母親に依存され、稼ぐことを誓った3歳児

「お金を稼いでパパとママを楽にしてあげる!」

エルヴィス少年は3歳でこう宣言したと、まことしやかに伝えられています。その真偽は別にして、「1935年生まれの彼が、吹けば飛ぶような木造の平屋で送る極貧生活から親を脱出させるために自分の稼ぎを使っていた」という事実は、よく知られています。

父ヴァーノン・プレスリーは5人兄弟の一番上の長男として一家を幼い頃から支え、大工、トラックドライバー、牛乳配達などで生活していました。が、どれも長続きしませんでした。その背景には、父親の暴力があったということ。

ヴァーノンの父親J.D.は、有名な美青年であり腕っぷしも強く、肉体労働者としては一目置かれていました。しかしながら家庭ではひどい暴君で、実家が裕福だった母親と持参金目当てで結婚したと語られるほど自己中心的な人物…。荒れた家庭から逃れるようにヴァーノンは幼い頃から逃避癖があり、ぼうっと空を眺めたり、草むらで寝転んだりする姿が目撃されていました。

プレスリーの毒親
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ファミリー・ポートレート。父ヴァーノン(右)と母グラディス(左)。1937年撮影。

15歳のある日、ヴァーノンは父に激怒され家を追い出されてしまいます。その日限りの仕事をしながら知り合いの家を転々とする日々。そうして16歳のとき、ニューヨーク州から引っ越してきたグラディスと出会います。

4歳年上のこの女性は、病気で父を亡くしたことで経済的に困窮し、母と兄弟姉妹7人のため働いていました。まだこの土地に疎く、プレスリー家の悪評も知らなかった彼女は、界隈ではなかなか見られない美青年ヴァーノンにひと目惚れ。ある程度裕福そうに見えたヴァーノンが17歳になるや、結婚へと漕ぎ着けるのでした。

無責任な父親

グラディスの結婚が、自らの生存のためという当然の選択であったことは明らかと言えるでしょう。ですがその思惑とは裏腹に、結婚後は夫が基本的な社会人としての能力に欠けていることに気づき、縫製工場や内職で一家の大黒柱になったと言います。

父親のせいもあり、嫌なことがあっても反抗せず、飲み込んではその場から逃げて、黙ってやりすごす…。ヴァーノンはそういった性格のため、親戚いわく「仕事は長続きしないどころか、家族が置かれている困窮状態をなんとかするべく努力することもできない」と言われていました。

そんな中でも、結婚生活に希望を見出していたグラディスでしたが、それを奈落の底に突き落とす決定的な事件が襲います。大きなお腹を抱えながらも、出産直前まで昼夜関係なく働いていたグラディス。そして出産の迎えたとき、最初に生まれたのがエルヴィス・アーロンと名づけられたのちのエルヴィス・プレスリーです。そして続づいて生まれたのも男の子でした。名前はジェシー・ガーロンと名づけられてはいるものの、出産時に亡くなっています。つまりグラディスは双子の出産を経験したのです。

そんなグラディスは生死を分けた2人の赤ちゃんを抱え、ぐったりと一晩中泣いていたのです。が、まだまだ少年のヴァーノンは何もせず、彼女の周りをうろうろするばかり…。そうして当時若くして母親になったグラディスは、「このとき絶望を知った」とのちに語っています。

そして出産直後から職場に復帰し、そこで得たわずかばかりのお金でなんとか息子を育てていました。ところが再び悲劇が…。ヴァーノンが偽小切手で不渡りを出し、逮捕されたのです。

エルヴィス
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1950年代の父ヴァーノン

若い彼にとって、それがどれほど重大なことか承知した上での犯行ではなかったとは言え、貧しい彼は弁護されることもなく、言い渡されたのは懲役3年。ただでさえ苦しい生活がさらに困窮する状況に…。そうしてグラディスは幼いエルヴィスと家を出ると、親戚のもとに身を寄せました。

その後グラディスは、犯罪者の妻として後ろ指を指されるようになり、快活さや前向きな姿勢は孤高と陰鬱に取って代わられたのです。すべては息子を守るため…彼女は過剰なまでに頑固で厳しい性格となっていくのでした。そして、それを物語る奇妙なエピソードがいくつも残されています。

例えば彼女は自分の靴より、息子の着るものを優先していたそうです。ついに自分の靴が履けなくなると、いくつかの靴下を重ねて町を歩いたということ。当然、周囲の視線が刺さります。息子はそれをあまりにも哀れに思い、自分の服より母親の靴を買うように懇願したものの、彼女は聞き入れられませんでした。

elvis presley
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少年時代のポートレート。1940年ごろ。

そんなエルヴィスは母親を思い、何年も食べていない好物のリンゴを農家のトラックからくすねたときがあったそうです。そこでエルヴィスは「もらった」と嘘をつき、食べさせようとしたところ、グラディスから問い詰められ、黙って持ってきたことを知るや「父さんみたいになりたいのか」と激怒されます。アイロンを片手にエルヴィスの胸倉をつかみ、農場主の元に引きずっていったそうです。そうして「男の子はよくやる悪さだから…」となかったことにしようと言ってくれた農場主の好意も拒否したという事実も、当時の農場主の証言によって残されています。

彼女が、「これ以上、後ろ指を指さされるような落ち度をつくりたくない…」と考えるのは皆さんも理解できるはずです。とは言え、母親のこの懸命さと厳格さは、エルヴィス少年に罪悪感を植えつけてしまったということも察することができるはずです。何か楽しいことをしようとするたびに、母親を置き去りに自分だけが楽しんではいけない。楽しむ前に、早く母親を楽にさせなければ…という思いが強まるのです。

夫に絶望した妻が、精神的に子どもへの依存が強まるということはよくあることではあるものの、エルヴィスの短い半生が、ほぼ母の世話、両親のケアに占められたのにはこういった背景があったというわけです。さらにエルヴィスには、もうひとつの罪悪感が植えつけられてしました。それは…

elvis presley at graceland
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1957年、両親のため家を手に入れたエルヴィス。グレースランドと呼ばれたこの家は死後、一大観光地に。

自分だけが生き残ったという“罪”。グラディスは、少しでも余分なお金が入るとすべてを息子のために使っていました。その上で、死産したもう一人の息子ジェシーを持ち出し、「ジェシーのために毎日祈りなさい。彼は守護天使となってあなたを導いてくれる」と繰り返したのです。「ジェシーが亡くなったおかげで、自分は生きている…」「ジェシーが死んだから、買ってもらえるものがある」「どんなに自分が努力をしても、すべては兄のおかげ」…そうやって存在しない兄の目を意識する毎日が続きます。

こうしてエルヴィスは自分の中の欲望や怒りといった感情を飲み込み、どんなにいじめられても耐える子どもに育ったというわけです。そのため、従兄弟のアール以外に本心を打ち明けることもなく、黙って玄関先や農場で空を見つめる姿が目撃されています。それはまるで、父親ヴァーノンがそうしていたように…。

エルヴィス
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1954年、最初の商業レコード「That's All Right, Mama」のレコーディングにて。

母の思惑で始めた音楽

ある年、親戚が集まるパーティで従兄弟のアールと『蛍の光』を歌うことになりました。その声は粗削りではあるものの、実に美しく、「その場に集まった人は涙した」と言われています。すると母は、自分の夕食を削って貯金をし、一台のギターをプレゼントします。それほど興味なかったためエルヴィスは戸惑ったものの、母の思惑を感じ取って練習を重ねました。

そうして父親が刑期を終え、戻ってきた後のある年の祭りの日、開催されたタレントショー(素人芸の発表の場)に、グラディスは10歳のエルヴィスをエントリーさせます。その頃には彼の歌は上達し、町でも評判となっていました。

母が仕立て直したワンサイズ小さい一張羅をまとい、観客の期待を一身に受け、ギターを抱えて舞台に立ったエルヴィスは、最初は震えながら歌いました。しかしカントリーソングの名手レッド・フォーリーの『オールド・シェップ』を最後にはアカペラで歌いきるや、観客は総立ちに…。2位に輝き、賞金5ドルを手にしました。それを賞金すべて母親へ渡し、彼は初めての快感に酔いしれたのです。

しかしながら、その喜びも束の間。父ヴァーノンは再び逮捕に…。今回は密造酒の販売でした。関わったのは運搬だけだとは言え、立派な犯罪。元犯罪者が牢獄から出てきて、数年で再犯とあれば今後こそおしまい…。ところが、あまりに貧しい一家を哀れに思ったのか、保安官は150ドルの保釈金と引き換えにひとつ取引を持ち掛けたのです。

それは、「すぐにこの町を出て、二度と戻ってくるな」ということ…。

この提案に当時、身を寄せていたグリーンウッド家の人々が助け舟を出します。農場と乳製品加工業を売り払い、当時需要が高まっていたガソリンスタンド業に乗り換えようとしていたグリーンウッド家は、一緒に隣のテネシー州第二の都市メンフィスに越し、スタンドの従業員としてヴァーノンを雇うことを約束してくれたのです。

すぐさま車を手配し、プレスリー家は夜逃げ同然に町を飛び出しました。その後部座席では、エルヴィス少年がギターをつま弾いていたと言います。それは13歳のことでした。

elvis presley on the set of his film "love me tender"
Michael Ochs Archives//Getty Images
1956年最初の商業映画『やさしく愛して』の撮影現場にて。

息子に近づく他人を排除した母

エルヴィスはメンフィスで、ハイスクールへと進学しました。両親の関係はすでに破綻していました。そんな中、同じ屋根の下で暮らす唯一の意味はエルヴィスの存在。 当時の父ヴァーノンはと言えば、グリーンウッド家の提案をなぜか断り安定した職を拒み、エルヴィスからの尊敬も失っていました。そうしてついには生活保護を受けるようになり、一家はプロジェクト(低所得者層の公共団地)へと引っ越します。

「黒人じゃないのに、黒人の町に住んでいる奴がいる」 

elvis presley kidding around
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1964年撮影

当時、人種隔離政策の文化が色濃くのこり、人種差別が激しかった南部では、アフリカ系アメリカ人が多く住むプロジェクトに暮らす白人家庭は嘲笑の対象でした。彼が当時としては非常に珍しく、黒人文化から影響を受けた唱法で歌い、人種的マイノリティとの積極的交流があった白人スターであった背景にはこの時期に経験した、貧困の中で同じく差別される側としての共感と同情があったというわけです。

中学生にして酒に溺れた父を毎日のようにケアしつつ、父の代わりに映画館のもぎりやなどで家計を支えた彼のフラストレーション。その上、再び後ろ指を指される生活に逆戻りしたくない…。我慢することを止め、あざ笑った不良を殴ったエルヴィスは、その後音楽に情熱を注ぐようになります。毎日の辛さから自分を切り離し、一瞬でも楽にさせてくれるかのようにギターの練習に打ち込んだのです。

16歳になると彼は、同世代の少女たちの間でちょっとした話題になりました。「映画館でアルバイトをしている少し変わったブロンドの男の子」として…。なぜなら彼は、貧しい生活の中でも古着でスタイリングすることが得意だったエルヴィスは、全時代趣味の誰も着こなすこともないであろうポルカドットやピンクのシャツを着こなしていたからです。

「人ごみの中で見つけるのが楽になるだろう?」

180㎝の痩せた身体に派手な服…ギーク(ヲタク)な雰囲気によって、特に裕福な家の少女たちから愛された高校生エルヴィス。そんな彼もまた、「いいところのお嬢さん」を好きになっていきました。

american singer elvis presley
Sunset Boulevard//Getty Images
ラスベガスにて。1955年撮影。

ところが映画館で初めてスーという名の女の子と恋に落ちたものの、すぐに飽きられてしまいます。エルヴィスは性的なものに関心が薄く、少女たちを好きになったのはあくまで性的なものを感じさせない「その品の良さ」だったと言います。その理由としては幼少期、狭い掘っ立て小屋で暮らしていた3人はひとつのベッドで寝ており、「あるとき、両親の性行為を目撃していたせいで性的なものに嫌悪感を抱くようになった」と語られています(※)。

※作家キャスリーン・A・トレーシーが、母子が身を寄せたグリーンウッド家への取材で聞き出しています。

性的に未熟な男の子

エルヴィスの性的な発達を妨げた要因は、この他にもありました。それは母グラディスです。

一心同体であった息子が離れていくことを恐れた母は、少年時代から近づく女の子たちを注意深く監視していたのです。そしてハイスクール時代に出会い、結婚まで考えたディクシーに対しては、最後の最後まで認めることはせず、嫌がらせの域にまで達するほどグラディスは無視し続けたそうです。そのため、2人は破局に。

スターになってからも近づく女性が一般人であろうがスター女優であろうが、遠ざけようと躍起になり、そのせいでテレビ放映時に「下半身を写すな」と指示が出たほど。エスヴィス自身のセクシャルなイメージとは裏腹に、彼は結婚するまで女性に対しては奥手。初期のガールフレンドたちは口をそろえて、「友だちのようだった」「肉体関係はなかった」と証言しています。大スターとなった後、交際に発展しかけたハリウッド女優ナタリー・ウッドはグラディスと対面したときを思い出し、妹のラナ・ウッドにこう告白したことが回想録『Natalie :A Memoir by Her Sister』に記されています。

「あのお母さんは、すべてを壊していった。(エルヴィスと付き合う)チャンスすらあげてやるものかとでも言うように、私を逃げるしかないよう追いこんだの」

これに関しては当時、すでに運送業や電気会社で働き、両親よりも稼ぐようになっていた一家の大黒柱となっていたエルヴィス。そんな彼を「奪われるのでは?」という恐れ故の行動と受け取ることも可能です。ですが、オスカー候補にもなったハリウッドスターに対してすら敵意をむき出しにした母の姿勢…。そう考えると、「息子への強すぎる依存」と考えるほうがより自然と言えるでしょう。

natalie wood and elvis presley
Bettmann//Getty Images
1956年ナタリー・ウッドと

欠落した自信

母によって、母以外との交流を非常に制限されたエルヴィス少年は、次第に複数の人の前に立つと激しい恐怖に襲われるようになります。このことが、「彼の才能の発掘を大きく遅れさせた」原因ともされています。

ジュニア時代(アメリカの4年制高校の3年生、日本では高校2年生に当たる)、最初にゴスペルグループの欠員を埋めるため地元の舞台に上がったときには、そのタキシード姿と歌声は観客には認められたものの、直前まで「自分は失敗するかもしれない」と震えていたという話を、サン・スタジオおよびサン・レコードの創設者で(エルヴィスを発掘した)プロモーターであるサム・フィリップスに自身語っていたということ。「観客の声援が怒号に聞こえた」とも言っていたようです…。

それに比べれば、はるかにたやすいはずの高校の文化祭では…、ろくに歌うこともできず引っ込んでしまったそうです。内気すぎて学校では、ギターが弾けることも歌えることも隠していたエルヴィス。突然、舞台に現れた彼に同級生たちは唖然としていたところを、彼自身は「笑われている」と勘違いしたための挫折だったようです。意固地にすら見える過剰なまでの内気さは、ギターの講師からも「シャイすぎてレッスンにならない」と一度断られたほどでした。

「脚を震わせて歌うエルヴィスの特徴的な動きは、震えを隠すためだった」と本人が語っているように、自信をつけるまでにはかなりの時間を要したようです。

rock and roll musician elvis presley
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フロリダ・タンパで舞台に上がるエルヴィス。1955年7月31日撮影。

強欲マネージャー、パーカー大佐の依存

しかし、ようやく自信を手にして無事デビューした後に、スターへの階段を上る途中で幼少期と同じような罠に嵌(は)まります。

そこでキーマンとなったのが、“パーカー大佐”ことトマス・アンドリュー・パーカー(トム・パーカー)です。彼は孤児として育ち、サーカス団で働きながらそこに出演する歌手たちのマネージメントを始めるようになります。その後、タレントマネージャーとしてエディ・アーノルド、ハンク・スノウ(共にカントリー歌手)らを手掛け、その実力を世に示します。そこで、これまでエルヴィスを育て上げてきたサム・フィリップスとそのときのマネージャーであるボブ・ニールは、さらなる活躍を目指してパーカー大佐の手を借りることにするのでした…。

最初は乗り気ではなかったパーカー大佐ですが、一旦エルヴィスが金になるとわかると、これまで彼のキャリアを築いてきた多くの仲間たちにさまざまな権謀術数(けんぼうじゅっすう=巧みに人をあざむく策略のこと)を使って、一人一人引き離そうと動き出します。

エルヴィス・プレスリー
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ジョニー・キャッシュらも育て上げたサン・スタジオおよびサン・レコードの創設者であるサム・フィリップス(写真右端)ら、エルヴィスを初期に支えたメンバーと

パーカー大佐のやり口は一人のタレントに集中し、そして寄生すると、その生活すべてを乗っ取るという手段を取っていました。エディ・アーノルド(カントリー歌手)は1969年の自伝『IT'S A LONG WAY FROM CHESTER COUNTY』の中でこう証言しています。

「トム(パーカー大佐)がマネージャーになるとね、タレントにとって彼自身が生活のすべてになってしまうんだよ。彼はアーティストを取り込んで、呼吸まで一緒にするかのように自分と一体化させてしまう…。私は一度彼に言ったことがあるんだ、『トム、ゴルフとかボートとか、何か趣味を持ったらどうだ?』と。すると、彼は私の目をまっすぐに見てこう言い放ったのさ。『君が私の趣味だよ』と…」。

パーカー大佐はアーノルドが妻サリーと住む家に居座り、事実上同居までしていました。

elvis presley with colonel tom parker
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パーカー大佐とエルヴィス。1957年撮影

パーカー大佐はほぼ誰とも親密な関係をつくらず、姻戚関係者に対しても一定の距離を置くような人物でした。義兄のビッツィ・モットは、冷たい目で彼に言われたこんな言葉をずっと覚えているそうです。

「お前にはひとつ欠点がある。友人をつくりすぎることだ」

まるでペットのように1対1の関係に押し込み、利益を可能な限り独り占めする姿勢(「エルヴィスに関しては、その稼ぎの50~70%を取り分にしていた」という説も…)にサム・フィリップスは危険性を感じましたが、時はすでに遅く、エルヴィスの両親にも懐柔したパーカー大佐は、デビューをサポートしたサン・レコードとの契約を切らせます。そうしてエルヴィスは、孤立させられてしまったのです。

シャイで集団が苦手で、母親にのみ集中する子どもとして育てられたエルヴィスですが、ここで彼はこのように「パーカー大佐が生活のすべて」という人生へと移行してのでした。

elvis presley
Archive Photos//Getty Images
1957年撮影

妻プリシラへの依存

また、非常に潔癖に育ったエルヴィスは、孤立した芸能生活でたまったストレスのはけ口を食べることに見い出します。実生活では酒もタバコもやらず、食事のみが救い。ハンバーガーやバターたっぷりのコーンブレッドを好んだエルヴィスは、幼少期の貧困な食生活が習慣になってもいたため肥満体質。スターとしての努力と同時に、ダイエットとも挌闘することになりました。

性的に未熟に育ったエルヴィスの性志向は女性には向いていた(と思われる)ものの、同時に「性的な匂いのする女性を嫌う」というねじれた感覚を持っていたことが、初期に“交際”した女性たちの証言から読み取れます。そうして大スターとなった後、これが大事件を引き起こすわけです。

1958年に兵役についた直後、母グラディスが肝炎をこじらせ急逝。生きる意味を失った彼は、まるで母の代わりとでも言うかのように翌年、駐在先の西ドイツでひとりの少女に執着します。それが当時14歳だった、のちの妻プリシラ・アン・ボーリューです。

プリシラ
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1967年5月挙式したエルヴィスとプリシラ。

将校ポール・ボーリューの娘プリシラと、パーティで意気投合したエルヴィスは当時24歳。10歳も年下の中学生をなんとドライブに連れ出し、戻ったのは深夜でした。当時でも未成年を親に無断で連れ出すことは立派な犯罪、しかも兵役下…。将校は告発すると言い放ちました。しかしエルヴィスは、それを必死で説得。「自分のお金でプリシラを一流のカトリック女子高を卒業させること」「父親ヴァーノンの元から通学させること」を条件に、交際の許諾を得ることに成功します。この関係はしばらくの間秘密にされ、1960年に兵役を終えたエルヴィスを見送るプリシラを撮影した当時のメディアは、彼女をただの“friend”と表記しています。この間、『G.I.ブルース』(’60)『嵐の季節』(’61)『恋のKOパンチ』(’62)などの映画をヒットさせましたが、パーカー大佐の差し金によるこの量産型の映画は、エルヴィスの歌手としての価値を大きく貶(おとしう)めることになりました。

そうして8年後、エルヴィス32歳、プリシラ21歳のときに結婚します。翌年、一人娘リサ・マリーが誕生。すべてがうまくいくかのように見えたものの、この結婚はわずか5年で破綻します。原因は、プリシラの不倫でした。

プリシラ・プレスリー
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生まれたばかりのリサ・マリーを囲んで。1968年

相手はエルヴィス長年の趣味、空手を通じて出会った講師マイク・ストーン。ストーンは妊娠中の妻がいた既婚者であり、W不倫でした。この背景には、「性的に非常に奥手だったエルヴィスが原因」とする歴史家も多くいます。ですが、ストーンはのちに暴露本で儲けたことからすれば、「プリシラの行動が単に拙速(せっそく)な決断であった」という話も…。

我慢することに慣れていたためその時も怒りを飲み込んだのか、それとも妻の求めに応じることがそもそも重荷だったのか…エルヴィスは抵抗しませんでした。離婚後、最大の理解者である親友として、プリシラが彼をケアし続けたことを考えれば、後者の可能性が高いのかもしれません。

priscilla presley
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「友人(firiend)のエルヴィスを見送りに来たプリシラ・ボーリュー嬢」と、キャプションが付けられた写真。1960年3月2日撮影。

謎の死

とは言え、結婚生活は初期から破綻していました。夫婦の城となるはずだった「グレイスランド」と呼ばれる豪邸には、常にパーカー大佐率いる取り巻きが住み着き、精神的なダメージが重なり、食生活から睡眠まで不健康な状態。1973年の離婚後、その乱れた生活はすらりとしたエルヴィスの身体を、重く、顔色を土気色へと変容させていきます。その原因のほとんどが、パーカー大佐の存在によるものだったのです。

エルビス
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1956年舞台裏にて

犯罪歴のあるパーカー大佐自身が、「アメリカとカナダ以外の国には行けない」という理由から衛星中継のライブのため深夜にコンサートを開催したり、ギャンブルでつくった損失を隠すために勝手に権利を売却したり(そのせいで死後の権利をめぐる裁判で遺族は争うことになった)してもなお、エルヴィスは亡くなるまでパーカー大佐をクビにすることはありませんでした。そう、残念ながらエルヴィスには、パーカー大佐しか残されていなかったのです。つまる、パーカー大佐の策略は見事に成功したというわけです。

薬物依存後、孫に依存した娘リサ・マリー

こうして1977年にエルヴィスは亡くなるまで、パーカー大佐に消費され続け、42歳の若さで突然この世を去ることになります。原因は「睡眠薬」とも「摂食障害」とも、「偏食に起因した過度の便秘」とも言われています。

エルヴィス
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亡くなる5カ月前のエルヴィス。

両親、もっと言えば母親のケアに奪われたエルヴィスの子ども時代。母親こそがすべて、息子がすべての行動の動機だった二人の相互依存は、自分を搾取する人物との相互依存関係を見えなくさせたのか…。一方でパーカー大佐は1997年まで生き続け(享年87歳)、80歳で再婚まで果たしています。

lisa marie presley and family
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父親エルヴィス・プレスリーと母親プリシラ・プレスリーの一人娘としてテネシー州メンフィスで生またリサ・マリー・プレスリーと、その子どもであるライリー&ベンジャミン姉弟。2000年撮影。

皮肉にもこのエヴィスの「相互依存」は、3代先まで呪うことになります。

父親のケア、そして離婚後の恋愛によって母の愛情を感じる十分な時間を奪われた娘リサ・マリー・プレスリーもまた、依存するものを探し求めたのです…。その対象となったのが、薬物とアルコール。10代から依存症は始まり、リハビリ施設に入所したときは50歳近くになっていました。

そして、そんなリサ・マリー・プレスリーの長男であるベンジャミン・キーオもまた、繊細で危うい母親の世話係(ケアラー)として育ち、自分の道を必死で探していました。そして最中にも、母が絡んでくる毎日…。そしてコロナ禍の2020年に、たった27歳で自らこの世を去ったのです。祖父エルヴィス・プレスリーの「生き写し」と言われたベンジャミンは、天国で祖父にどんな声をかけているのでしょうか…。

どん底から這い上がり、世界一レコードを売ったスターとして世界中に知れ渡った稀代の歌手の人生から学ぶことは、現代の親こそたくさんあるのではないでしょうか。

エルヴィスの娘リサ・マリー
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リサ・マリー。2002年レッドカーペットにて。

【参考文献】

『Natalie :A Memoir by Her Sister』by Lana Wood 『Last Train to Memphis: The Rise of Elvis Presley』『Careless Love: The Unmaking of Elvis Presley』by Peter Guralnick 『Elvis Presley: A Biography』by Kathleen Tracy 『Elvis: He Touched Me, Vol.1』by Darwin Lamm 『Elvis by The Presleys』by Sunday Times