「スパイ映画から抜け出てきたような」という表現は不適切かもしれません。ですが…、金 正男(キム・ジョンナム)暗殺事件を伝えた、あるニュース・ネットワークはこう表現しました。

 昨年(2020年)の米国ユタ州で開催されたサンダンス映画祭でプレミア上映された監督ライアン・ホワイト氏の新作が目指したのは、このハリウッド的ドラマ––冷酷な殺人の実行犯として利用されたふたりの女性の悲しい物語––の謎を解き明かすことでした。

 ドナルド・トランプ氏がアメリカ合衆国大統領に就任した直後の2017年2月、金 正恩(キム・ジョンウン=現・朝鮮民主主義人民共和国第3代最高指導者)氏の兄である金 正男(キム・ジョンナム)氏がマレーシアのクアラルンプール国際空港で殺害されたというニュースが報じられました。

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 そして、ふたりの女性が彼の顔に神経ガスの「VX」を塗りつけたというのです。

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 ふたりの女性による事件はたちまち、“LOL(laughing out loud=「笑」の意)”という文字が入った白いセーター姿の女性をとらえた監視カメラの静止写真と共に、各国の新聞の紙面を飾りました。当時はこれが、シュールなものになった地政学の現状を端的に示す事件のように感じられたものです。

▼「日本のイタズラ番組」と偽装 ― 金正男氏殺害の裏側

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『わたしは金正男を殺してない』予告
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 ビデオ・オン・デマンドで観られるようになった映画『わたしは金正男を殺してない』が提示しているのは、それとはまた別の筋立てで、東南アジアの貧しい村からやってきたふたりの若い女性が、インターネット上の名声とお金につられて殺人の実行犯に仕立てられたというものです。

 ベトナム出身のドアン・ティ・フォンと、インドネシア出身のシティ・アイシャのふたりは、自分たちが日本で人気のイタズラ番組に出演していると信じ込んでいました。

 そして、彼女たちを暗殺の実行犯としてスカウトした北朝鮮工作員の指示で、殺害を実行する前に何度もその練習を重ねていたのです。

▼金正男暗殺事件直後の世論の反応

 多くの人々と同様、ライアン・ホワイト監督も最初はこのニュースを信じられない思いで読んでいました。「彼女たちは、人を殺す訓練を受けた殺人者なのだろう…」と。

 「きっと、この実行犯である彼女たちは、2011年に父親から指導者の地位を引き継いで以来、権力者としての正当性に疑問を投げかける人々に対する疑心暗鬼の念を深める金 正恩(キム・ジョンウン)の命令を受け、この殺害を実行したのだろう」と考えました。

▼監督は事件を調べるためマレーシアに

 しかし、この事件の取材をしていたジャーナリストから、どうやら真相はまったく違っているようで、彼女たちはキム・ジョンナムを殺害したこと自体は認めているものの、「自分たちは『イタズラを仕掛けている』と思っていた」と話していると聞いたホワイト監督は、彼女たちの供述書を読むだけでもマレーシアに行く価値があると思い、飛行機に飛び乗ったのでした。

 「この映画が明らかにしているのは、たぶん彼女たちは無実だろうということです」と、ホワイト監督は語っています。「しかし、すぐにその確信を得たわけではありません。彼女たちは無実だと思えることを目にしたあとで、今度はまったく納得がいかないようなことにも出くわすことになったのです」とも言います。

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 Netflixにおける2017年のドキュメンタリー・シリーズ、『キーパーズ』でよく知られるホワイト監督は、「犯罪ドキュメンタリーというジャンルに興味があるのではなく、謎に根差したさまざまな物語が人間についてのもっと大きな何かを明らかにしていくさまに興味がある」と語り、さらに「1969年に起きた尼僧殺害事件から、児童虐待と構造的腐敗の問題をさらに深く掘り下げていったのが『キーパーズ』でした」と言います。

ニュースの背後に隠れているものをあぶりだし、彼女たちが何者なのかを明らかにしたい

 「この映画『わたしは金 正男(キム・ジョンナム)を殺してない』もそれと似ていて、ふたりの女性が起こした事件を使って人々の目を引きつけていますが、この作品の主眼はそこではありません。このニュースの背後に隠れているものをあぶり出して、彼女たちが何者なのかを明らかにすることにあるのです。彼女たちが金 正男(キム・ジョンナム)の顔に手を伸ばすことになった経緯を」。

▼『わたしは金正男(キム・ジョンナム)を殺してない』の内容

 物語は滑稽と悲劇を分ける細い線の上を進んでゆき、貧しさからなかなか抜け出せないドアン・ティ・フォンとシティ・アイシャが、どのようにしてインターネット上の名声に引き寄せられていったかが描かれています。

 結果的に彼女たちは、もっと暗い何かに吸い寄せられていったわけですが、そこまでの道筋は、まるで点々と落ちている“パンくず”のように、ソーシャル・メディアに残されていました。

 あるシーンでは、ドアンがテディベアを持ってエレベーターに乗り込む姿が映し出されます。この物語に一貫しているシュールさに悲しみの入り交じった場面で、そのテディベアはイタズラの練習をするために工作員から渡されたものでした。

 「ひとりの女性が、暗殺を決行する前夜に等身大のテディベアを抱えてホテルの部屋に入っていく姿は、実に不条理なものでした」とホワイト監督。「でも、彼女はまもなく人生を一変させようとしていたのです。金 正男(キム・ジョンナム)はまぎれもない犠牲者ですが、もし彼女たちの無実を信じるなら、ここには3人もの犠牲者がいるわけですから、決して軽々しくは扱いたくありませんでした」とも言います。

▼映画製作の危険性

 裁判が行われている間に、ホワイト監督は別の作品をつくっていました。子どものときにナチスが支配するドイツを逃れ、その後世界で最も有名なセックス・セラピストになった、92歳のルース・ウェストハイマー博士のドキュメンタリーです。

 「彼女は私が金 正男(キム・ジョンナム)事件のドキュメンタリーをつくるのを嫌がっていました。そのときにはもう、彼女は私の実のおばあちゃんみたいになっていたからです。だから、私の身の安全をとても心配していました」とホワイト監督。

 制作チームは撮影フィルムと個人データの安全を確保するため、FBIに相談しました。しかし、それでもやはり、ソーシャル・メディアに自分たちのと同じアカウントがあったり、自分たちの作業に侵入しようとする偽のメールが送られてきたりするなど、奇妙な出来事が身の回りでたくさん起こりました。

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 ふたりの女性は有罪判決を受けると死刑になるので、事態はすでに切迫していました。ですが、2019年6月にドナルド・トランプが北朝鮮で金 正恩(キム・ジョンウン)と顔を合わせ、アメリカと北朝鮮との関係に世界の注目が集まると、危険の度合いはさらに高まりました。シュールに展開する首脳会談の様子も、映画の中で観ることができます。

▼まとめ

 この映画『わたしは金正男を殺してない』は、2020年1月に公開されましたが、その時点でトランプは平和的な政権移譲も行っていなければ、大統領選挙で敗北したことも認めなかったり、選挙で選ばれた正当な有資格者に脅しをかけたり、暴徒を扇動して連邦議会議事堂を襲撃させたりしていました。

 もしかしたら、この映画から受け取るメッセージとして最も的確なのは、真実を明らかにしようとする強い意志なのかもしれません。それは裁判中の法廷ではほとんど見られなかったものであり、責任を負うべき者の多くは直接的、間接的に司法の手を逃れてしまったのです。

 「この映画は、いわば変形の犯罪ドキュメンタリーです」と、ホワイト監督は言います。「犯罪ドキュメンタリーというジャンルに人気があるのは、それが典型的なミステリーだからで、“犯人は誰だ?”という点に関心が集まります。でもこの事件では、彼女たちは自分たちが犯行を行ったことを認めているんですよ。だから、ここでの焦点は、“誰が”ではなくて、“なぜ?”だったんです」。

Source / Esquire UK
Translation / Satoru Imada
※この翻訳は抄訳です。