ビジネスの契約がまとまらなかったことが、そのすべての発端でした。
1963年、ヘンリー・フォード2世…通称“ザ・デュース”は、フォード・モーターでレースに参戦したいと考えました。ただし、ひとつだけ問題があります。それはフォード社の製品には、スポーツカーがなかったのです。
「スポーツカーを手に入れる最も手っ取り早い方法は、フェラーリを買収することだ」と、ザ・デュースは考えました。当時のフェラーリは、サーキットで好成績を挙げる資金をつくるためだけに市販車を売っているようなレーシングカーの会社でした。
フォードはエンツォ・フェラーリと交渉を行うため、イタリアのモデナに代理人を派遣します。アメリカ側…つまりフォードは1000万ドルを提示しました。が、交渉がまとまりかけたときにフェラーリ側が、契約書の中のある条項に難色を示したのです。それは、「レースチームの予算に関するコントロール(すなわち決定権)はフォード側にある」というものでした。
「“コメンダトーレ(騎士団長)”の別名でも知られているフェラーリにしてみれば、自主性の放棄はとても耐えられるものではない」ということなのでしょう。彼はこの契約を御破算にして、ヘンリー・フォード2世にあるメッセージを送ります。それは、フォードが滅多に耳にしないような言葉でした。
「世の中には、金で買えないものだってあるのです」-エンツォ・フェラーリ
フォードは買収の代わりに、会社の金と技術を注ぎ込んでささやかな復讐をすることを決意します。彼はフォード社で自前のレースチームを立ち上げることを命じました。目標はただひとつ。世界最高峰のカーレースであるル・マン24時間レースで、フェラーリを打ち負かすことです…。
◇ヘンリー・フォード vs エンツォ・フェラーリ
「あの2人の男はまさに伝説です」と語るのは、『ゴー・ライク・ヘル:フォードとフェラーリ、スピードと名誉をかけたル・マンの戦い』の著者、A・J・ベイミです。
「かたや間違いなく、アメリカで最も有名でパワフルなCEOであるヘンリー・フォード2世。対するは、世界で最もナルシスティックな男、エンツォ・フェラーリ——でも、彼には、その資格があるのです、なんといっても天才ですから…。これ以上の組み合わせは、書こうと思っても書けませんよ」
このふたつの巨大なエゴのぶつかり合いがフォードを突き動かして、アメリカ最高のレーシングカー「GT40」の設計へと向かわせるのです。
カリフォルニアの改造車とハイスピードのNASCARという、ちぐはぐな組み合わせの「GT40」は、1964年と65年のル・マンでは完走することができませんでしたが、大胆で革新的なテストと、かつてなかったようなブレーキ戦略によって、1966年のレースで頂点に立ちます。
レースの数週間前、ヘンリー・フォード2世がレース責任者のレオ・ビービに渡した手書きのメモには、こう書かれていました。
「勝たないと承知しないぞ」と。
◇1966年の「GT40 マークII」全容
1966年の「GT40 マークII」は予想外に乗り心地がよく、長時間の運転を想定して設計されており、座席は柔らかくて風通しもよくなっています。前方の視界は申し分ありません。こぢんまりした外観からすると、車内は意外なほど広々としています。1966年ごろのル・マンが、総走行距離が3000マイル(約4800キロメートル)におよぶ過酷なレースだったことを考えると、このようなクルマに乗りたいと思うのもうなずけます。
しかし、427立方インチ(約7リットル)のV8エンジンを始動させた途端、これがレーシングカーであることを瞬時に思いださせてくれます。なにしろアナログ時代の1960年代に、時速200マイル(約320キロメートル)以上という現代のレーシングカーに匹敵するスピードが出せたのですから。パワーステアリングも、パワーブレーキも、電子安全システムもありません。サードギアで時速100マイル(約160キロメートル)ものスピードを出すというのは、さしずめ、スペースシャトルに取りつけたサイドカーに乗っているような気分でしょう。
しかも、まだトップスピードの半分も出ていないのです。このようなレーシングカーで、ミュルサンヌ・ストレート(ル・マン24時間レースが行われるサーキットの名物だった長い直線で、ユノディエールとも呼ばれる)を時速210マイル(約337キロメートル)で…それも夜間に1966年仕様のタイヤで…駈け抜けた連中というのは、よほど勇敢だったのか、さもなくば頭がおかしかったのか、たぶんその両方でしょう。
このクルマ、スーパーフォーマンスGT40マークIIは“復刻車”で、1966年のル・マンで勝利したクルマを、公道を走れる市販車として再現したものです。
伝説的な実話をもとにしてつくられた新作映画『フォードvsフェラーリ』でも、この復刻版の「GT40マークII」が使われており、予告篇の中で、マット・デイモン扮するキャロル・シェルビーがヘンリー・フォード2世を乗せて爆走させているのがこのクルマです。
実に素晴らしいものです。2005-2006年のフォード「GT」や、2017年に発売された現在の「GT」モデルがそうであるように、スーパーフォーマンスの復刻モデルがつくられたのもまた、ふたりの頑固な実業家が何十年も昔に繰り広げたエゴとエゴのぶつかり合いがあったおかげなのです。
まるで完璧なレーシングカーを実現させたかのような1966年の「GT40マークII」が、スタートした当初はレースに出場するどころか、乗るのも危険な出来損ないだったなんて信じられません。
自動車業界の巨人フォードが、その絶頂期にあった1960年代にフェラーリのような独立系の小さな会社をレースで圧倒するのは、当然のことのように思われたかもしれません。ところが、そうではなかったのです。数え切れないほどの自動車会社が経験してきたように、お金が直接勝利に結びつくわけではありませんでした。
「フォードは大金を注ぎ込んだけれど、それでレースに勝てるという保証はどこにもなかったんだ」と、『フォードGT:フォードはいかにして批評家を沈黙させ、フェラーリの鼻をへし折り、ル・マンに勝利したか』の著者、プレストン・ラーナーは語ります。
「フォードは勝つために、必要な人々も連れてこなければならなかった。メカニック、レースチームを組織する人間、ドライバー。下手をすると壮大な失敗に終わる可能性もあった」
実際、1964年と1965年がそうでした。
フォードの新しいレーシングカーは、スピードはありまし。が、どうすればそれを24時間持続させることができるかわからなかったのです。ギアボックスが壊れ、ヘッドガスケットが吹っ飛びました。また、空気力学も厄介な問題で、時速200マイルという高速で走る自動車には大きな揚力が働いて、タイヤが空転します。1964年の試験走行中に空気力学の影響で不安定になった「GT40」が2台クラッシュすると、テストドライバーのひとりであるロイ・サルヴァドーリがチームから去ってゆきます。「命が惜しいから、あのプロジェクトから降りることにしたんだ」という言葉を残して…。
そして、ブレーキは常に悩みの種でした。
フォードのエンジニアの計算によれば、ル・マンのコースにあるミュルサンヌ・ストレートの最終地点でドライバーがブレーキを踏むと、フロント・ブレーキのローターがわずか数秒間のうちに温度が1500°F(約815°C)に急上昇して故障してしまいます。
重量3000ポンド(約1360キログラム)のクルマを、3分半に一度ブレーキをかけながら24時間時速210マイルで走らせるというのは、これまでになかった新しい問題でした。「あのクルマの運転では、ブレーキを守ることがすべてだったと、(ドライバーの)ダン・ガーニーが言っていたよ」と、ラーナーは語っています。
「彼はミュルサンヌ・ストレートの最終地点にくると、スピードを時速180マイルまで一気に落とさずにすむよう、ブレーキゾーンの手前で足をアクセルから離し、惰性で走らせたんだ」と、キャロル・シェルビーはベイミにこう言っています。「我々はブレーキでル・マンに勝った」と…。
◇勝負を分けたブレーキ・システム
フォード・チームのエンジニア、フィル・レミントンがクイック・チェンジ・ブレーキ・システムを考案したのもそのためでした。このシステムのおかげで、メカニックはドライバーが交代する間にパッドとローターを新しいものに交換できて、ドライバーは自分が運転を担当しているときにブレーキを長持ちさせることを気にしないですむようになったのです。
他のチームは、「GT40」がピットストップで得をしていると非難の声を上げましたが、何と言おうと無駄なことです。「彼らはルール違反だと文句を言った」と、ベイミは語っています。「でも、そんなルールはどこにもなかった」。しかも、フォードが打ち出した新機軸は、これだけではありませんでした。
エンジンが確実にル・マンを走り切れるようにするため、フォードはパフォーマンスと耐久性をシミュレートするプログラムを組み込んだ動力計をつけて走らせました。そして、ル・マンのラップごとのRPMとシフト・ポイントを記録すると、コンピューター制御のサーボアクチュエーターを使い、研究所の中でテストエンジンをまったく同じように“走らせ”て、定期的にシャットダウンするピットストップまで忠実に再現したのです。
エンジニアは、ぶっ壊れるまでエンジンを走らせて、おかしくなった個所の分析と修正を繰り返しました。そして、427立方インチのV-8エンジンが2回連続してル・マンのシミュレーションを走り切ることに成功すると、エンジニアたちは自分たちの設計が満足のいくものになったことを確信したのです。
◇1966年のル・マン24時間レースの結果
こうして迎えた1966年のル・マン24時間レースでは、ブルース・マクラーレン、クリス・エイモン組のカーナンバー2のクルマが優勝、1-2-3フィニッシュのフォードが表彰台を独占するというドラマチックな結果に終わったのでした…。
翌年、フランスに戻ってきたフォードは、再び勝利を手にします。連続優勝を手中に収めて“ザ・デュース”の自尊心が満たされると、1967年のレースを最後にフォードのワークス・チームはル・マンから撤退します。が、GT40は1968年、69年にもプライベーターが参戦して優勝をはたしています。
1960年代のフォードは、マスタングの発表とル・マンでの勝利によって、保守的というイメージを払拭しました。コンピューターを使った耐久テストなど、GT40の開発から学んだことは、フォードの市販車にも生かされています。ですが、フォードはル・マン参戦プロジェクトを新技術の追求というより、ひとつの販売戦略として考えていたのです。
自動車メーカーはいまでも、レース事業に大金を投じています。近年のル・マンに君臨していたアウディが自社のレース・チームに費やしていた額は、年間2億5000万ドルに上ります。またフェラーリは、年間5億ドルをF1チームにかけていると言われています。これだけの莫大な予算がクルマの販売に結びついているかどうかはなんとも言えませんが、アウディの顧客のほとんどは、最後にル・マンで優勝したアウディのクルマ、「R-18 e-tron クワトロ」の名を聞いても、たぶん何のことかわからないでしょう。
フェラーリのようなブランドにしてみれば、レースはいまでもなくてはならないものですが、市販車の主流であるアウディやトヨタのようなメーカーは、レースに高額を費やすことを正当化するのに四苦八苦しています。
フォードがル・マンで勝利をつかむまでに費やした額、2500万ドルかそれ以上と見られていますし、レースから撤退した1968年にもすでに100万ドル使っていました。「GT40」は、1970年にはすでに時代遅れのクルマになっていましたが(フォードは1969年以降、ル・マンでの総合優勝はない)、その歴史にはまだ続きがあります。
2005年、フォードは「GT40」を現代に復活させた、フォード「GT」を発売します。
このレトロスタイルのクルマは、アメリカがこれまでにつくった最高の耐久レースカーに対するオマージュでした。このモデルは2年しか製造されませんでしたが、いまでも人気が高く、もともとのメーカー価格の2倍以上で取り引きされています。
2017年にはさらに規模を大きくして、現在のフォード「GT」を発売します。価格はおよそ50万ドル。まさに、寝室にポスターを貼りたくなるような夢のクルマで、まるでサルト・サーキット(ル・マン24時間が開催されるサーキット)での表彰式から抜け出してきたかのような感じです。
そして、ル・マン初優勝から50年目となる2016年には、この新しいクルマでル・マンのGTクラスに参戦し、見事クラス優勝を成し遂げました。しかも、「“あの”フェラーリを10秒の僅差で破る」というおまけつきで…です。
「フォード『GT40』の物語には、伝説的なキャラクターが山ほど登場する。エンツォ・フェラーリ、リー・アイアコッカ、キャロル・シェルビー、それにヘンリー・フォード2世」とベイミは語ります。
「しかし、このクルマ自体もまたキャラクターであり、伝説なんだ。だからこそ、53年後のいまでも話が尽きないんだよ」と…。
Source / Popular Mechanics
Translation / Satoru Imada
※この翻訳は抄訳です。