を見渡すことができて、まるでタイムマシンに乗ってきたような気分。
このジョヴァンニ・ニチェッリ空港では、ミラノ・デザインの第一人者、ニナ・ヤシャール(Nina Yashar)監修による2つの展覧会が2022年6月末まで開催されていました。
のどかなリド島は、ファッション通販サイト「Yoox(ユークス)」(同社の品ぞろえは膨大です)を率いるイタリアeコマース界の大物フェデリコ・マルケッティ(Federico Marchetti)にとっては、目覚めるのを待っている眠れる森の美女のような存在です。「中には誰にも教えるなという人もいて、これはいいものを自分たちのために取っておきたいイタリア人の典型的な態度です」と彼は言います。
マルケッティは2年前、ヴェネツィア国際映画祭の期間中に友人で映画監督のルカ・グァダニーノに同行したとき、19世紀に建築されて以来ずっと彼の家族が所有しているというアールヌーヴォー様式のヴィラに出合いました。
彼は衝動的に(そしてうまい具合に)それを買い取って、現在、グァダニーノの助けを借りながら、かつての輝きを取り戻すべく建物と庭園の修復を行っています。
(本記事トップ写真の)デザイナーのエドガルド・オソリオも、気まぐれな思いつきが慎重さに打ち勝ってしまいました。彼は世界的なパンデミック下における隔離期間を過ごす場所を探しているとき、アリヴァベーネの素晴らしいパラッツォ・パパドポリの向いにある邸宅を見つけ、そこに住み着いたのです。彼の大好きなカクテルに敬意を表して(ヴェネツィア的でないのは明らかですが)、そこはパラッツォ・マルガリータという愛称で呼ばれています。
ヴェネツィアを、琥珀の中に閉じ込めて保存しようとする人は昔からいました。が、その地のことを知り抜いている住民たちは、「この町を“ルネッサンスのディズニーランド”と名づけて額に入れて飾るのは、忍び寄ってくる死を待つようなものだ」ということを理解していたのです。
それでもパンデミック前には、バジェット・ツーリズムはすでに限界に達していました。「私の人生最悪の年は2019年でした」というのは、(上記写真で紹介した)トト・ベルガモ・ロッシ。非営利団体のヴェネツィア・ヘリテージでディレクターを務める彼は、15世紀のゴシック建造物であるカドーロを修復する最新プロジェクトにルイ・ヴィトンの支援を取りつけました。
「都市の中の優れた傑作を残すことがこの町の生命線で、それは極端に偏らない中道を行くことにかかっている」と彼は言います。「ヴェネツィアは博物館のように運営していかなければならないんです――われわれが中に住んでいる状態のままで」と。
ヴェネツィアが再び、ヴェスヴィオ山の大噴火のような観光客の波(人口わずか5万5000人の町に訪れる観光客は、推定で年間約2200万人に上る)に脅かされているように見えても、個人的な楽しみ方が必ずあることを事情通は知っています。
カリフォルニア出身で、パリに住みついて数十年になるデザイナーのリック・オーウェンズ(Rick Owens)は、15年前から夏の一時期をリド島の『エクセルシオール・ホテル』で過ごすようになりました。そこの「古色蒼然(こしょくそうぜん)とした壮大さ」に惹かれたそうなのです。
最近では年間の滞在期間が数カ月に延び、あえて平凡な過ごし方をするのがルーティンになっています。「ごく普通の生活を送りながら、ヴァポレットでサンマルコ広場に行って式典を楽しんだりすることができるわけです」とオーウェンズ。
それが、この町を理解する鍵なのかもしれません。
ヴェネツィアは、初めて訪れる人のものでもなければ、ヴェネツィア人のものでもないのです。「あなたが誰であっても、ここでは必ず何かを発見することができます。好奇心さえあれば…」と、アリヴァベーネは言います。そして、「どうしてこの町を怖がる必要があるのかわからない」と彼女は言い切りました。
「つまり、ここは島なんです。間違ったところへ行きようがないんですよ。落っこちる心配はありませんよ」。
Source / TOWN & COUNTRY
Translation / Satoru Imada
※この翻訳は抄訳です。