コロニア・ディグニダ 小児性犯罪者が作り上げた楽園
Aflo
パウル・シェファー

第五章 恐怖の「教団政治」の誕生

コロニア・ディグニダはさらなる戦慄(せんりつ)の集団となり、そして暴走する。PyLは、ピノチェト率いる軍とコロニアを引き合わせ、結びつけるよう画策した。これはPyLの事務総長R・ティーメ自ら証言している。そうしてコロニアは軍と、“フラターニティ「兄弟」を意味するラテンに由来し、宗教的機能をはじめとしてさまざまな社会的機能を発揮した友愛の連帯組織)”として絆を結ぶ一種の「連隊」となったのだ。シェーファーは連隊長のようにふるまった。まるで病院を建設したとき医師のふりをしたのと同じように…。ただの担架担ぎが「連隊長」になったことは皮肉としかいいようがない。

軍の秘密警察組織DINA隊長のマヌエル・コントレラスは、軍人を引きつれコロニア入り。軍は摘発した左派活動家をコロニアが新しく設置した地下施設へ送り込み拷問…。コロニアが少年たちを拷問して積み上げたノウハウを、ここで利用したのだ。拷問された活動家のひとり(元MIR幹部)は、その現場をドキュメンタリーの中でこう説明している。「シェーファーは(入植者たちの中で)軍人よりずっと上の立場の権力を持っていた」。そして元DINA、S・フエンサリダもまた「彼はわれわれより拷問のスキルが高かった。軍は囚人の尋問に不慣れだったため、(得意な)ドイツ人に任せたのだ」と語っている。 

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
A notorious cult - The fight for justice against Colonia Dignidad | DW Documentary
A notorious cult - The fight for justice against Colonia Dignidad | DW Documentary thumnail
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小児性犯罪カルトへ政権が国家事業を委託

飼い葉の下で、学校の下で、拷問は行われた。「肛門と尿道にまで電気ケーブルをつけて拷問された」と、生き残ったMIR(武装派組織「左翼革命運動/革命左派運動」)活動家はこう述べている。

教団幹部カール・ファン・デン・ベルクが、収監者たちの世話をしていた。このときシェーファーは、ついに自分の手で尋問することもあったという。

慈善活動をしているはずが、なぜ拷問の現場に関し何も言わなかったのか。刑務所に入ったのち幹部のひとりはこうカメラに向かって証言した。

「(食事と排泄物などの)世話をできたのが、せめてもの救いだった。私の人生における本来の目的は拷問ではなく善行だ。私はシェーファーに言われたことをしたまでだ。他のことは知らない」。

1974年8月には、ピノチェトがついにコロニアを訪問する。

この頃、シェーファーとピノチェトはかなり親しい間柄になっていた。しかし、さすがに教団の異様さをごまかすため、ピノチェトが訪問する際だけは少年少女が一緒にいることを許されたという。それは功を奏し、「ピノチェトはうっかり子どもたちの歌声に涙まで流した」と、元信者は話している。

そして、ついにはシェーファー個人に国から給与を支給されるようになり、教団に公共事業を発注し始める。鉄道敷設といった工事のほか、チリの土地の豊富な金資源の採掘までもコロニアは請け負ったのだ。

すると、ますますチリの貧しい親たちは仕事も多く、資金であふれている教団に子どもを預けるようになっていった。こうして不幸なことに、コロニア・ディグニダは黄金期を迎えてしまう。最悪の黄金期を…。 

その頃、教団に迎え入れられた少年のひとりが、先述のドキュメンタリー内で「みんな自分と似ていることに気づいた」と語っているように、金髪・ウェービーヘアの男の子が圧倒的に多かった。中には7、8歳の子もいた。彼らを入浴させるのは、決まってシェーファーの役割。少年たちはそこで性的な行為を受けるのだが、「性の手ほどきを受けた」と受け止めた少年もおり、少年への性加害問題におけるグルーミングの根の深さを浮き彫りにしている。

貧しい地域からきた少年は、「本気でいい人生を歩ませたい」と願ってわが子を預けた両親たちの期待を背負い、皆、シェーファーからの寵愛(ちょうあい)を受けることを競っていたともいう。シェーファーは自分のお気に入りを”スプリンター”と名づけ、常に自分のそばに置いていた。他の少年たちがいる中でスプリンターを膝の上に座らせ、その間、少年のズボンの中に手を突っ込んでいるという異常な光景が展開されていたが、彼らはそれを誰かに言うことはなかった。口止めされていたし、その様子を見た少年たちは、シェーファーのお気に入りになればコロニア内で大きな恩恵を受け、尊敬のまなざしで見られると信じるようになっていたからだ。

そして何より、マインドコントロールが働いていた。シェーファーはイニシエーションとして、最初に少年たちには必ず何か大切なことを告白させ、その話に出てきた何らかの罪を犯した人物を皆の前で罰する。時には、告白した少年と「チクられた」少年とを決闘させることも…。そして、告白した少年のほうは称賛される。すると、罰せられた少年はいつか自分も誰かの「罪」を報告してやろうと誓う。そうして少年たちを互いに敵視し合うように仕向けることで、団結を防いだのだ。

この頃、シェーファーはピノチェト訪問時のために「聖堂」と呼ばれる建物を改装し、滞在できるよう寝室と浴室をそこに備えた。そこは、「少年たちを使役に性接待が行われていたのでは?」と疑わざるを得ないような施設である。

しかしついに、このようにずぶずぶと政権と癒着したコロニアの実態が、ある人物により国連人権委員会に訴えられる。 


国連人権委員会も無力

一方、拷問施設に入った囚人たちは耐えられず命を落とす者もいれば、釈放されるものもいた。「ここで起きたことを口外すれば家族を殺す」と脅されたうえで…。しかしこの脅しに屈せず、教団の監視をかいくぐり、一人の女性が国連人権委員会に訴えた。そうして1977年にはルイス・ピーブルズという被害者が、アムネスティに提訴。ようやくメスが入るかと期待された。ところがシェーファーが司法に手をまわしていたため、調査は中止されてしまう。

教団は、教団を探ろうとするジャーナリストを攻撃していた。成功した少年の亡命(※本稿第三章参考)より前に、コロニア・ディグニダには「ユダヤ人少年が収容され虐待されている」という噂が立っていた。それを聞きつけ取材に訪れた記者は、現場で襲われたばかりか、もとの生活に戻ってからも教団から監視され、辞職したという。

1976年ごろになると、CIA(アメリカの中央情報局)を使ってまでアジェンデ政権転覆を下支えしたと囁(ささや)かれるアメリカは、そのしっぺ返しを食らうようになっていた。その頃、チリから亡命した反ピノチェト派たちをチリ軍のシークレットエージェントDINAが、世界各地で殺害する事件が勃発していたのだ。

ついにはアメリカの政治における中枢であるワシントンDCで、アジェンデ前政権の外務大臣を務めていた駐米チリ大使オルランド・レテリエルと同僚が爆死することになる。

1976年9月21日に暗殺されたオルランド・レテリエルとロニ・モフィットの追悼石碑。
The Washington Post//Getty Images
1976年9月21日の朝に暗殺されたオルランド・レテリエルとロニ・モフィットの追悼石碑。ワシントンDCに設置されている。そこには皮肉にも「DIGNITY」の文字も刻まれている。

さすがに国内でテロ事件を起こされて、何もしないわけにいかなかったアメリカはピノチェトに首謀者の逮捕を命令する。「DINA長官コントレラスを逮捕せよ」。これはDINAの解体を命令したも同然。しかしチリは、逮捕およびDINA解体こそしたものの、米国に彼を引き渡すことなく長官は匿われることに。そして匿った場所と言えば、コロニア内の優雅な別荘だったのだ。

ところがこの米国の命令が、世界の注目を集めることにつながってしまったことは、シェーファーにとって大きな誤算であった。拷問部屋の存在がバレてしまえばおしまいとなる。すでに教団に猜疑心(さいぎしん)を持ったり、攻撃したりした人物が相次いで行方不明になっていたことで近隣地域から長年疑われており、抗議活動も起こっていた。

何よりも遺体があった。信者たちがコロニアの広大な土地に穴を掘り、埋めた遺体が…。見つかっては元も子もない。信者たちに命令し、シェーファーは「墓」を掘り起こし、武器庫にあったナパーム剤と火炎放射器で遺体を焼いた。骨は近くの川に流したので、遺体は見つからない状態にまでにした(※)。

日々繰り返される子どもに対する性的虐待を放置するような神経の人間たちが犯した罪が、それだけであるわけがない。ひとつの大きな罪に鈍感になった集団が、さらなる罪を犯すことは必然と言えよう。

教団が戦争の拠点に。サリン研究所も移設

一方、暴走したチリ軍は1970年代後半には自国民を処刑するようになっていた。このとき、人権問題化した軍の圧政から国民の目をそらすためにピノチェト政権が利用したのが戦争であった。隣国アルゼンチンと南極の海を巡り不必要な紛争を起こし、一触即発の緊張状態に持ち込む。コロニアはこのとき、武器商人と直接交渉するようになり、武器輸入にひと役買ったのだった。さらにビーグル水道で領土問題で、第二次大戦後は一触即発の関係にあったアルゼンチンとの国境に近かったコロニアに軍は入り込み、アルゼンチンとの戦争の拠点と定めたのだ。そして、サリン研究所もここに移設されている。

この両国の緊迫した状況は、1984年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の仲介により、領土問題において妥協することで友好関係が確立されたことは、歴史的にもよく知られている。

その一方で、チリの軍事政権は悪名をとどろかせるようになり、人権団体や世界各国の抗議活動によって非難されるようになる。シェーファーはそういった人たちを「豚」と呼び、「やつらはわれわれを潰(つぶ)す気だ。だが大統領がいる限りそうはならん」と高らかに宣言した。その通りこの状況が変わるのは、さらにここから10年もの年月が過ぎた後のことだった。


※ドイツとチリ両国では、「コロニア・ディグニダ」事件の合同の調査委員会があり、遺体の件も含めた調査、アーカイブ、被害者への補償等を共同で進めている 

>最終回へ続く


Research: Miyuki Hosoya
 
【参考資料】

“The Torture Colony” The American Scholar, PHI BETA KAPPA by Bruce Falconer | September 1, 2008

Claudio R. Salinas, Hans Stange: Los amigos del „Dr.“ Schäfer: la complicidad entre el estado Chileno y Colonia Dignidad, Debate 2006, S. 51.
 
“German court rules Chile sect doctor should be jailed”
REUTER, Aug 16, 2017

20世紀最後の真実』落合信彦著(集英社刊) 初版:1980.10

"La mort au Chili de l'ex-nazi et pédophile Paul Schaefer" La Nouvel Obs by Cristina L'Homme, July 24, 2017

Colonia Dignidad: Eine deutsche Sekte in Chile(邦題:コロニア・ディグニダ: チリに隠された洗脳と拷問の楽園)』(2021)

Im Paradies』(2020)