マディは、ローリング・ストーンズというバンド名のもとになった曲、「Rolling Stone」の作者だからね(キース・リチャーズ)

【ロックの歴史を巡る旅:3】モダン・シカゴ・ブルースの父、マディ・ウォーターズ
Tony Evans/Timelapse Library Ltd.//Getty Images
イギリス・ロンドンで開催された「ザ・アメリカン・フォークブルース・フェスティバル」で演奏するマディ・ウォーターズ。1963年撮影。

ロバート・ジョンソンを探していた2人の男

 1938年8月26日に、ミシシッピ州グリーンウッドでロバート・ジョンソンは毒殺されましたが(詳しくは連載2回目を参照)、彼の死後、2人の人物がロバートの行方を探しています。

 1人はジョン・ハモンドというレコードプロデューサー。彼はビリー・ホリディやカウント・ベイシーなどから、ボブ・ディランやブルース・スプリングスティーンといったロック世代まで、時代やジャンルを超えて多くの優れた才能を世に送り出してきた敏腕プロデューサーです。

 このジョン・ハモンドは、1938年の12月にニューヨークのカーネギー・ホールで「フロム・スピリチュアル・トゥ・スウィング(From Spiritual To Swing)」というコンサートを企画していました。カウント・ベーシーやベニー・グッドマンをはじめ、当時のジャズやゴスペルのトッププレイヤーが出演する大注目のコンサートで、ハモンドはそのステージにロバート・ジョンソンを出演させるために、ロバートの行方を探していたのです。残念ながら彼は、その4カ月ほど前に他界していました。

 余談ですが、このコンサートはライブレコーディングされ、現在でも3枚組のCDとして残されています。もしロバートが出演していれば、彼のライブ演奏が聴けた可能性もあり、これは大いに悔やまれるところです。

 ロバート・ジョンソンを探していたもう1人は、アラン・ローマックスという民俗学者です。彼はアメリカの民俗音楽の録音収集・映像記録・研究家として、ワシントンDCで米国議会図書館のディレクターを務めていました。1941年の夏、彼はロバート・ジョンソンのフィールドレコーディングを計画し、クルマのトランクに録音機材を詰め込み、一路ミシシッピを目指しました。

【ロックの歴史を巡る旅:3】モダン・シカゴ・ブルースの父、マディ・ウォーターズ
Hidehiko Kuwata
チャーリー・パットン、ハウリン・ウルフなど多くのブルースメンを輩出した「ドッカリー農場」。
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Hidehiko Kuwata
ドッカリー農場は「ブルース誕生の地」 としてミシシッピ・ブルース・トレイルのマーカーが設置され、2006年に米国国家歴史登録財に指定されています。
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Hidehiko Kuwata
マディ・ウォーターズの生まれ故郷であるローリング・フォークの町の中心地に展示されているマディの生家。この家の近くを流れていたディア・クリークで、いつも泥だらけになって遊んでいた彼を見て、祖母のデラ・グラントは“マディ”というニックネームをつけました。

 当時、ロバートの死はメディアで報道されることはありませんでした。なので、ローマックスは彼の居場所を探して、クラークスデイルの南方約60キロに位置する「ドッカリー農場」を訪ねたのです。ここは2万5600エーカー(約104平方キロメートル)という広大な敷地の綿花プランテーション兼製材所で、19世紀末からのプランテーションの歴史が刻まれた「アメリカ最古の綿農場」です。

 オーナーのウィル・ドッケリー氏は、使用人である黒人たちにフェアな態度で接し、最盛期には2000人を超す黒人たちが働いていました。黒人たちの娯楽にも寛容だったドッカリー氏の理解もあり、農場専用のマーケットのポーチが農場で暮らすブルースマンたちのステージとして提供され、後にレコードを残すチャーリー・パットンやハウリン・ウルフをはじめ、多くのブルースマンたちがここで演奏しました。ロバート・ジョンソンもその中の1人でした。

 ローマックスは、「ドッカリーに行けばロバートの居場所がわかる」と考えたのですが、ここで知らされたのは「毒殺された」というショッキングな事実でした。そこでフィールドレコーディングの対象としてすすめられたのが、クラークスデイル郊外にある「ストーヴォル農場」で暮らしていたマッキンリー・モーガンフィールドこと、マディ・ウォーターズだったのです。

数奇な巡り合わせでマディに転がり込んだチャンス

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Gijsbert Hanekroot//Getty Images

 マディ・ウォーターズの誕生年には、諸説あります。ミュージシャンのユニオンカードとシカゴで取得した社会保障カードには、1913年と記されています。1920年の国勢調査では、1914年に。そして彼の墓跡には、1915年と記されています。生まれて間もなく母親を亡くし、マディは祖母のデラ・グラントに育てられました。

 両親の離婚、再婚に翻弄され、不安定な幼少期を過ごしたロバート・ジョンソンと異なり、貧しい生活ながらもマディは、祖母からたっぷりの愛情を注がれて育ちました。この時期が、優しく懐の深い彼の人間性の源になっています。教会に通ってゴスペルを歌う良きバプティスト教徒で、この教会での経験でブルースに通ずる歌のテクニックを身につけたと後に語っています。

 マディは3歳のときに、祖母と一緒にクラークスデイル郊外のストーヴォル農場に移り住んでいます。13歳のときにハーモニカを吹き始め、17歳で持っていた馬を売って、シカゴ・シアーズ製のステラ・ギターを手に入れました。

 その後は、ストーヴォル農場でトラクター運転手として働きながら、農場やクラークスデイル周辺のジュークジョイント(黒人が集まって飲食やダンスを楽しむ、主にアメリカ南東部の酒場)で演奏活動を続けました。当時のマディのアイドルは、サン・ハウスそしてロバート・ジョンソンでした。

▼ロバート・ジョンソンと並び、マディが夢中になっていたサン・ハウス

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Son House - Full Live Performance (November 15, 1969)
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 1941年8月31日の朝にストーヴァル農場で、「東海岸からやってきた男が、お前の家を探している」と聞かされていたマディは、落ち着かない気分で待っていました。実はウィスキーの密造酒をつくって販売していたので、「その捜査かもしれない」と気を揉んでいたのです。

 すると1台のクルマが、砂埃を立てながらマディの小屋に近づいてきました。止まったクルマから降りてきたのは、前述のアラン・ローマックスです。彼は「米国議会図書館の記録用に、君の曲のいくつかを録音させて欲しい」と伝え、事態を全く把握できていないマディをよそに、早速ポータブル録音機をセットし始めました。

 当時のマディは、ストーヴァル周辺では凄腕ブルースマンとして知られた存在であり、すでにオリジナル曲もいくつかつくっていました。このときにレコーディングされたのが、「I Be's Troubled」です。この曲は、後にローリング・ストーンズをはじめ、多くのアーティストにカバーされることになる「I Can’t Be Satisfied」の原型となる曲で、マディの代表曲のひとつとなります。

 アラン・ローマックスは翌1942年の夏にも、マディの家を訪ねて国会図書館用のレコーディングを行い、計18曲のマディの演奏とインタビューを記録しました。このフィールドレコーディングのシーンは、ビヨンセをはじめ、映画『戦場のピアニスト』でアカデミー賞を受賞した俳優のエイドリアン・ブロディらが出演した2008年公開の映画、『キャデラック・レコード』の冒頭で描かれています。

▼映画『キャデラック・レコード』のローマックスとマディの出会いのシーン

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Lomax and Muddy
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 このときに録音されたマディの演奏やインタビューは、1993年に『The Complete Plantation Recordings』としてリリースされています。2回目のフィールドレコーディングを終えたマディのもとに、20ドルの小切手と2回分のテストプレスが届きます。マディはテストプレスをジュークジョイントに持っていき、ジュークボックスにセットして聴きました。録音された自分の歌とギターをスピーカーから流れる音で聴くのは、このときが初めての経験です。そこには、27歳になったマディのエモーショナルな演奏が記録されていました。

 想像以上にパワフルな自分の声とギターに自ら驚くと同時に、マディは即座にこう考えました:

「こりゃ悪くない。十分にミュージシャンとして生きていける演奏じゃないか」

 1938年にマディが書いたとされる「I Be's Troubled」の歌詞を見る限り、もう農場での仕事には相当な不満が溜まっていた様子でした。そもそもマディは、こんな生活におさまるようなスケールの人間ではありませんでした。彼は意を決し、1943年にメンフィスを素通りしてシカゴへと向かい、シカゴ・ブルース黄金時代を築く立役者となるのです。

ブルースはクラークスデイル最大の観光資源

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Hidehiko Kuwata
クラークスデイルの中心にある「デルタ・ブルース博物館」。マディが暮らした小屋の他にも見所が多い。
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Hidehiko Kuwata
シカゴでヒットを飛ばしたマディが、成功の報酬としてレナード・チェスから与えられたキャデラック。

 「ブルース街道」と呼ばれる、ハイウェイ61号線と49号線の交差点。ブルースファンの間では伝説となるこの「クロスロード」に位置するクラークスデイルの街には、デルタ・ブルースの歴史を刻んだアイコンが多数点在しています。そのシンボルとなるのが、「デルタ・ブルース博物館」です。

 1979年にカーネギー・パブリック・ライブラリー評議会によって設立され、1999年からは博物館が独自で運営しています。この建物は1918年に建造されたヤズー&ミシシッピ・ヴァレー鉄道の貨物倉庫を改装したもので、ミシシッピ州のランドマークに指定されています。

 展示物のハイライトは、ストーヴォル農場から運び込んだマディが暮らした小屋で、世界中の音楽博物館から展示のオファーが多く寄せられています。その他にもB.B.キング、ソニー・ボーイ・ウィリアムソン、オーティス・ラッシュなど、ミシシッピ出身の代表的なブルースマンたちが愛用したギターや衣装、ゆかりの品などが展示されています。

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Hidehiko Kuwata
クラークスデイルの外れに建つ、ホプソン・プランティング社の建物。シカゴで成功したマディ・ウォーターズのバンドで長年活躍したピアニスト、パイントップ・パーキンスがここでトラクターの運転手として働いていました。現在は宿泊施設、バー&レストラン、ライブハウスとして使用されています。
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Hidehiko Kuwata
1960年に開業して現在も営業が続く最古のジュークジョイント「ポ・モンキー・ラウンジ」。周辺には民家などは一切なく、広大な綿畑の真ん中に建っている。DJがプレイする水曜日のみの営業。
【ロックの歴史を巡る旅:3】モダン・シカゴ・ブルースの父、マディ・ウォーターズ
Hidehiko Kuwata
デルタ・ブルース博物館に隣接するブルース・アレイにオープンした、クラブ「グランド・ゼロ・ブルース・クラブ」。オーナーはミシシッピ・デルタ出身のハリウッド・スター、モーガン・フリーマンで、地元の弁護士やイベンターが共同で経営しています。お目当ての食事はもちろん、ダウンホームなソウルフードです。

 マディ・ウォーターズの故郷であるクラークスデイルは、イギリスからの逆輸入で盛り上がったブルース・リバイバルのムーブメントの中で、不思議な魅力を放ちました。ジョン・リー・フッカー、アイク・ターナー、サム・クック、サン・ハウス、ジュニア・パーカーなど多くのミュージシャンを輩出した人口約2万人の小さな街ですが、デルタ・ブルース愛好家にとっては聖地ともいうべき空間なのです。

 プランテーション時代、黒人労働者たちは広大な綿畑での重労働で足並みをそろえるために、さまざまなワークソングを歌いました。キャンディ・ダンサーと呼ばれた歌のリーダーがソロで歌うと、労働者たちはコール&レスポンスでそれに応えました。こうして自然発生的に生まれたフレーズを多くのブルースマンたちが発展させ、ブルースの土台を築き上げたのです。

 クラークスデイルには、このような「リビング・ブルース」のかけらがいっぱい転がっているのです。

【ロックの歴史を巡る旅:3】モダン・シカゴ・ブルースの父、マディ・ウォーターズ
Raymond Boyd//Getty Images
2019年、シカゴのダウンタウンに展示されたマディ・ウォーターズのトリビュート壁画

※この原稿は、著者の音楽雑誌出版社勤務時代や米国で扱った数多くのインタビューに加え、これまでのイギリスでの取材活動において得た情報をもとに構成しています。

text / 桑田英彦
Profile◎編集者・ライター。音楽雑誌の編集者を経て、1983年に渡米。4年間をロサンゼルスで、2年間をニューヨークで過ごす。日系旅行会社に勤務し、さまざまな取材コーディネートや、B.B.キングをはじめとする米国ミュージシャンたちのインタビューを数多く行う。音楽関係の主な著書に「ミシシッピ・ブルース・トレイル」「U.K.ロックランドマーク」(ともにスペースシャワーブックス)、「アメリカン・ミュージック・トレイル」(シンコーミュージック)、「ハワイアン・ミュージックの歩き方」(ダイヤモンド社)などがある。帰国後は、写真集、一般雑誌、エアライン機内誌、カード会社誌、企業PR誌などの海外取材を中心に活動。アメリカ、カナダ、ニュージーランド、イタリア、ハンガリーなど、新世界のワイナリーも数多く取材。