ロックのルーツを求め、ミシシッピへ

 ロックの歴史をさかのぼっていくと、アメリカの「ディープ・サウス(Deep South)」と呼ばれる南部の州、ミシシッピ州にたどり着きます。19世紀末頃に黒人のワークソングとして自然派生的に生まれ、それが発展した「デルタ・ブルース」がロックのルーツです。

 同時代にルイジアナ州ニューオーリンズで生まれたジャズが、管楽器やピアノ、ドラムなどの楽器演奏に主軸を置いた音楽だったのに対し、ブルースはギターの弾き語りという親しみやすいスタイルで誕生しました。その音楽は、すぐにミシシッピの農園で小作人として働く黒人たちの楽しみとなり、そのうちに街角に立って歌ったり、やがて各地のジュークジョイント(黒人が集まって飲食やダンスを楽しむ酒場)を廻って演奏する“ブルースマン”が登場します。貧しいとは言え、自分の演奏で生計を立てるブルースマンも多く現れます。

【ロックの歴史を巡る旅】vol1 アメリカ・ディープサウスと恐るべきイギリスの少年たち
Hidehiko Kuwata
ミシシッピ各地にある典型的なジュークジョイント。こちらは、スキップ・ジェームスなどが出演していた店。
mamie smith
Donaldson Collection//Getty Images
音楽史上初のブルースの録音であり、歴史上初めて黒人女性としてレコーディングをしたメイミー・スミス。『クレイジー・ブルース』は、発売後1カ月たらずで8万枚以上の売り上げを記録しました。

 1920年に、メイミー・スミス(Mamie Smith)という女性シンガーの『クレイジー・ブルース(Crazy Blues)』というレコードが予想外のヒットを記録します。すると、ブルースには市場のニーズがあると気づいたレコード会社は、積極的にブルースマンをスカウトしレコーディングを行うようになります。

 1930年代に入ると、レコード会社のアンテナはアメリカ南部にまで達し、多くのブルースマンが見出されていきます。そして、数十年後にメガヒットを飛ばすことになる「未来のスーパースターたち」に、多大な影響を与える数々のレコードがリリースされました。その代表格がロバート・ジョンソン(Robert Johnson)です。彼が1936年と1937年に録音したわずか29曲の作品こそ、今日のロックの原点となったのです。


▼ロバート・ジョンソン「カインド・ハーテッド・ウーマン」

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
Robert Johnson - Kind Hearted Woman Blues (1936)
Robert Johnson - Kind Hearted Woman Blues (1936) thumnail
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 ロバート・ジョンソンの音楽に影響を受けたブルースマンの代表格が、マディ・ウォーターズ(Muddy Waters)です。彼はロバート・ジョンソンのスタイルをシカゴに持ち込み、エレクトリック・ギター(後にバンドスタイル)で演奏してシカゴ・ブルース黄金時代を築く立役者となります。 その一方で、ロバート・ジョンソンが注目されることは極めて稀で(むしろ、ほぼなく)、正当な評価を獲得するには数十年のときを待つこととなります。

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左上の正面を向いている人物が、ロバート・ジョンソン。

デルタ・ブルースに魅了された「イギリスのキッズ」たち

jagger and richards
Keystone Features//Getty Images
キース・リチャーズ(左)とミック・ジャガー(右)。まだあどけなさの残る2人ですが、その後世界の音楽シーンを大きく変えていくこととなります。

 今でこそ、その作品が高く評価されるロバート・ジョンソンですが、死後数十年間はアメリカでもほとんど無名の存在で、音楽業界でも彼の名前が話題に出ることはありませんでした。そんなロバート・ジョンソンが残した作品の素晴らしさを、後に世界に知らしめたのがエリック・クラプトンやキース・リチャーズなどのイギリスのミュージシャンたちです。

 1960年代初頭、ロンドンの南に位置する小さな町で暮らしていた若き日のクラプトンとキースは、7000キロ以上も離れたミシシッピで生まれたロバート・ジョンソンのデルタ・ブルースに夢中になっていたのです。ご存知のとおり、その後、クラプトンやキースはミュージシャンとして世界を熱狂の渦に巻き込みます。ローリング・ストーンズの「ラブ・イン・ヴェイン(Love in Vain)」、クリーム時代のエリック・クラプトンの「クロスロード(Crossroad)」など、彼らの代表曲の中にはロバート・ジョンソンの作品がいくつかあります。

 果たして当時10代半ばの白人のクラプトンやキースらが、なぜこのようなプリミティブ(原始的)な音楽に夢中になったのでしょうか? ここからは、ロバート・ジョンソンはもとより、ブルース自体が再評価をされるきっかけとなった、イギリスの小さな街での出来事を追ってみましょう。

1961年10月17日、ミックとキースはダートフォード駅で再会を果たす

ミック・ジャガー
Ivan Keeman//Getty Images
運命の再会が、後のミックの人生を大きく変えることに。
キース・リチャーズ
Mark and Colleen Hayward//Getty Images
1965年に撮影されたキース。

 イギリス・ロンドンの南東30キロに位置する、ダートフォードの街。1943年、2人の少年がこの街で生まれました。それがのちにローリング・ストーンズを結成して世界的なロックスターとなる、ミック・ジャガー(Mick Jagger)とキース・リチャーズ(Keith Richards)です。幼い頃は一緒に三輪車で遊び、同じ小学校に入学しました。ですがその後は、上層中流階級であり勉強もできたミックは名門のグラマースクールに進み、労働者階級だったキースはアートスクールへと進みます。そうしてしばらく疎遠にはなりましたが、その期間に2人が夢中になったものは同じものでした。そう、ブルースとロックンロールです。

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Courtesy
キース・リチャーズに再会したときに、ミック・ジャガーが持っていた2枚のアルバム。『ロッキン・アット・ザ・ホップ』(左)と『ベスト・オブ・マディ・ウォーターズ』(右)。
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Hidehiko Kuwata
ミックとキースが再会したダートフォード駅の2番線ホーム。2015年には、再会の場所と記されたサインプレートが駅に設置されました。

 1961年10月17日の朝、ダートフォード駅の2番線のホームでミックとキースは数年ぶりに再会を果たします。ミックはアルバム『ベスト・オブ・マディ・ウォーターズ(the best of MUDDY WATERS)』とチャック・ベリーの『ロッキン・アット・ザ・ホップ(rockin’ at the hops)』を小脇に抱え、キースはギターケースを持っていました。当時ミックは名門ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに入学していて、金融学を学んいる最中でした。将来は、政治家かジャーナリストになることを目指していたのです。

 久しぶりに会った瞬間、キースはミックが抱えていた2枚のアルバムに目が釘づけになりました。というのも、これらのアルバムは当時のイギリスでは流通しておらず、ミックはリリース元であるシカゴのチェス・レコードに直接注文して手に入れていたのだったのです。その話を聞いたキースは興奮し、2人はロンドンに向かう電車の中でロックンロールとブルースの話で大いに盛り上がりました。この運命の再会によって、現在も活動を続けているローリング・ストーンズの序章が始まるわけです。

ミック・ジャガーが少年時代を過ごしたダートフォードの家
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ミック・ジャガーが少年時代を過ごしたダートフォードの家。
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キースが少年時代を過ごしたダートフォードの家。
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ミックとキースが通った小学校、ウェントワース・プライマリー・スクール。
ザ・ミック・ジャガー・センター
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ミックが優秀な成績で卒業したダートフォード・グラマー・スクールの敷地に、2000年3月に完成した「ザ・ミック・ジャガー・センター」。

 意気投合したミックとキースは一緒に演奏するようになり、1962年、ロンドンでブライアン・ジョーンズ(Brian Jones)やイアン・スチュワート(Ian Stewart)らと知り合い、ブライアンのバンドにミックとキースが加わるカタチで演奏活動を始めます。

 この出会いを仲介したのが、「ブリティッシュ・ブルースの父」とも呼ばれるアレクシス・コーナー(Alexis Korner)で、ホームグラウンドにしていたブルース・クラブ「ザ・イーリング・クラブ」でみんなを引き合わせました。これがローリング・ストーンズとして発展し、ブラアインをリーダーとしてバンド活動がスタートします。当然ミックやキースも、このクラブのブルース・セッションの常連となり、後にこのクラブは“ローリング・ストーンズのメンバーが最初に集まった場所”として有名になりました。

the rolling stones at longleat, home of lord bath
Mirrorpix//Getty Images

 ちなみに「ローリング・ストーンズ」というバンド名は、マディ・ウォーターズの1stアルバム『ベスト・オブ・マディ・ウォーターズ』に収録されている「Rollin’ Stone」からブライアンが拝借したもの。キースはインタビュー、「ストーンズは大好きなブルースやR&Bのカバーを演奏したくて結成したのさ」と語っています。

 キャリアの初期こそカバー曲が大半を占めていましたが、1964年のミック/キースのオリジナル曲「ハート・オブ・ストーン(Heart of Stone)」がスマッシュヒットを記録。翌年リリースされた「サティスファクション(Satisfaction)」は世界的大ヒットとなり、ローリング・ストーンズは一気にスターダムを駆け上がっていきます。

rolling stones portrait
Michael Ochs Archives//Getty Images
1964年当時のローリング・ストーンズ。左から、ビル・ワイマン、キース・リチャーズ、ミック・ジャガー、チャーリー・ワッツ、ブライアン・ジョーンズ。
ザ・イーリング・クラブ
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「ザ・イーリング・クラブ」は、イーリング・ブロードウェイの駅前に佇む写真の白いビルの地下にありました。
ザ・イーリング・クラブ
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かつて「ザ・イーリング・クラブ」があったビルの壁面には、青いサインが掲げられています。

早くからブルースを聴き漁った少年、エリック・クラプトン

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Hulton Deutsch//Getty Images
ヤードバーズ時代、当時19歳のエリック・クラプトン(右から2人目)。

 ロンドンの南西80キロに位置するリプリーという田舎町に、ミックやキース同様、熱心にマディ・ウォーターズやロバート・ジョンソンなどを聴き漁(あさ)り、ギターの練習に明け暮れている少年がいました。その少年こそ、エリック・クラプトンです。諸事情で祖父母に育てられていたクラプトンは、幼い頃からブルースを好んで聴く少年でした。13歳で祖母にギターを買ってもらうと、レコードに合わせてギターを弾き、レコードと同じ音が出せるようになるまで徹底的にコピーを繰り返しました。

サリー州リプリーにあるエリック・クラプトンが少年時代を過ごした家
Hidehiko Kuwata
サリー州リプリーにある、エリック・クラプトンが少年時代を過ごした家。
リプリーの町並み
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クラプトンが幼少期に暮らしたリプリーの街並み。

 クラプトンは1945年生まれでミックやキースよりも2歳年下でありながら、夢中になって聴いていたのはブルースやロックンロールでした。若くしてブルースにのめり込んでいたクラプトン。この当時のリプリーの街には黒人がいなかったので、ファンクラブから送られてきたチャック・ベリーの写真が、クラプトンが人生で初めて目にした黒人でした。16歳にときにキングストンのアートスクールに入学しますが、すぐにドロップアウトしてしまいます。しかし、ギターの腕前は相当なレベルになっていたので、地元のパブなどで演奏するようになり、いくつかのバンドを経て1963年の秋には、クラプトンが世に出るきっかけとなるロックバンド「ヤードバーズ(The Yardbirds)」に加入します。

リッチモンドにあったクラブ「ザ・クロウダディ」のメモリアル
Hidehiko Kuwata
リッチモンドにあったクラブ、「ザ・クロウダディ」のメモリアル。1963年4月にビートルズは、当時ハウスバンドを務めていたローリング・ストーンズを観るために足を運んでいます。右の写真は、当時このクラブで歌っているミック・ジャガーの姿。

 当時、ロンドン郊外のリッチモンドにあった伝説のクラブ「ザ・クロウダディ」のハウスバンドとして人気を博していたのが、ローリング・ストーンズでした。彼らが敬愛するボ・ディドリー(Bo Diddley)と共にツアーに出ることとなり、ハウスバンドの後釜として採用されたのがヤードバーズです。

eric clapton of the yardbirds
Jeremy Fletcher//Getty Images
ヤードバーズに在籍したのは1963年から1965年までの2年間でした。クラプトンの脱退後、後釜として加入したのがジェフ・ベックでした。

 当初は、ブルースばかりを演奏していましたが、商業的な成功を目論んでポップ路線へと走るバンドの姿勢にクラプトンはやる気をなくし、あっけなくヤードバーズから脱退してしまいます。当時のクラプトンは、ブルース以外の音楽を頑なに拒否していました。そしてジョン・メイオール(John Mayall)率いる「ブルースブレイカーズ」での短期間の活動を経て、ジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカーという強者たちとロックバンド「クリーム」を結成。その後、世界的な大成功を手に入れることになります。

eric clapton
Ivan Keeman//Getty Images
1966年、「クリーム」時代のエリック・クラプトン(写真左)。写真中央がジンジャー・ベイカー、写真右がジャック・ブルース。

新たな音楽としてアメリカへ逆輸入されたブルース

 ミックやキースがそうであったように、イギリスの若いミュージシャンたちはブルースを聴き漁るようになっていました。アメリカでリリースされているブルースのレコードを探し求め、ストレートにブルースを演奏する場合もあれば、モチーフとして取り入れアレンジを施して演奏する場合もありました。

 ところが本国アメリカでは、1960年代に入るとブルースは葬られた状態になっていました。ローリング・ストーンズがアメリカにツアーに行った際、「マディ・ウォーターズの名前を知っている人がほとんどいなかった」というほど、当時のアメリカ国内でブルースは衰退していたのです。

rolling stones 1965 australian tour
The Sydney Morning Herald//Getty Images

 ロバート・ジョンソン、マディ・ウォーターズなどのブルース・ナンバーを、独自の解釈でカバーしたローリング・ストーンズやエリック・クラプトンたち。彼らの世界的な大成功がきっかけとなり、ブルースはイギリスからアメリカへと逆輸入されることとなります。つまり、その後アメリカで再燃するブルース熱は、イギリスのミュージシャンたちに火が点けられたと言っても過言ではないでしょう。

 そしてマディ・ウォーターズ、ハウリング・ウルフ(Howlin' Wolf)、ロバート・ジョンソン、B.B.キング(B.B. King)らの作品をコピーしながら、ブルースのエッセンスをたっぷりと吸収したイギリスのミュージシャンたちは、その後さらなるブリティッシュ・ロック全盛時代を築き上げることになるのです。


※この原稿は、著者の音楽雑誌出版社勤務時代や米国で扱った数多くのインタビューに加え、これまでのイギリスでの取材活動において得た情報をもとに構成しています。

text / 桑田英彦
Profile◎編集者・ライター。音楽雑誌の編集者を経て、1983年に渡米。4年間をロサンゼルスで、2年間をニューヨークで過ごす。日系旅行会社に勤務し、さまざまな取材コーディネートや、B.B.キングをはじめとする米国ミュージシャンたちのインタビューを数多く行う。音楽関係の主な著書に「ミシシッピ・ブルース・トレイル」「U.K.ロックランドマーク」(ともにスペースシャワーブックス)、「アメリカン・ミュージック・トレイル」(シンコーミュージック)、「ハワイアン・ミュージックの歩き方」(ダイヤモンド社)などがある。帰国後は、写真集、一般雑誌、エアライン機内誌、カード会社誌、企業PR誌などの海外取材を中心に活動。アメリカ、カナダ、ニュージーランド、イタリア、ハンガリーなど、新世界のワイナリーも数多く取材。