フォード「マスタング」開発を主導し、経営破綻寸前だったクライスラーを救ったリド・アンソニー・“リー”・アイアコッカ氏が、カリフォルニア州ベルエアの自宅で2019年7月2日(火)に94歳で亡くなられました。
 
 アイアコッカ氏は1924年10月15日、イタリア系移民の息子としてペンシルベニア州アレンタウン生まれ。自宅近くにあったリーハイ大学でインダストリアル・エンジニアリングを学び、1945年に卒業。その直後、彼はフォード・モーター・カンパニーの未来の管理職候補を育てるプログラムに採用されました。1946年にはプリンストン大学大学院でインダストリアル・エンジニアリングの博士号を取得したのち、ペンシルベニア東部にあったフォードのセールス部門に配属されることに。

 彼の家族には、娘のキャスリン・アイアコッカ・ヘンツさんとリア・アイアコッカ・アサドさん、姉のデルマ・ケレチャヴァさん、そして8人の孫たちがいます。アイアコッカ氏は1983年に最初の妻メアリーさんを糖尿病で亡くしてからは、糖尿病の治療法発見のために多くの時間と財産を費やしていました。その後、ペギー・ジョンソンさんと1986年に(1987年に婚姻無効)、ダリン・アールさんと1991年に再婚(1994年に離婚)しています。
 

フォード「マスタング」による大躍進

 1950年代後半にはフォード社内で頭角を現し、役員にまで登り詰めたアイアコッカ氏は、1960年にフォード部門の総支配人兼副社長に就任しています。そしてその4年後に、開発責任者を務めた「マスタング」が大成功を収めることになるのです。

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 「購入者が手ごろな価格で買えるスポーティーなクルマを求めている」というアイアコッカ氏の予想は、大当たりとなったわけです。初期の「マスタング」は比較的製造コストが安く、当時人気の大衆車だった「ファルコン」と同じパーツを多く使用していました。現在でも、史上最も売れたデトロイトモデルのクルマとなっている「マスタング」は、初代モデルだけで10億ドルの利益をフォード社にもたらしました。

 「マスタング」の成功によって、アイアコッカ氏は一躍有名人となります。1964年4月の同じ週に、『タイム』誌と『ニューズウィーク』誌両方の表紙を飾っています。彼の歯に衣着せないカリスマ的姿は、自動車業界の顔としては珍しく、切り返しが早いもの言いもまた有名でした。

 デトロイトの役員がここまで有名になるのは、故ヘンリー・フォード氏以来初めてのことになります…。

 1970年になると、故ヘンリー・フォード氏の孫にあたるオーナー会長、故ヘンリー・フォード2世氏に次ぐ社内で2番目の権力を持つ役職、社長職に就任します。それ以降、アイアコッカ氏と故フォード2世氏の間には議論が絶えなかったと言います。

 フォード家は、まさに自動車業界の大物といったといった様相で、保守的で事務的でもあり、注目を集めることを好みませんでした。一方のアイアコッカ氏は、すでに有名人になっていたのです。故フランク・シナトラ氏とも当時友好があり、記者には自由奔放な受け答えをしていました。そして1978年、故フォード2世氏の一言によりアイアコッカ氏は同社を解雇されることになるのでした。

フォードからクライスラーへ転身、
前代未聞の方法で経営不振を立て直す

 しかし、それからアイアコッカ氏は輝かしい第二のキャリアを歩み始めます。

 フォードから解雇されてたった数カ月で、クライスラーの社長兼最高執行責任者に就任。当時クライスラーは、かなり深刻な経営危機に陥っていました。それから1年も経たずに、アイアコッカ氏は同社の会長兼最高経営責任者に昇進します。

 人員削減と組織の再編成を進め、記録的な損失を最小限に抑えるよう奮闘しました。また、1979年から1980年にかけてカーター大統領率いる連邦政府に15億ドルの資金援助を働きかけます。アメリカのビジネス界では前代未聞の行動でしたが、アイアコッカ氏は見事にその資金調達を成功させました。最終的に合意額よりも3億ドル少ない金額を借り、約束期限よりも何年も前倒しで返済したのです。

 クライスラーの立ち直りを支えたのが、おそらく「マスタング」以上にアイアコッカ氏の有名なプロジェクトである、「Kカー」シリーズになるでしょう。

 前輪駆動のコンパクトなプラットフォームは燃費がよく、オイルショック後の市場のニーズにマッチしていました。1981年に発売された「ダッジ・アリエス」と「プリムス・リライアント」は大ヒット。そして1984年には、「Kカー」のプラットフォームはミニバンにも採用されるようになりました。

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 このころが、アイアコッカ氏の最盛期だったと言ってもいいかもしれません。彼はクライスラーの最高責任者だっただけでなく、アメリカ自動車業界のスポークスマンであり、革新的なクルマを宣伝するテレビCMに多く出演していました。

 当時のクライスラーのキャッチコピーは、「もっといいクルマが見つかるのなら、それを買おう」というもので、彼が生み出したこのダイレクトで誠実なメッセージは多くの消費者の支持を得ました。

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1984 Lee Iacocca Chrysler commercial
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ビジネス界において、
アイアコッカ氏の
立ち位置は不動のものに

 当時、アイアコッカ氏のクライスラーの販売促進方法には、論争がつきものでした。アメリカの消費者が、「日本車はアメリカ車よりも優れている」と考えていることを嘆き、日本の自動車メーカーに対して差別的なコメントも残します。いま考えると、そのコメントはほとんどジンゴイズム(対外強硬主義者)にも見えます。ですが彼が、クライスラーを危機的状態から救い出したことは誰にも否定できません。

 アメリカ政府がクライスラーに資金援助を約束した翌年、自らの年俸をたった1ドルにしたこともまた彼が残した有名な話のひとつです。これは1987年まで、業界で最も稼いでいた役員だったアイアコッカ氏の、強い経営姿勢を示すものとなりました。

 これではまだ不十分と言わんばかりに、1980年代終わりにはアメリカン・モーターズ買収を率います。

 彼は、ブランドを構築している家族向け四輪駆動の実用車である「Jeep(ジープ)」の潜在能力に目をつけていたわけです。クライスラーの下で最初につくられた「ジープ」が1992年の「Grand Cherokee(グランド・チェロキー)」であり、素晴らしい成功を収めました。現在でも、「ジープ」のSUVと「Ram(ラム)」トラックは、フィアット・クライスラーの大きな利益を占めています。

 そうして1992年に、アイアコッカ氏は渋々クライスラーを退職します。その際世界中で豪華な引退パーティーを行っています…が、しかし、彼はビジネスの世界から姿を消すことはありませんでした。

 1995年には投資会社会長のカーク・カーコリアンに勧誘され、クライスラーの敵対的買収に乗り出しました。しかし、これは失敗に終わり、クライスラーの役員たちとの関係に大きなヒビが入ることになったのです。

 その後も電気自動車のスタートアップ企業に投資したり、オリーブオイルを原料にしたバター類似品を販売する「OLIVIO(オリヴィオ)」という会社を創業したりと、精力的に活動を続けていました。

 2000年代初めには、スヌープ・ドッグやジェイソン・アレクサンダーといった有名人と一緒に、クライスラーの宣伝にも登場しています。

 しかしながら、アイアコッカ氏が遺したのは輝かしい功績ばかりではありません。

 フォードでは欠陥のあったサブコンパクトカー「Pinto(ピント)」の市販化を急がせた張本人であり、追突されると発火するという問題があったために150万台をリコール、総額何百万ドルもの損害賠償をする事態となりました。

 そしてクライスラーを立ち直らせてからは、買いあさりが始まります。ビジネスジェット機製造会社「Gulfstream Aerospace(ガルフストリーム・エアロスペース)」を買収したり、ハイテク企業に投資したり、ランボルギーニを買収したり、レンタカー事業に投資したりと、公私混同とも言える経営に批判が上がりました。この膨大な出費と陳腐化したモデルが何台か発表されたことが原因でクライスラーの経営は再び不安定にしたりもしていました。

 ですがアイアコッカ氏は、彼のつくり出した素晴らしいクルマとともに私たちの記憶に残り続けています。そして、これからも残り続けるでしょう。

 ここでおさらいしますと、「マスタング」によってアメリカに中型自動車を生み出しました。さらに「Kカー」で、クライスラーを復活させたという偉大なる業績を自動車産業の歴史に刻みます。さらには、家族の世代のためのミニバンを生み出したり…また、彼なしではダッジの「バイパー」やジープ「グランド・チェロキー」は存在しなかったのは確かなことなのです。そのうえ、自動車メーカーの役員として自伝がベストセラーになったのは故アイアコッカ氏しかいないのですから…。

 クライスラーを退いてから約30年経ちますが、彼の名前と功績は自動車産業界だけはなく、世界史のレベルで消えることはないでしょう。どうぞ安らかにお眠りください。

From Road & Track
Translation / Yuka Ogasawara
※この翻訳は抄訳です。