あの日、何が起きたのか?

スザンヌ・ベイリー・湯川さんが一番よく覚えているのは、パートナーが飛行機に乗りたがらなかったことでしょう。1985年8月12日(月)、パートナーの湯川昭久さんは大阪に1泊する予定でした。

2人が出会ったのは、8年前のロンドン。昭久さんが住友銀行の支店長として渡英していたときのことです。その後日本へ戻り、彼は住友銀行の航空機リース・ファイナンス部門の立ち上げを担当していました。その関係でほぼ隔週で、東京から大阪まで日本航空を利用していたのですが、その月曜日の朝はいつもと違いました。スザンヌさんは次のように話します。

「彼は朝からずっと、『本当にいつもと違う気分だ』と言ってたんです。いつも飛行機に乗っていた彼にしては珍しいことでした」

アシスタントに「新幹線を予約できないか?」と頼んだほどです。ですが、その週はお盆の時期と重なり、何百万人もの人が移動していたため新幹線は満席でした。昭久さんが昼食のために帰宅すると、「本社がまだ、大阪に行けと言っている」と激怒していたそうです。当時、第2子を妊娠して9カ月だったベイリーさんは言います。

「彼は、どうしても行くのをキャンセルしたかったようです。とても嫌な予感がしていたのでしょう」

昭久さんに会ったのは、このときが最後でしょう。その夜、彼はボーイング747型機、JAL123便に乗り込みました。当時、この旅客機は世界最大かつ極めて印象的な旅客機であり、ほぼ完璧と言える飛行記録を持っていました。ですが午後6時12分、東京の羽田空港を無事に離陸したものの、大阪に到着することはありませんでした。

いつもの54分間のフライトのはずが、わずか12分で大惨事となったと報告されています。

巡航高度2万4000フィート(7315メートル)に達した後、ボーイング747型機の機体後部にある圧力隔壁が大きな音とともに破裂。この隔壁はアルミ板、リベット、補強ロッド、ティアストラップと呼ばれる補強用金属の集合体で、与圧された客室と与圧されていない機体尾部を隔てているものです。その壁が破壊されたことで与圧された空気が勢いよく機体尾部に流れ込み、繊細なアビオニクス(航空機に搭載されている操縦や運航管理のための電子機器)が収められている機体後部のテールコーンを引き裂いたということ…。

さらには、APU(補助動力装置)と垂直尾翼(機体の安定性を保つための翼)の大部分、そしてラダー(方向舵。機体の向きを左右に変えることができる動翼)も破壊。最も致命的とされるのは、この爆発で機体後部が脱落し、ラダーやエルロン(補助翼。方向回転や旋回、バランスをとるときに使う)などの操縦に必要な翼を動かす4つの油圧装置が全てが切断されたこととされています。

これらがなければ、巨大な旅客機は突風の日に飛ぶ紙飛行機のようなもので、パイロットがいくら操縦指示を入れても機体は全く反応しなくなります。

illustration showing the planned flight path overlaid with the actual flight path that shoots north about 12 minutes into the flight
東京発大阪行のJAL123便は、飛行開始から約12分で飛行ルートから外れました。expand=

乗務員たちは約32分間とされる時間、ボーイング747型機の飛行を維持するために奮闘したことでしょう。通常の飛行制御が不能となったため、乗務員にはエンジンの推力を使って上昇と下降を繰り返し、機体を水平に保つという選択肢しかなかったと考えられています。

ですが、ダメージはあまりにも大きいものだったようです。「もう終わりだ!」と機長の高濱雅己さんは叫び、その数分後、JAL123便は東京の北西約62マイル(約100キロメートル)、群馬県多野郡上野村の御巣鷹山の尾根に墜落したとのこと。

生き残ったのは、たった4人だけ。パイロット3人、客室乗務員12人、乗客505人の計520人が死亡し、湯川昭久さんも56歳という年齢で亡くなりました。今日に至るまで、この事故は世界最悪の単独の航空機事故として語り継がれています。

事故後、警察や消防団体、医療機関、ボランティア団体などにより救助と調査活動が行われ、数週間で遺体や飛行機の部品が回収されました。捜査当局は破片を拾い集めながら、事故を招いた原因を明らかにするための手がかりを集め始めました。

そして1987年、日本の運輸省(現・国土交通省)の調査委員会は「ボーイング社が数年前に行った隔壁の修理ミスが、この飛行機の死を招いた」と結論づけたのです。その後数カ月で、ボーイング社は主力機であったボーイング747型機のマニュアルや構造などに大幅な変更を加えるに至っています。

墜落事故から40年近く経った今でも、遺族たちは「事故後、人々を救助するために、もっと何かできたのではないか?」と疑問を抱いています。ですが、一つだけ確かなことがあります。それは…

「乗務員は、できる限りのことをしました。それでも、墜落は避けられなかったのです」ということ。事故調査を支援するために来日したアメリカの国家運輸安全委員会のチームメンバー、ロン・シュリードさんはそう話していました。

ueno, japan august 13 members of the japan ground self defense force in a rescue operation at the crash site at the ridge of mount osutaka on august 13, 1985 in ueno, gunma, japan japan airlines flight 123 from tokyo to osaka crashed into the ridge of mt osutaka, 520 passengers and crews were killed in the deadliest single aircraft accident, only four people survived photo by the asahi shimbun via getty images
The Asahi Shimbun
墜落事故後、各所より動員された計8000人以上が捜索、救助、捜査活動を支援しました。

ボーイング747型機は
航空業界に革命を起こした
飛行機だった

JAL123便の悲劇は、国際的な注目を集めました。それがボーイング747型機で起きた事故であったことで、さらに注目されました。ボーイング747型機は運航を開始してからわずか15年しか経っていないにもかかわらず、「ジャンボジェット」の愛称で親しまれ世界的に有名だったからです。

2023年はボーイング747型機にとって、一つの時代の終わりを告げる年であると言えます。1月には、ボーイング社はアトラス航空の貨物機として最後のボーイング747型機を引き渡しました。現在、旅客用のボーイング747型機は50機にも満たず、ボーイング747型機の覇権はより燃費のいい双発のワイドボディ機に徐々に取って代わられています。

ですが、「空の女王」とも呼ばれたこの航空機は、空の旅をかつてないほど快適で手頃なものにし、航空革命を起こしたのも事実です。

またボーイング747型機は、アメリカのコメディ映画シリーズ『オースティン・パワーズ』の主人公が鮮やかに彩り空飛ぶシャギン・ワゴン(セックスできるように改造したワゴン)に仕立てた飛行機であり、映画『インセプション』でレオナルド・ディカプリオと彼のドリームチームが乗った飛行機でもありました。さらに、アメリカ政府が大統領専用機として信頼するエアフォースワンでもあったのです。1969年2月9日の初飛行から数十年にわたり、ボーイング747型機は印象深い旅客機でした。

通説では、「開発が始まる数年前、パン アメリカン航空の社長ファン・トリップ氏が、ボーイング社の社長ウィリアム・アレンさんに400人以上の乗客と貨物を輸送できる飛行機の製造を提案したことが始まりだった」という話があります。それに対して、「もしあなたが買うなら、私はその飛行機をつくりましょう」がアレン氏の答えだったということ。そして1966年には、トリップさんは1機あたり2000万ドルで25機を購入することに同意しています。

the first boeing 747 rolls off the production line with pan am markings and dwarves a pan am boeing 707 321b sitting in the foreground, everett, washington, march 5, 1969 photo by underwood archivesgetty images
Getty Images
1969年に出来上がったボーイング747型機は、他のどの民間旅客機よりもかなり大きい飛行機でした。手前に写っているのは、ボーイング747型機の約半分の乗客を運べるボーイング707-321B型機ですが、堂々たるボーイング747型機の隣に並ぶとやはり小さく見えます。

それから事態は一気に加速しました。ボーイング社は、この巨大な飛行機を格納するためにワシントン州エバレットに新しい工場を開設。そして「インクレディブルズ(信じられない奴ら)」と呼ばれる5万人の従業員による社内チームが飛行機の設計と製造に取り組み、短い期間でこの偉業を成し遂げたのです。

このグループを率いたのは、チーフエンジニアのジョー・サッターさんでした。ですが彼は、トリップ氏が要求した“少なくとも400人が乗れる機体”に早くから難色を示していました。従来の常識では、「それを達成するには単通路のキャビンを2つ重ねるしかない」とされていたからです。サターさんは、「この設計は緊急時の避難の際にリスクがあり、貨物を運ぶには小さすぎる」と指摘していました。

そこで、構造チームを率いる下級エンジニアのローランド・ブラウンさんが、必要な修正を施しました。彼はまず、標準的な貨物パレットを2つ並べて置くことを提案し、それによって巨大な荷物室と幅約20フィート(約6メートル)の胴体をつくり出しました。次に彼は、機体の中央に2本の通路をつくるデザインを考案。これらは2つの問題をそれぞれ解決しただけでなく、完全に補完し合うものでした。

さらにインクレディブルは、操縦室をメインキャビンの上に配置。この工夫によって機首が上に開くようになり、貨物の積み込みがより簡単になりました。また、螺旋階段でアクセスできる2階の乗客スペースも設置。商業運航の初期には、航空会社は2階をラウンジやピアノバーとして使用し、神秘的な雰囲気を高めていました。ボーイング747型機が国際線の価格を引き下げたとしても、その豪華な2階のスペースは空の旅のロマンをさらに高めたのです。

そうして1970年1月22日に、世界初の双通路型ジェット旅客機であるボーイング747型機の初号機がパン アメリカン航空で就航。日本航空が就航させたのは、その翌年の7月のことでした。

「ジャンボジェット機」という存在は、ボーイング社が世界に与えたものです。1970年、ニューヨークで旅客機としてボーイング747型機が初めて離陸したとき、乗客定員400人のうち335人を乗せていました。当時、その次に乗客定員が多かったダグラスDC-8型機の座席数は、わずか259席。座席が増えたおかげで、航空会社は国際線の航空券をより安い値段で売ることができるようになりました。

エールフランスKLMグループのベンジャミン・スミスCEOは2023年初め、次のように語っています。

「ボーイング747型機はアメリカの中産階級に、飛行機という乗り物を広めた存在です。ボーイング747型機が導入される以前は、一般的な家庭ではアメリカからヨーロッパへ手頃な価格で飛ぶことができなかったのですから…」

またボーイング747型機について、当初パイロットたちを驚かせたのは、その巨大さでした。「まるで体育館の中を歩いているようでした」と、1996年に退職するまでイースタン航空とエバーグリーン航空でボーイング747型機を操縦していたポール・ミセンシックさんは言います。また、「この大きさにもかかわらず、操縦は簡単。片手で操縦できますよ」とも付け加えました。

ミセンシックさんはまた、アラスカ州チュガッチ山脈上空の激しい乱気流の中を東からアラスカのアンカレジに降下したことも思い出し、「ボーイング747型機は反応がよい上におとなしく、荒れた空で操縦するのが面倒だと感じたことは一度もなかった」と語ります。

なぜ修理ミスが生じたのか

1985年までに世界中に608機のボーイング747型機が存在し、そのうちの29機は500人以上の乗客を乗せることができる短距離型で、これらは日本の全日本空輸と日本航空が独占的に使用していました。

この短距離型のボーイング747型機は、より多くの離着陸に耐えるために、より頑丈な胴体と着陸装置を備えていました。JAL123便に使用されたのも、1974年にボーイング社によって製造された短距離用ボーイング747型機です。

1985年のその夜、東京を出発するJAL123便に509人の乗客が乗り込んだとき、恐らくほとんどの人が何事もない空の旅を想像していたことでしょう。そして、あの凄惨な事故を引き起こす原因として指摘されるような事故を1978年に起こしていたとは、誰も気づいていなかったはずです。

7年前の1978年、大阪に着陸した際、パイロットは機首を高く上げすぎてこの機体の尾翼を滑走路に打ちつけてしまったのです。世界中で毎日10万便以上の飛行機が離着陸している中、テールストライク(尻もち事故)は重大な事故であり、珍しいことでもありました。

「毎日起こることではありません」と、ボーイング社の航空安全調査施設の元マネージャー ジョン・パーヴィスさんは言います。1978年のこの事故では25人が負傷し、ボーイング747型機の後部の損傷は深刻なものでした。

最も修理が厄介だったのは後部圧力隔壁で、日本航空はボーイング社のAOGチーム(Airplane-on-Ground。改修作業を行うチーム)に修理を依頼したほどです。ボーイング747型機の隔壁は直径15フィート(約4.5メートル)近くあり、プリンター用紙を9枚重ねたのと同じくらいの薄さ。この薄さは標準的な設計ですが、この飛行機自体が相当な大きさなため、かなり大きくなっていました。

円形に並べられた18枚のアルミニウムのプレートは、2列のリベットで互いに取り付けられていました。各プレートには数本の「ティアストラップ」という補強用の金属が取り付けられ、さらに隔壁の中心から端まで放射状に走る36本の補強ロッドで固定されていました。

隔壁には平らなものとドーム状のものがありますが、ボーイング747型機はドーム型。オレンジを真ん中で切り、その半分をスプーンですくって中身を取り出した形をイメージしてみてください。どちらのデザインも、与圧された機内と与圧されていない尾翼を隔てるという機能は同じです。

当時の日本航空は通常、機内を1平方インチあたり約8.9ポンドの力で加圧していました。そのたびに隔壁は、数百人のスーパーヘビー級ボクサーによる同時パンチとほぼ同じ力に耐えなければなりませんでした。そして1万2000回以上耐えた後、JAL123便は致命的な打撃を受けたのです。

multiple views of the boeing 747 bulkhead showing its rear location in the plane as well as where the faulty repair was made
Aircraft Accident Investigation Commision Report

テールストライクにより隔壁の下半分を傷つけていたため、AOGチームはそれを修理ではなく、損傷部分を取り除いてつくり直さなければならなりませんでした。最終的には上下を結合させるだけで、作業はそれほど難しくないはずです。ですが、新しい下半分の隔壁を取り付けるとき、上半分の隔壁の一部分が新しい下半分の隔壁とかろうじて重なる程度で、2列のリベットを打ち込むのための十分なスペースがなかったそうです。

この問題を解決するため、上下を重ね合わせるためのスプライスプレート(柱・梁などの継手において、主に高力ボルト接合部に使われる添え板のこと)が製作され、これを挟んで取り付けることになったということ。ですが取り付けの際、メンテナンスチームはプレートを2枚にカットしてはめ込まなければならず、その結果、この場所が構造として弱くなったようです。当初はスライスプレートを介して2列のリベットで上下が結合されるはずが、スライスプレートが分割されたことで事実上1列のリベットにより結合される形になり、1列のリベットがほとんどの荷重を受け持つことになってしまったという推測です。

隔壁の継ぎ目はすべてシーリング材(密閉剤)で埋められていたため、この欠陥のある修理は検査で見落とされてしまったと言われています。

連邦航空局が発表した墜落事故に関する報告書によると、スライスプレートを切断し、2列ではなく1列のリベットを使用したことで、その部分の隔壁が30%弱くなったとのこと。時間が経つにつれて、繰り返される加圧により修理が不適切だった部分に荷重がかかり、さらに隔壁が限界点に達すると、小さくて気づかないほどの亀裂が入り始めた…とつづられています。

そして、事故は起きる

1985年8月12日夜、大阪へ向かうボーイング747型機は、隔壁の修理以来1万2318回のフライトをこなし、飛行時間は1万6000時間以上という状態でした。そして、1万2319便が最後のフライトとなります。

離陸直後、JAL123便は約2万4000フィートまで上昇する際に機内を加圧。墜落事故から生還した当時26歳の客室乗務員 落合由美さんは、「そのとき、大きな音を聞いた」と話します。

客室乗務員の一人が航空機の後部から日の光が見えるのを確認し、大気が凝縮して機内が白くなりました。コックピットでは、高濱機長がトランスポンダ(航空機を識別するための4桁の数字<スコークコード>を発信する機器)に緊急事態を意味するスコークコード7700を発信。そのとき、機体の油圧が低下していることを示すアンバーライトが点灯していたということ。

フライトが始まってわずか12分後、パイロットは機体のコントロールを失い、機体は上下方向に揺れ動く、いわゆるフゴイド運動の状態に入ったとされています。また、機体後方の尾翼がないため、ダッチロールと呼ばれる横揺れも始まっていたとも…。

後に落合さんは、この感覚を落ち葉にたとえています。上ったり下ったりするのを繰り返しながら左右に激しく揺れる、ジェットコースターを思い浮かべるとよいでしょう。

「想像するだけで吐き気がするような気分です」と、ボーイング社のパーヴィスさんは言います。

一方、高濱機長と副操縦士は、エンジンの出力を上げ下げしたり主翼のフラップを使ったりして、ルートの修正を試みたようです。加速すれば機体は上昇し、減速すれば下降するという状況。羽田空港に戻るために左エンジンの出力を上げて飛行機を右旋回させようとしたものの、うまくいかなったようでした。

そして午後6時47分頃、東京の管制官が「操縦できますか?」と彼らに尋ねました。すると、「制御不能です」と無線から機長の声がありました。

その間、極度に怯える乗客たちは酸素マスクを顔に固定し、ある人は紙切れに最後のメッセージを書いていました。亡くなった白井真理子さん(当時26歳)はこう書いています。

「怖い。怖い。怖い。助けて。気持ち悪い。死にたくない」

どんどん降下しながら、パイロットは依然として無反応のボーイング747型機と戦いました。「エンジンを上げろ、エンジンを上げろ!」と高濱機長は命じましたが、飛行機は山へ向かって確実に落ちていくのでした。

そして午後6時56分、御巣鷹山の稜線にカラマツの木々が浮かび上がり、「パワー、パワー、機首を上げろ、機首を上げろ、上げろ!」と高濱機長は叫びます。それから1分も経たないうちに、飛行機は山腹の木々に衝突し、右翼が尾根に突き当たったということ。

墜落から2年後に発表された事故報告書の中では、「右翼は(中略)原型をとどめないほど粉々になっていた」と書かれています。この事故についての本を書いたイギリス・ウェールズのカーディフ大学のクリストファー・フッド教授によれば、「ボーイング747型機の安全性に関する記録は素晴らしいものだった」とのこと。また、次のようにも話します。

「これは、パイロットのミスやテロの明らかな兆候が見られなかった最初の事故でした」

困難を極めた救助

墜落現場は、数マイル先からでも見えるほど悲惨な状況でした。右翼が尾根に激突し、山に深い溝を掘ると機体は渓谷を横切って転がり、背面から着地して火の玉となって爆発したと予想されます。そこで樹木は数秒で焼け焦げとなり、ジェット燃料の悪臭があたり一面に漂っていたそうです。

山間部の地形は移動が困難な状態で、道路からのアクセスもできない奥地。「迅速な救助の見込みは薄いものだった」としています。ですが、JAL123便が墜落してからわずか25分後、通りかかった米軍機C-130が残骸の座標を記録し、日本の捜査当局に送信した事実もあります。

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The Asahi Shimbun
東京の北西に位置する御巣鷹山の墜落現場にあった、JAL123便の主翼。

そして、夜間に自衛隊が派遣したヘリコプターが墜落現場を発見したものの、パイロットから「生存者は確認できない」との報告が入っています。その間に捜査当局は、消防隊員、地元警察官、自衛隊員3200人を含むおよそ8000人、さらに900台近い車両と37機のヘリコプターやその他の航空機という大規模な捜索チームを編成。

ですが翌日の午前10時まで、瓦礫だらけになったその場所に、誰一人として救援にたどり着けませんでした。もはや、墜落を生き延びた人がいるとは思えません。

ですがその後、奇跡とも思えることが起こりました。ボーイング747型機の尾翼部分の残骸が散乱している中で、落合さんが手を上げているのを救助隊員が発見したのです。さらにもう一人の生存者、当時12歳の川上恵子さんは木の枝にぶら下がって生きているところを発見されました(彼女はその日孤児となりました。彼女の家族も飛行機に乗っていたのです)。そして、他にも母親とその娘の2人が生き残りました。

捜索隊がもっと早く現場に到着していれば、生存者の数はもっと多かったかもしれません。航空事故の記録家であるカイラ・デンプシーさんは、「16時間にわたる一晩の状況を説明した落合さんの証言は、他の乗客が最初の衝撃を生き延びたことを示しています」と指摘しています。

「墜落後、私はあちこちから多くの人々の荒い息や喘ぎ声を聞きました。男の子が『お母さん』と泣いていて、若い女性が『早く来て!』と言っているのがはっきり聞こえました」

2年後に発表された事故調査報告書では、生存者4人を除く残りの乗客は 「全身打撲、脳損傷、内臓破裂のため、即死またはそれに近い状態だった」という判断を確かなものとしているようでした。ですが、墜落事故で愛する人を失った人々の中には、「もっとやるべきことがあったのではないか?」と考える人もいます。

a survivor of the jal flight 123 crash is held by a defense force rescue worker as they are hoisted into a helicopter from the crash scene in tokyo, on tuesday, august 13, 1985 the plane went down monday, night in the mountains of central japan with 524 people on board this photo is from nhk television ap photoinoue
AP
墜落現場からヘリコプターに吊り上げられるJAL123便の乗客。乗客乗員524人のうち、生存者はわずか4人でした。

「『愛する人が救われたかもしれないのに…』という人たちにとって、終わりのない苦しみです」と話すベイリーさん。

シュリードさんやパーヴィスさんをはじめ、ボーイング社や連邦航空局からなるアメリカの国家運輸安全委員会のチームが到着したとき、現場はまるで戦場のようだったということ。実際、彼らは米陸軍の多用途ヘリコプターに乗り、木材と竹竿でつくった間に合わせのヘリポートに着陸しなければなりませんでした。

パーヴィスさんは、流出した燃料による火災で山腹にできた焼け跡を覚えているそうです。一方のシュリードさんは、それとは違うことを思い出します。

「遺族は現場に立ち入ることができ、残骸の中に小さな慰霊碑を置いていました。そして、何百人もの自衛隊員や日本人が残骸を整理し、遺体の一部を運び出していました」

高濱機長に関しては歯が何本か見つかりましたが、他の部分はあまり発見されませんでした。

事故の原因究明で
明らかになった事実

調査チームは当初、爆弾を疑いました。パーヴィスさんは当時を振り返ります。

「私は最初の数日間、ラバトリー(化粧室)の残骸を見つけては蒸留水と純粒アルコールを使って爆弾の残留物がないかを綿棒で調べました。ですが、どのサンプルからも何も出ませんでした」

アメリカに戻った人々は、今度は整備記録を調べ始めました。そうした中で、1978年の“テールストライクとそれに伴う隔壁の修理に関する情報”が見つかったのです。

一方、ボーイング社の飛行機の応力(物体が外部から力を受けたときに内部に生じる力)と構造に関する専門家は、墜落現場で発見された破損した隔壁の写真を分析していました。そして、ある部分のリベットの1列目が割れていることに気づいたのです。

亀裂は通常、2列目のリベットに形成される傾向があり、このリベットは荷重の多くを担う列とされていました。そこで見つかったその亀裂は、隔壁の修理された部分のものでした。パーヴィス氏は、「私よりも優れた頭脳の持ち主が、これらの情報からある結論に行き着いたのです」と言います。

それは、「どうやらリベット部分から亀裂が入り、裂け目にあったストラップではその拡大を止めることができなかった。そして隔壁が破裂すると、急激な圧力の変化で飛行機の尾翼部分が吹き飛び、操縦機能が破壊された」というものでした。

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The Asahi Shimbun
残骸は墜落現場周辺に広範囲に散らばっており、捜査当局は当初、爆弾による墜落を疑っていました。

現場で発見されたものと修理記録を比較することで、日本の調査チームでも問題を特定。「スプライスプレートが取り付け時すでに2つに割れており、1列のリベットだけが本来かかる以上の応力を受け止めていた…」と、パーヴィスさんは説明します。

「その場合の飛行時間がどれくらいか? を計算した人がいたのですが、驚いたことに彼らは、この飛行機が墜落したときの飛行回数に近い数字を導き出しました。もう何が起こったかは明らかです」

50年近く経った今でも
まだ疑問は残る

ベイリーさんやフッドさんを含む一部の人々は、公式に発表されている事故に関する記述に疑問を抱いています。ベイリーさんは、2020年に墜落事故に関する本を出版した青山透子さんによって発掘された、公表された事故報告書から省略された部分を指摘します。それは、飛行時に尾翼に外的損傷があったことを示すものでした。

ベイリーさんは、「修理ミスが、墜落の主な原因ではなかったことを示しています」と言います。「もし墜落現場の南側にある相模湾で、大部分が消滅した尾翼の一部が回収されていれば、この点は明らかになったはずです」と、彼女は考えています(海底調査は実施されましたが「何も発見できなかった」と報告され、調査が終了されています)。

青山さんや日本の著名な経済学者である森永卓郎さんを含む何人かの人々は、このような理由から調査の再開を求める運動を主導しています。 何がいけなかったのか? なぜいけなかったのか?――ベイリーさんは静かな時間を送りながら考えをめぐらせ、この疑問にたどり着いたのです。

最愛のパートナーのいない朝を過ごした後でも、ベイリーさんは飛行機が墜落する直前の彼の気持ちを知っています。この事故は彼の人生を終わらせ、2人が計画していた結婚を阻止したのです。最期の瞬間、彼は間違いなく彼女のことを考えていたことでしょう。

「僕がどれだけ君を愛しているか、君は知らないだろう。君は僕の永遠の宝物だ。どこにいても、僕はいつも君と一緒だ」--彼は事故の前の週末、彼女に残したメモにそう書いていました。一番下には、「Yours, Aki」とだけ署名してありました。

f0brb0 on the ridge of mt osutaka, japan 12th aug, 2015 bereaved families of the 520 people perished in the crash of japan airlines flight 123 pay homage to the crash site on mt osutaka, north of tokyo, on wednesday, august 12, 2015, on the 30th anniversary of the nations worst plane crash the jal boeing 747, with 524 people aboard, crashed on the ridge of mt osutaka, some 100 km northwest of tokyo, killing all but 520 passengers and crew in the evening of august 12, 1985 credit natsuki sakaiafloalamy live news
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御巣鷹山にあるJAL123便の慰霊碑。

ボーイング社にとって、JAL123便の墜落事故は会社に変化を迫るものとなりました。「私たちはこの事故から、多くの教訓を得て生かしていかなければならないと考えました」とパーヴィスさんは言います。

これらの教訓の多くは、ボーイング747型機に生かされました。ボーイング社はまず、後部圧力隔壁の構造を研究。退役した短距離用ボーイング747型機を使用し、加圧と減圧を繰り返して隔壁の耐圧試験を行いました。その結果、同社は全ての旅客機のボーイング747型機に対し、2000フライトごとに後部圧力隔壁の目視検査を実施するよう要請しました。

その後、同社はさらに踏み込み、2万回のフライトを終えたら、4000フライトごとに隔壁の後部をX線または超音波で検査するよう整備士に推奨。また、隔壁の中央にカバープレートを追加し、パーヴィス氏が「“スーパー”ティアストラップ」と呼ぶ金属を追加することで後部圧力隔壁を強化しました。

さらに、垂直尾翼の付け根にある点検口を覆うためのアルミ製カバーをボーイング747型機の全運航機に供給しました。もしカバーが装着されていれば、JAL123便は極端な気圧変化でラダーが吹き飛ぶことはなかったかもしれません。

それから間もなくして、尾翼と胴体をつなぐボルトにより強度の高いニッケル合金であるインコネルを使い始めました。最後は、油圧システムに不具合が生じた場合に作動油の全損失を防ぐヒューズを追加しました。

「これらの変更により、事故を未然に防げたかどうか?」を判断するのは難しいでしょう。「ですが、具体的な証拠を出すのはかなり難しい」とパーヴィスさんは言います。

ただ、もっと厳しい検査でこの問題が発見されていれば、JAL123便は月曜日の夜に離陸することはなかったでしょう。隔壁が適切に修理されていれば、飛行機は大阪に到着したに違いありません。墜落事故の遺物は、いまだに発見されます。2022年8月、墜落した日の1週間前にあたる日に、建設作業員が現場近くで古い酸素マスクを発見しました。

捜査当局がさらなる手がかりを探し、遺族が「事故後にもっと何かできたのではないか?」と考える中でも、他のボーイング747型機は飛び続けました。この事故とそこから学んだ教訓は、ボーイング747型機の歴史における悲劇的な出来事の一部となっています。

そうしてボーイング社は、54年間で半ダースもの改良を加えながら最終的に1547機のボーイング747型機を製造してきました。ですが、商業航空を変えたこの飛行機はついに、海を越えて乗客を運ぶことができる、より小型で燃費の良い航空機に太刀打ちできなくなったのです。それでも最後のボーイング747型機が製造ラインから姿を消した後も、貨物機として300機以上が飛行を続け、毎月4万便以上を運航しています…。

「インクレディブルズ」の革新的なデザインは、機首が開いて積み込みがしやすいワイドボディの輸送機をつくり出しましたが、いまだこれに勝るものはないでしょう。

ある航空専門家は、「ファン・トリップ社長が突飛な大型長距離ジェット機のアイデアを発表してから100年近く経つ2050年までは、ボーイング747型機が貨物を運んでいるだろう」と予想しています。

source / POPULAR MECHANICS
Translation & Edit / Satomi Tanioka
※この翻訳は抄訳です