アラバマ州マッスル・ショールズのラジオ曲でDJ、エンジニアとして働いていたサム・フィリップスはテネシー州メンフィスに活動の場所を移し、1950年1月にメンフィス ・レコーディング・サービス社を設立します。「どんな音楽でも、いつでも録音します! 片面3ドル、両面4ドル」というキャッチコピーと共に、貧しい黒人たちにレコーディングの機会を提供しました。
その顧客の中には、前回の連載で取り上げた「キング・オブ・ザ・ブルース」こと、B.B.キングの名もありました。
そして1953年7月のある日、白人の若者がここを訪ねてきます。それが、高校を卒業してトラックの運転手として働いていた18歳のエルヴィス・プレスリーです。アメリカの音楽シーンを塗り替えることになる彼のサクセスストーリーは、全てここから始まったのです。
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伝説のサン・レコード
メンフィスでレコーディング・サービスのビジネスをスタートさせたサム・フィリップスは、ミシシッピ・デルタからやってくるブルースマンのレコーディングを数多く手がけるようになりました。ハウリング・ウルフ、B.B.キングなど、後に世界的な成功を手に入れるブルースマンの最初期の作品の多くが、サムの録音によるものです。
これらのレコーディングの仕事をサムのもとに持ち込んでいたのは、当時ミュージシャン兼スカウトマンとして活動していたアイク・ターナー(後にアイク&ティナ・ターナーで数々のヒットを飛ばすことに…)です。ミシシッピ・デルタで才能あるブルースマンを見つけるとサムにレコーディングを依頼し、完成したテープをシカゴやロサンゼルスのレコード会社に送っていました。
1951年3月、アイク・ターナーはメンフィスにあるサムのスタジオを訪れ、自ら率いるバンド、キング・オブ・リズムで「ロケット88」という曲をレコーディングします。これはサックス奏者兼ボーカリストとしてバンドに参加していたジャッキー・ブレストンが書いた曲で、シカゴのチェス・レコードから発売されると、なんと『ビルボード誌』のR&Bヒットチャートで1位を獲得するのです。この曲はロックンロール・レコード初のヒット曲とされ、その後も1カ月以上も首位をキープすることになりました。
▼ロックンロール初のヒット曲「Rocket 88」
この成功を目の当たりにしたサムは、レコーディングで作業代だけを稼ぐのではなく、新しいロックンロールの才能を発掘して、自らのレコード会社でリリースしていくビジネスを手がけることを決心。そして翌1952年、サン・レコードを設立します。
しばらくはボビー・ブランド、ジェイムス・コットンなどのブルースマンのレコーディングを続けながら、サムはこう考えていました。
「近い将来、黒人のソウル・フィーリングとグルーブ感を持った白人シンガーを見つけることができれば、俺は間違いなく億万長者になれるだろう」
ミシシッピ・デルタのブルースに精通し、アイク・ターナーが示してくれたR&Bのエッセンス、そして後にロックンロールと呼ばれることになる新しいリズムに可能性を予見していたサムは、さまざまなジャンルの音楽をレコーディングしながら、新しい才能と出会うチャンスを待っていたのです。
サムとエルヴィス
高校を卒業してトラック運転手として働いていたエルヴィス・プレスリーは、1953年8月にサン・レコードを訪ねます。その理由は、母親の誕生日に自分の歌を録音したレコードをプレゼントしたいという純粋な想いからでした。このときはサムが不在で、彼の秘書がその録音に立ち会っています。サムとエルヴィスが出会うのは半年後の1954年1月、エルヴィスが2度目にサン・レコードを訪問したときになります。サムの立ち会いのもと、エルヴィスはカントリーやバラードをレコーディングしましたが、残念ながらそのときは、サムの心を動かすものではありませんでした。
半年後の6月、サムは自分のもとに送られてくるたくさんのデモ曲の中から、「Without You」という曲を耳にしました。曲の冒頭の“Always at twilight I wish on a star, I ask the lord to keep you wherever you are...(たそがれどきになると、いつも、どこにいても、あなたを守ってくれるよう神にお願いをするのです)”という歌詞に感銘を受けたサムは、この曲をエルヴィスに歌わせることを思いつきます。
早速、エルヴィスをスタジオに呼びレコーディングを試みましたが、デモ・バージョンを超えるテイクは録音できませんでした。しかしながら今回のレコーディング・セッションでサムは、「黒人のソウル・フィーリングとグルーブ感を持った白人シンガー」の片鱗をエルヴィスに見出すことになります。そしてサムは、エルヴィスをサン・レコードから売り出すことを決心するのでした。
▼サン・レコードのオーディションでエルヴィスが歌った「Harbor Lights」
1954年7月5日の夕方、エルヴィスのデビューに向けてサン・レコードのスタジオでレコーディング・セッションが行われました。ビング・クロスビーのヒット曲など数曲を録音しますが、考えていたような出来栄えにはなりませんでした。そこでサムは、エルヴィスに「ブルースを歌ってみてはどうか?」と進言します。そして2人の間にブルース歌手のアーサー・クルーダップの名が上がり、エルヴィスは彼が書いた古いブルースの名曲「That’s All Right」を歌ってみることとなりました。
エルヴィスはアコースティック・ギターを抱えてマイクの前に立つと、オリジナルの倍のテンポで歌い始め、それにスコッティ・ムーアのギターとビル・ブラックのベースがそれに続きます。すると全員が、同じ熱に巻き込まれたかのようなマジックが起きたのです。試行錯誤を繰り返しながらも、これまで掴むことのできなかった素晴らしいグルーブとサウンドを、ここでいとも簡単に手にすることができたのです。エルヴィスたちが家に帰った後もサムはスタジオに残り、自分が探し続けていた新しい才能に出会った喜びを味わっていたそうです。
▼エルヴィスのデビュー曲「That’s All Right」
エルヴィス・プレスリーのデビュー曲「That’s All Right」は、録音から2週間後の1954年7月19日にリリースされました。メンフィス周辺では予想以上の大ヒットなり、その波はアメリカ南部全体に広がっていきます。続いて5枚のシングルがリリースされましたが、サン・レコードは借金の清算や著作権法違反金の支払いで資金難に陥り、サムは翌1955年にエルヴィスとの契約を大手RCAレコードに売却。その額は、当時の全米での成功前のシンガーの契約金としては破格の、3万5000ドルに達しました。
RCA移籍後のエルヴィス
この売却劇は、サムにもエルヴィスにも良い方向へと作用しました。
エルヴィスはメジャー・レーベルの資金力や宣伝力に助けられ、怒とうの勢いでヒット曲を連発して一気にスターダムへと駆け上り、世界的なスーパースターの座を手に入れます。片やサムのほうは手にした3万5000ドルの一部を使って、ジョニー・キャッシュ、カール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス、ロイ・オービソンなどのアーティストを次々に売り出すことになります。
▼カール・パーキンスの代表曲「Blue Suede Shoes」
中でもカール・パーキンスの「ブルー・スエード・シューズ」は、初のミリオンセラーを記録。こうしてエルヴィスが去った後のサン・レコードながら、全盛期を迎えることになります。さらにサムはRCAからの契約金を受け取った直後に、当時全国的なフランチャイズに拡大しようとしていたモーテル・チェーン「ホリディ・イン」に投資し、長年をかけて資産を数倍に膨らませることに成功します。
1959年からは、故郷であるアラバマ州フローレンス周辺には複数のラジオ局を開局。サムの興味もレコーディングから、ブロードキャスティングへと移行していきます。
▼RCA移籍後の大ヒット曲でエルヴィスの代表曲の1つ「Love Me Tender」
RCAに移籍したエルヴィスは、テネシー州ナッシュビルに今も残る伝説の「RCAスタジオB」に優れたミュージシャンたちを集め、「ハートブレイク・ホテル」「ハウンド・ドッグ」「ラブ・ミー・テンダー」など、後にエルヴィス・クラシックとなるヒット曲を増産します。
RCA移籍初年度となる1956年には、エルヴィスのレコード売上が全米トップとなり、この年のRCAの売り上げの約半分をエルヴィスのレコードが占めたことになります。こうして大成功を手に入れたエルヴィスが、翌1957年に購入した大邸宅がメンフィスの「グレイスランド」というわけです。
以来彼は、この邸宅で両親とともに暮らし始め、1977年8月16日に心臓発作で亡くなるまでの生涯をこのグレイスランドの地を拠点として活動していました。ハワイのノースショアやビバリーヒルズにも豪邸を構えましたが、グレイスランドだけは手放すことはありませんでした。
没後エルヴィスは、広い庭園にあるプールを背にした半円形の墓地に、祖母・両親と共に埋葬されました。一般公開されているグレイスランドは、現在でもメンフィス一番の観光スポットとして連日賑わっており、エルヴィスの命日には世界中から膨大な数のファンが訪れています。
ロックンロールの黎明期に素晴らしい作品を送り出したサムは、1986年に「ロックンロール・フォール・オブ・フェイム」の栄誉ある初の殿堂入りの1人に選ばれ、以後、数々のアワードを受賞しました。晩年は呼吸器疾患で入院生活となり、サン・レコードの録音スタジオは「サン・スタジオ」という名で米国歴史建造物に認定される前日の2003年7月30日に、メンフィスの病院で亡くなりました。
※この原稿は、著者の音楽雑誌出版社勤務時代や米国で扱った数多くのインタビューに加え、これまでのイギリスでの取材活動において得た情報をもとに構成しています。
text / 桑田英彦
Profile◎編集者・ライター。音楽雑誌の編集者を経て、1983年に渡米。4年間をロサンゼルスで、2年間をニューヨークで過ごす。日系旅行会社に勤務し、さまざまな取材コーディネートや、B.B.キングをはじめとする米国ミュージシャンたちのインタビューを数多く行う。音楽関係の主な著書に「ミシシッピ・ブルース・トレイル」「U.K.ロックランドマーク」(ともにスペースシャワーブックス)、「アメリカン・ミュージック・トレイル」(シンコーミュージック)、「ハワイアン・ミュージックの歩き方」(ダイヤモンド社)などがある。帰国後は、写真集、一般雑誌、エアライン機内誌、カード会社誌、企業PR誌などの海外取材を中心に活動。アメリカ、カナダ、ニュージーランド、イタリア、ハンガリーなど、新世界のワイナリーも数多く取材。