ウェルネスビジネスは、”健常”とされる人たちがより健康を増強するためのものに偏っているように思えます。病気や障がいを持ちながら自分らしく“健康”を追求することを「不可能」と否定してしまうことは、ウェルビーイングの不平等性を肯定することに等しく思えます。

私たちはどうしたら「健康」や「ウェルビーイング」の追求が、すべての人にとって手にできるものとなるのか。また、平等な健康を実現できるのか。9月が啓発月間でもあった小児がんに関するアウェアネスも絡め、鶴谷武親さん、為末大さんに訊ねました。そこからはメディアの重要性すらも導きだされます


Esquire:「健常とはなんだろう?」 素朴なこの疑問から始めたいと思います。この社会では何か疾患があると「健常」から除外されてしまうように見えます。さらに言えば「健康」の情報も健常者であることが前提の情報ばかりで、そうでない人は健康追求の対象がから外されているようにも見え、その範疇の狭さに疑問を持たざるをえません。「健常とは何か?」 お二人の意見をお聞かせいただきたいです。

為末:いくつかの例でお話します。スポーツで言えば「トレーニング」と「リハビリテーション」の2種類があります。たとえば膝に痛みがある。痛みの原因を探していくと、自分の競技中のフォームに行き着くことが多いです。痛みを取り除いていく間ははリハビリテーションですが、痛みがなくなり、痛みの原因を解決する作業はトレーニングになります。生活習慣病は、疾患名がついたものに対しては「治療」と呼ばれますが、生活習慣自体を改善する行為には別の名前がつく。そんな印象です。

パラリンピックにアスリートの支援の形で関わっています。パラリンピックは四肢障害、視覚障害などでカテゴリーが分かれていますが、同じ障害を持つ人たちでも条件は同じではありません。たとえば「切断」というグループでも、足のどの部分で切断しているかで使える筋肉の種類は違い力の入り方は大きく変わってくるわけです。もし公平性を重んじて、同じ条件を揃えることを追求していくと、最終的には「その人だけの100m走」になってしまいます。なぜならば全く同じ障害を持つ人は他にいないからです。障がいを「揃える」のは無理がある。だからある程度の大きな括りでやると、そこにはやはりハンデが出てくるわけです。広げて考えてみれば「健常者」にもまた、やはり様々な能力値や多様性があるなかで、ざっくり男性・女性といったカテゴリーで競争させているのが現状です。

このようになんとなくのグルーピングで競技が成立している。「健常者」「障がい者」という区分にもまた曖昧さがある。そんな印象をもっています。このようになんとなくのグルーピングで競技が成立している。「健常者」「障がい者」という区分にもまた曖昧さがある。そんな印象をもっています。

健康について 為末大と鶴谷武親が語る
Wataru Yoneda
為末大(ためすえ・だい):1978年広島県生まれ。アジアのアスリートを育成・支援する一般社団法人アスリートソサエティ代表理事。スプリント種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。2000年シドニー・2004年アテネ・2008年北京と、3大会連続で出場。ぜんそくを発症しながらも現役を続けた。X:@daijapan

鶴谷:私もグラデーションがあると感じています。また、どういう目的で考えるかにもよります。私の失敗例があります。以前私が経営に関わっていた企業で「健康表彰」というのを毎年実施していました。要するに一日も欠勤も遅刻もなかった人を表彰する、皆勤賞です。ある時、「ずっと慢性疾患があったりして、絶対に賞がとれない人が(社員の中に)いることが(※)分かっている中で、あれをやるのは危ういのではないか」という指摘がありました。私はそこまで深く考えていなかったのです。何かを賞賛することは、いっぽうでそうではない人たちに対し「それはディスアドバンテージ(不利・欠点)なのですよ」と言っているのと同じなわけです。それはすごく反省しました。

WHOにも健康定義があって「肉体・精神・社会面」すべてで健康であることが理想の健康であるとしています。それは「目指すべき理想」を定義しただけであって、どれかが欠けていても、よくしていくか、維持していくか、低下のスピードを遅くしていくのか。目標設定は個人個人の目的で異なる設定をするべきなのだろうなというのが私の現時点での個人的見解です。

※企業には障がい者雇用の義務もある。

為末大 鶴谷武親早稲田大学ビジネススクール
Wataru Yoneda
鶴谷武親(つるたに・たけちか):早稲田大学 大学院経営管理研究科(ビジネススクール) および金沢工業大学イノベーションマネジメント研究科客員教授。実業家。数多くのスタートアップにも関わり、医療法人の理事なども歴任。特定非営利活動法人キャンサーネットジャパンと早稲田大学ビジネススクールの共同で小児がん啓発も進めている。著書に『医療・健康ビジネスの未来2023-2032』

Esquire:しかしそうすると、「あれも健康、それも健康、みんな健康」になってしまい、企業も政府も責任逃れできてしまいませんか? 誰が「健康」を定義するべきなのでしょうか?

為末:すごくドライに考えれば、コストと生産性のバランスをとって「健康」の枠組みを国家が決めているのだと考えています。精神的な疾患などは、農耕時代は障害のカテゴリーには入れられていなかったのですが、それが産業革命以降障害として認識されるようになっていきます。そこにはおそらく、農業と工場労働では求められる能力が違うから。それによって障害の定義も変わってきた。そう考えると国が何かを保障するときは、リソースに限界があるので、評価のインパクトを「生産性」に求めるのだと捉えています。もちろん基本的には、すべての国民の人間の幸福や人間らしさから健康を保障しなければならないのですが。

いっぽうで個人のレベルになると、そんな話ではありません。おっしゃる通りひとりひとりにまったく異なる人生があって、それぞれの健康が必要なわけです。健康の概念を医療の世界だけで定義するなら、身体に閉じたデータで測定されます。血液検査や身体検査で問題がなければ健康である、というわけです。一方で、身体は健康でも友人はおらず、家族と切り離され、生き甲斐もない状態であればそれは幸せとは言えません。私は身体と、周辺との人間関係、人生に対しての意味などが組み合わせた健康の方が、市民の感覚に合うのではないかと思っています。

コミュニティの力は大きいです。私の好きなパラリンピアンのエピソードがあります。車いすのパラリンピアンと全盲のパラリンピアンが一緒に出掛けて、車いすの人が方向を伝え、全盲の人が車椅子を押して移動します。

個人だけで切り取れば「障害」であるものが、皆で力を合わせたら障害ではなくなる。そう考えると個人の健康や障害を個人に対して支援するだけではなく、コミュニティとして支援する方法もあるのではないでしょうか。

鶴谷:コミュニティだけでなく、技術による吸収もありますね。メガネがなければ、0.01の近眼も障害です。メガネがあることで「障害」とは呼ばないのです。補うものがでてくれば問題視されなくなる。人間は補完する術を増やしてきているのだと思います。

mixed race friends fitness training together outdoors summer morning
IURII KRASILNIKOV//Getty Images
※写真はイメージです

Esquire:病や障がいの輪郭が変わってくるということでしょうか? たとえば戦争の最初には「健康ではないから徴兵しない」と対象外になった人たちが、末期になってきたら「おまえは健康だから戦争に行け」と手のひらを返されたという話を聞きました。国が定める「健康」は都合によって勝手に大きく変えられてしまう。それは恐ろしいことですよね。

為末:健康と健常は大きく異なるものだと思います。アスリートやアーティストなどが、過去に学習障害・発達障害があったことを世の中に伝えると、お子さんが同じ状況で悩まれている方を非常に勇気づけるようです。自分だけではないと知ることだけで救いになる。多くの人は標準から外れることを恐れるわけですが、「小さな窓」的な標準があるのではないでしょうか? それが多様性と呼ばれるものかもしれません。

Esquire:「健康の多様性」のようなものを拡大させていくためには、何が必要でしょうか? 教育でしょうか?

為末:私は最終的にライフスタイルに行きつく気がします。たとえば大作家の人生で、決して身体的には健康とは言えない人生を送った人もいますが、作品を生み出したいというその人の欲求とのバランスがとれていたと考えると、それは「不健康」だったのだろうかと疑問がわきます。もちろん時代背景もありますが。

血液だけで測る健康から、もう少し豊かな「健康」のあり方…もしかしたらそれを現代では「ウェルビーイング」と呼んでいるかもしれませんが、多様な健康のありようが見えてくるといいのかなと思います。

ウェルビーイングはその人なりの「いい感じ」

為末:要はその人なりの心地よい状態を見つけて楽しんでいられればいいのではないでしょうか。ただ、そこには必ずサステナビリティの概念が必要で、短期的な快楽やその時よければいいという考え方が入ると、途端に破綻すると思いますが。。

鶴谷:知ったうえでやることが大事ですよね。死ぬ前の2~30年を後悔するような生き方なら、いくら「健康」にまい進していても、果たしてそれは幸福なのだろうかと疑問です。

というのは、「その人らしく」を短絡的に捉えると「いいんだ、俺の人生だ。放っておいてくれ。太く短く生きるんだ。俺はタバコを吸い続ける」となってしまいますが、じゃあその人がいざ肺がんになって呼吸器をつなげられて痛くて苦しくて「こんなに苦しいとは知らなかった。知っていればタバコをやめたのに」となったらそれは寂しいこと。だからこそ、ある一定の情報やリテラシーが共有された状態で、自分なりの健康をキープすることが大事ではないでしょうか。

為末:どの社会にも「ここまでは個人の選択だけれど、ここから下のベースは国が定義して介入しますよ…」といったような「健康」の基準があります。

その範囲でその人個人が、自分なりの健康と折り合いを付けられる状態。それをなんと呼べばいいのだろうと考えたことがあるのです。いい言葉がないのですが、「いい感じ」と呼ぶことにしています。「自分の健康には何かが足りない。埋めなければいけない」。そういった欠乏が心理的不健康を呼ぶのなら、その人が「自分はこれがいい状態」「何かは足りないかもしれないけれどこれで自分はいい」と納得できる状態を持ちながらやっていく。

でもその納得感を個人でいきなり悟ることは難しい。そこで人間関係やコミュニティの「受容」が重要になってきます。その人のものの見方を形作るものですね。その人を周囲が認めれば、その人も自分なりの健康を受容できますが、周囲が否定すれば、欠乏していると捉えてしまいますから。

Esquire:他人の「健康」に寛容になることが必要になってきますね。自分の健康の定義と相手のそれが違った場合、それを否定したくなってしまうという状況はよく見受けられます。その違いに寛容になることが重要な気がしました。

鶴谷:よく昭和のおじさんが「俺たちの頃は朝5時まで飲んでいても健康だったよな。体力ねえな、今のやつらは。まあ弱い弱い」みたいなのですよね(笑)

Esquire:体力があることが正しいみたいなものは、私たちの業界でもよくありました。校了前に飲みに行っても、徹夜で終わらせられた方が勝ちみたいな(笑)

為末:出版業界はヤバそうな話をよく聞きます(笑)

為末大 鶴谷武親
Wataru Yoneda

これからの病の支援。変化する形

Esquire:最終的には健康も多様性の話になりそうです。いっぽう、病を抱えている人への支援はチャリティ的なものに偏っているように感じます。よりいい方法として他にない必要な手段はありますか?

鶴谷:健康以外にも様々なことに言えると思いますが、まずは見えるようにすること。課題を抱えている人、足りないと思っている人が顕在化すること。小児がんについてもそうです。少数派過ぎて、制度の中で優先順位が後回しにされることになる。そういったものは「知る」ことで始まります。知る場所をたくさん作ることがとても重要。

たとえば「小児がん」という名称ひとつにしても、疾患名ではないのです。患っている対象の方につけている特殊な名称です。「大人がん」「女性がん」とは言いませんよね。本当は中に「白血病」「脳腫瘍」など小児のそれぞれの「がん」があるのですが、すべてひっくるめられています。そのように伝わっていないですよね。世間の人はいまでも「小児がん」というがんがあると思っている人もおおいですね。

為末:近くにひとり(病気で)アメリカまで手術を受けにいった方がいらっしゃいました。お母さんがそばにい続けないといけない。そうなるとそのきょうだいは、お母さん不在になってしまい大変だなと思った印象があります。家族が臨戦態勢にいなくてはいけない。そういった状況を知ることで、支援の必要性がそこにもあるのだとわかります。

それから、システムの中に解決が含まれることがありますよね。「臓器提供カード」も、「臓器提供しますか」と聞くのではなく、臓器提供がデフォルトで「臓器提供を拒否しますか」と確認を取るだけで、ずいぶん臓器提供が増えます。

支援の中には金銭的なものと、感情的なものの二つあるとします。前者はチャリティの話ですよね。感情的な支援には、相手の話を聞いたり、直接触れることがとても有効ですが、これをサービスとして考えるとコストがかかります。ですが、そもそもコミュニティはお互いが感情的なサポートをし合っていたと思います。やはり全てを個人単位で切り取ってしまうのではなく、コミュニティや地域で支援し合うようなモデルが必要とされているのではないでしょうか。

Esquire:社会の余裕づくりからはじめないといけませんね。

為末:おっしゃる通りですね。サンディエゴにいた時に見た面白い取り組みがあります。100か国くらいから集まった移民いる地域があったのですが、市がそこに畑を作り、作った作物は自分たちで食べていいという形にしたのです。そうすると、皆英語もままならない移民の人たちが農業は協力しなければならないので、お互いコミュニケーションを取り始め、スケジュールを決めたりして、孤独感も減って上手にいったと。基本的には余裕が必要ですが、社会の枠組みを個人から集団に置きなおせないかと思います。アメリカでも昔は教会がその役割を果たしていたと思うのですが、社会階層が違っても協同できる他の枠組みがあれば…。

社会課題解決とビジネスの両立

Esquire:民間でハブのようになるものを作ることはできないのでしょうか? ビジネスにして継続的に作ることはできないのでしょうか?

鶴谷:相当レベルの高い課題だと思います。社会課題とビジネスとの両立は、とくに若い人たちが大切にしているという印象を受けます。私たちの世代と比べて、それを考えることが当たり前であるかのようになってきています。学部生に何をやりたいのか訊ねると、半分くらいがそういった考え方をしているイメージ。

私なんかが考え付かないチャレンジをしてくれそうだと若干楽観視しているところがありますが、いっぽうで今の企業制度だと難しいとも感じています。もっと変化しなければいけませんし、さらに言えば、消費者も成長の途中だと思います。モノを買う人たちはこれからどんどん変化する。お金を払う、対価として何かをもらうという仕組みも50年後、100年後は変わる可能性があります。ですが、まだまだ「お客様は神様」「金を出すやつが一番偉い」といった感覚が存在する。そういった常識が覆える変化があれば、企業制度がこのままの形を維持し続けたとしても、社会の状況を解決できるようになるでしょう。たとえば、為末さんが挙げたようなコミュニティや、助け合う「村」といった機能が、企業活動に入ってくるかもしれない。

人間として社会で生きるなかで、やりたいこと・やるべきことが被ってくる。近所の子育て、高齢者も社会の一員としては自分と同じ。自分と他人のボーダーも変わってくるかもしれない。

Esquire:社会主義的だと言う人もでてきませんか?

鶴谷:一回豊かになってから社会主義的なことを考えるのと、豊かになる前に社会主義的に考えるようになることは意味が違うと思います。人間はやはり何かを学ぶにしても、「失敗してから学ぶ」のと「失敗しないように学ぶ」のは微妙に違うと思っています。豊かな風景を見てから考える社会主義的な何かはきっと違う。

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

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為末:『ヒルビリー・エレジー』という小説(著者で弁護士のJ.D.ヴァンスの回想録)があって、アメリカのラストベルトあたりの、大卒の人間などおおよそいない町で生まれた人が初めて大学へ、しかもイェール大学に入学して法律家になる主人公の幼少期が如何に過酷だったかというお話です。

その中で、流動性に関する話があります。工場が移転してきてそこでの仕事を求めて周囲から人がやってくる。その時に家を買って、ローンも組んでしまった人たちは、工場がさらに移転した際に動けなくなる。そういった人たちがトランプ現象など、地球環境や人権に関する話題で比較的怒りを纏ってでてくる政治家のエネルギーになっているのだと思います。

企業は早さが重要ですが、ポートフォリオやアセットなど変えるときに、周辺の人々や地域社会や生活に与えるインパクトを、実は環境などよりも先に考えなければいけないのではないかと思っています。日本ではそういった(企業に依存する)人たちが足を引っ張ったという印象があるかもしれませんが、あまりに変えるスピードが速いと、負のインパクトが伴うのだと、トランプ現象の背景にあるものを調べていたときに知りました。ラストベルトは、飲酒やドラッグなどの問題もあり平均寿命が75歳近くまで落ち込んでしまいました。彼(ヴァンス)が言っていたのは、文化資本についてでした。そこでは奨学金という存在を教えてくれる人がいなかったと。ところがイェール大学に入った途端に「こんなにみんながいろいろなことを教えあって、こんなに楽に生きられるのか」と知った…と。今もインターネットだけではなかなかアクセスしづらい情報はたくさんあるのです。

企業が頑張っているなか、足を引っ張るようですが、企業と地域がある程度繋がり合っていた方が、結局最終的には自分たちの足元にあるマーケットを長期的に見て失わずに済むのではないかと思っています。100年とかの時間軸で考えると、ですが。

鶴谷:これはただの印象ですが企業は社会的責任を「コスト」と捉えている場合が多い気がします。社会的責任には、「社会変化に対応する」という責任も含まれていると思っています。たとえば、平均気温がすごく上がって、暑い時代になったら着る服も変わる。ということは企業として何を作って売るか、どんなサービスを提供するか、変わって当然です。

社会から必要とされるものが変わるなら、変化適応も責任の一つ。だからその社会責任を果すと収益も上がる。そうして、自然と事業もサステナブルになると私は思っています。変化をさぼった企業が収益を下げていると捉えている私としては、「こんな時代に社会責任なんかに金を払えないよ」と言う人には「社会的責任を果たさなかったからこのありさまなんだよ」と言いたいです。

誰が何を必要としているかは変わってきているので、それに対応できなくなったゆえに社会から「いらないよ」と言われているのだと思います。

Esquire:企業が社会適応することによって、病を持っている人たちも救われると考えていいのでしょうか?

鶴谷:そうですね。

Esquire:病はいつでもあります。その支援、互助、助け合いを一代で終わらせるのではなく、100年続けていくために、国家や社会や企業はどう変化していけばいいのでしょうか? 変わらなければいけないところはどこにあるのでしょうか?

為末:日本ではこれ以上国家の負担は増やせないと思っています。これ以上社会福祉に頼ると、福祉国家の極限に行きつくような気がします。

一方で、若い人もいなくなった自治体で職員が足りなくなり、家の前の道路が舗装できなくなって、ついに自分たちが役所の前にあるアスファルトをもってきて、勝手に舗装してしまったという話がありました。こういった事例からわかるのは、実は行政サービスだと思っているものも、周辺のコミュニティで吸収し合えることも多いのではないかということです。

そう考えていくとGDPだけで社会の豊かさを計るのも限界が来ているように思います。家事はGDPに換算されず、外部に委託して初めて換算されますよね。先ほどのような自分たちで自治する場合も、そこに金銭のやり取りがないためにGDPに換算されません。でも、そういった助け合いがある社会は豊かですよね。家事のような仕事をきちんと指標化できる術はないものかと…。介護福祉を国が担う以外にも、毎朝地域の若者が、おじいちゃんおばあちゃん2,30人を引き連れて散歩するみたいなこともあっていいし、やり方をもっと多様化できないものかと思うのです。

鶴谷:あまりウケが良くないことをあえて言うと、日本の官僚たちのアイデアは実は非常によく練られています。それは当然のことで、そのテーマをずっと考えている人たちなので、私がにわかに居酒屋で「あれはこうした方がいい」といった意見よりずっと良い訳です。

今のような議論で言えば、官僚が考えた「地域包括システム」をちゃんと読み込むと、実はこれからの人手不足で機能しないと言われている2040年以降の問題に関して、「地域・家族」が盛り込まれているのです。介護人材の源の中に家族・友人・地域と書かれている。私たちは国民という側面があるわけなので、もう少し政府が出している方針をちゃんと読み解いたうえで、仕分けしながら、いいことだったらやろうというアクションも大事。めちゃくちゃナショナリストに聞こえますが(笑)。

Esquire:「家族」とか「絆」とか保守派の政治家がおかしな方向で利用してそうなフレーズですよね。ですが読み解くことは非常に必要なことであることはわかりました。でもどこでそういった情報を読めばいいのでしょうか?

鶴谷:それなのです。情報がありすぎなのです。各審議会などがいい資料を出しているのですが、見つけるのが大変なのです。

為末:情報は本当に多すぎますね。

鶴谷武親早稲田大学ビジネススクール 為末大
Wataru Yoneda

メディアの責任

Esquire:さらにAIが記事を大量に創るようになってくると、より見られる情報を重要視して、見る人が少ない情報はどんどん切り捨てられるようになっていく。そうなるとそもそもインターネット上に落ちてこない、稀な病気や疾患の情報はもちろん、支援情報も読めなくなってしまいますよね。

為末:メディアは調査報道がいちばんの役割になるのではないでしょうか。いくつもの情報とデータを集め、個人の声も聞いたうえで、こうではないだろうかと仮説を立てる役割。ものすごくメディアの担う役割が社会科学などの研究に似てくるのはないかと。それはいちばんお金のかかる分野です。稼げませんしね。

Esquire:メディアが自分の足で調べて、出していく。そこにお金をケチらないことが重要になってきそうです。

為末:日本ではこれ以上国家の負担は増やせないと思っています。これ以上社会福祉に頼ると、福祉国家の極限に行きつくような気がします。

一方で、若い人もいなくなった自治体で職員が足りなくなり、家の前の道路が舗装できなくなって、ついに自分たちが役所の前にあるアスファルトをもってきて、勝手に舗装してしまったという話がありました。こういった事例からわかるのは、実は行政サービスだと思っているものも、周辺のコミュニティで吸収し合えることも多いのではないかということです。

そう考えていくとGDPだけで社会の豊かさを計るのも限界が来ているように思います。家事はGDPに換算されず、外部に委託して初めて換算されますよね。先ほどのような自分たちで自治する場合も、そこに金銭のやり取りがないためにGDPに換算されません。でも、そういった助け合いがある社会は豊かですよね。家事のような仕事をきちんと指標化できる術はないものかと…。介護福祉を国が担う以外にも、毎朝地域の若者が、おじいちゃんおばあちゃん2,30人を引き連れて散歩するみたいなこともあっていいし、やり方をもっと多様化できないものかと思うのです。

為末大 鶴屋武親
CancerNet Japan
 CancerNet Japan 

小児がんの啓発活動を行うNPO法人。様々な企業からの支援を取り付け、情報配信や寄付活動を進めている。

小児がん医療相談ホットライン
03-5494-8159
月~金曜日(祝祭日を除く) 10時~16時 

為末大 鶴屋武親
LemonadeStand Japan

10/22(日)開催、早稲田大学・稲門祭レモネードスタンドを出展予定 

小児がん啓発を進めるレモネードスタンド・ジャパンと組み、売り上げがそのまま小児がん支援の寄付金となるレモネードスタンドを実施。