“メイコンは素晴らしい街で、素晴らしい人たちがいる。僕の心の中では特別な場所なんだ。いろいろな思い出があるけれど、僕にとって大切なのはいい思い出だけなのさ”
(グレッグ・オールマン)


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  • オールマン・ブラザース・バンド結成
  • 危機を乗り越えて全米No.1のバンドへ
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「ビッグハウス」の入り口
Hidehiko Kuwata
オールマン・ブラザーズ・バンドのメンバーたちが暮らした「ビッグハウス」の入り口。

ミュージック・シティ、メイコンの創世記

ジョージア州メイコンにあるマーサー大学。1833年設立のこの大学で経済学の学士号を取得したフィル・ウォルデン(1940-2006)は、在学中からR&Bアーティストのブッキングやマネジメントを手掛けており、その中には無名時代のオーティス・レディングもいました。

オーティスは2歳からメイコンで育ちましたが、15歳の時に家族を養うために学校を中退して、当時すでに大ヒット曲を連発していたリトル・リチャード(彼もメイコン出身)のバックバンドなどで活動するようになります。

メイコン出身の大スター、リトル・リチャーズが幼少期を過ごした家
Hidehiko Kuwata
メイコン出身の大スター、リトル・リチャーズが幼少期を過ごした家。

1962年にサザンソウルの人気レーベル、メンフィスの「Stax Records(スタックス・レコード)と契約したオーティスは、後にソウル・クラシックスとなるヒット曲を立て続けに放ち、一気にスターダムを駆け上がりました。

成功したオーティスは故郷メイコンにビルや牧場を購入し、自らの印税などを管理する会社を設立。音楽ビジネスにも投資し、フィルの有力なビジネスパートナーとなります。

1967年に開催された「モンタレー・ポップ・フェスティバル」に出演し、多くの白人ファンも獲得したオーティスでしたが、半年後、公演地に向かう飛行機が墜落して帰らぬ人となってしまいます。

オーティス・レディング・ファンデーション
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メイコン・ダウンタウンの中心にある「オーティス・レディング・ファンデーション」。さまざまなメモラビリアが展示されています。

自らがマネジャーを務め、大切なビジネスパートナーでもあったオーティス・レディングを飛行機事故で失ったフィル・ウォルデンは、オーティスに代わる新しい才能を探していました。

しかし、オーティスの穴を埋める逸材は簡単には見つからず、そこで興味を持ったのが、当時アラバマ州マッスル・ショールズのフェイム・スタジオ(ロックの歴史を巡る旅:6で紹介)でギタリストとして活動していたデュアン・オールマンでした。

このスタジオで録音されたウィルソン・ピケットや、アレサ・フランクリンなどアルバムで聴ける素晴らしいギターに心を奪われたのです。デュアン自身も新しいバンドメンバーを物色しながらデモテープを録音しており、フィルはテープとデュアンの契約を1万ドルで獲得しました。

オールマン・ブラザース・バンド結成

デビュー当時のオールマン・ブラザーズ・バンド
Michael Ochs Archives//Getty Images
デビュー当時のオールマン・ブラザーズ・バンド。

デュアンはメイコンに移り、弟のグレッグも加わってオールマン・ブラザーズ・バンド(以下ABB)が結成され、フィルが1969年に設立したカプリコーン・レコードより同年デビューします。しかしアルバムのセールスは伸びず、下積み生活が続き、メンバーたちはベーシストのベリー・オークリーの妻リンダが借りていた、メイコンの中心から車で15分ほどの距離にある一軒家で共同生活を始めます。

この家は「ザ・ビッグハウス」と呼ばれ、現在はABBが使用していた楽器や衣装など、多くのメモラビリアが展示されているABB博物館として一般公開されています。

「ビッグハウス」の外観
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「ビッグハウス」の外観と入り口左手にあるロビー。
ビッグハウス
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2階にあるデュアンが妻のドナ、娘のガラドリエルと一緒に暮らした部屋。1階には、ABBが使用した多くの楽器や衣装が展示されています。

バンドの転機は、1971年に3作目としてリリースされた2枚組のライブアルバム『アット・フィルモア・イースト』で訪れます。サザンロックの金字塔となる見事な演奏が収録され、このアルバムがゴールドディスク(全米アルバムチャート13位)に輝き、バンドの生活環境は一気に好転するのです。

しかし、予想もしていなかった悲劇がバンドを襲います。ツアーを離れ、バンドの成功を満喫するべく休暇を取ってメイコンに帰ってきていたデュアンが、成功を謳歌(おうか)することもなくオートバイでトラックに追突して他界してしまうのです。

ベーシスト、ベリー・オークリーが暮らした部屋
Hidehiko Kuwata
ベーシスト、ベリー・オークリーが暮らした部屋。

大黒柱だったデュアンを失ったABBは、翌1972年2月に4作目となる『イート・ア・ピーチ』をリリースします。これは全米アルバムチャートを4位まで駆け上がり、バンドはさらなる成功を手にするのですが、またもや悲劇がABBに襲いかかります。

この年の11月にベースのベリー・オークリーまでもが、メイコンでバイク事故を起こし亡くなってしまうのです。しかも、デュアンの事故現場からわずか3ブロックしか離れていない場所での事故でした。

危機を乗り越えて全米No.1のバンドへ

悲劇の中でバンドの人気は加速し、1972年に新しいベーシスト、ラマー・ウィリアムスが加入します。そしてABBはデュアンの後任のギタリストは補充せず、カプリコーン・レコードでセッションマンを務めていた鍵盤奏者チャック・リーベルを採用します。

彼は卓越したテクニックと音楽センスを兼ね備えたプレイヤーで、後期のABBの活動を残されたギタリスト、ディッキー・ベッツともに支えるのです。こうしてABBはキャリアの黄金時代に向かい、カプリコーン・レコードからは多くのサザンロックのバンドが世界に羽ばたいていきました。

カプリコーン・レコードのオフィス。
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メイコンに廃虚となって残っているカプリコーン・レコードのオフィス。

カプリコーン・レコードを設立したフィル・ウォルデンは、その直後から自社のレコーディング・スタジオの建設に着手しました。メイコンのダウンタウンにオーティス・レディングとともに数棟の建物を購入していたので、そのひとつに高品質なデモテープが作れるスタジオを構築しました。

しかし、スタジオ設計の知識も不足していたので、出来上がったスタジオは手作りのサウンドボードを備えた、その場しのぎのコントロールルームとライブルームにすぎませんでした。

そうしてABBの成功により、カプリコーン・スタジオは再設計によるリニューアルが行われることになります。スタジオの壁は防音タイルから、上半分が布で覆われ下半分が石と木で作られた壁に変更され、フィルはたっぷりと予算を投入して当時最新鋭のスタジオ機材を導入します。

カプリコーン・スタジオ
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地元マーサー大学の貢献でよみがえったオリジナルのカプリコーン・スタジオ。

この洗練されたスタジオ環境でABBのみならず、カプリコーン、そしてサザンロックの代表作となる『ブラザーズ・アンド・シスターズ』の録音がスタートします。デュアン亡き後はディッキー・ベッツがバンドを主導するようになり、デュアン時代の重厚なブルースロックのサウンドはディッキーの背景にあるカントリー色によって、軽やかなサウンドに変化していきました。

ディッキーのメロディアスなギターソロと共に大きくフィーチャーされたのが、チャックのピアノソロです。2人のプレイがさえ渡る「ランブリンマン」「ジェシカ」の2曲はアルバムを代表する曲となり、サザンロックの盛り上がりに大きく貢献しました。

カプリコーン・スタジオ
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カプリコーン・スタジオのビルの壁面に描かれたフィル・ウォルデン、デュアン・オールマン、グレッグ・オールマンの肖像。

アルバムは大ヒットとなり、ABBは米国を代表するするバンドとなりました。が、成功とともにメンバー間の確執が次第に大きくなり、バンドは分裂し1976年にあっけなく解散してしまいます。

ABBの成功でメイコンにサザンロックの帝国を築いたカプリコーン・レコードでしたが、フィルが以後のミュージック・トレンドの選択を誤り、会社も1979年に倒産します。カプリコーン・スタジオは閉鎖。荒廃したまま長い年月に亘って放置され、その後倒壊危険建物に指定されます。そこに手を差し伸べたのが、地元のマーサー大学です。

大学が中心となり企業などのスポンサー集めのプロジェクトが立ち上がり、2015年に大規模リニューアルがスタート。そして、オリジナルのスタジオを忠実に再現した「伝説のカプリコーン・スタジオ」が2019年にリニューアル・オープンとなり、現在は一般公開されています。

サザンロック・ファンのもう一つの聖地

ローズヒル・セメタリーのエントランス
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ローズヒル・セメタリーのエントランス。
墓地内を走るノーフォーク・サザン鉄道
Hidehiko Kuwata
墓地内を走るノーフォーク・サザン鉄道。

メイコンのダウンタウンの北に位置する「ローズヒル・セメタリー」には、デュアン・オールマン、ベリー・オークリー、グレッグ・オールマン、ブッチ・トラックスの4人のオリジナル・メンバーが埋葬されています。同じ墓地の区画に4人の墓石が設置され、訪れるファンの侵入を防ぐために周辺は金属製のフェンスで囲まれています。

この広大なローズヒル・セメタリーは、ABBのメンバーたちがビッグハウスで暮らしていた下積み時代にたまり場にしていた場所なのです。

ローズヒル・セメタリーの一角に眠るabbのメンバーたち。
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ローズヒル・セメタリーの一角に眠るABBのメンバーたち。 これはデュアン・オールマン デュアン・オールマンの墓石。
ベリー・オークリーの墓石
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ローズヒル・セメタリーの一角に眠るABBのメンバーたち。 これはベリー・オークリー の墓石。
グレッグ・オールマンの墓石
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ローズヒル・セメタリーの一角に眠るABBのメンバーたち。これは、グレッグ・オールマンの墓石。
ブッチ・トラックスの墓石
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ローズヒル・セメタリーの一角に眠るABBのメンバーたち。これはブッチ・トラックスの墓石。

墓地の脇を走るノーフォーク・サザン鉄道の線路で撮影されたプロモ写真は有名で、デビュー作の裏ジャケットもここで撮影されました。メンバーたちはこの墓地でいくつかの創作のインスピレーションを得ており、ABBの人気曲「エリザベスリードの追憶」「リトルマーサ」は墓地にある墓標に刻まれた名前から拝借したタイトルなのです。

地元はもとより、他州、外国からも多くのファンが訪れる場所で、「グレッグが埋葬されてからは訪れるファンが大幅に増えた」と言います。デュアン亡き後のABBを引っ張り、その後はバンドの再結成に貢献。そして脱退後は、長くソロ活動を続けていたディッキー・ベッツですが、残念なことに2024年4月18日に慢性閉塞(へいそく)性肺疾患とガンの併発により、フロリダ州サラソタの自宅で他界しました。


text / 桑田英彦
Profile◎編集者・ライター。音楽雑誌の編集者を経て、1983年に渡米。4年間をロサンゼルスで、2年間をニューヨークで過ごす。日系旅行会社に勤務し、さまざまな取材コーディネートや、B.B.キングをはじめとする米国ミュージシャンたちのインタビューを数多く行う。音楽関係の主な著書に「ミシシッピ・ブルース・トレイル」「U.K.ロックランドマーク」(ともにスペースシャワーブックス)、「アメリカン・ミュージック・トレイル」(シンコーミュージック)、「ハワイアン・ミュージックの歩き方」(ダイヤモンド社)などがある。帰国後は、写真集、一般雑誌、エアライン機内誌、カード会社誌、企業PR誌などの海外取材を中心に活動。アメリカ、カナダ、ニュージーランド、イタリア、ハンガリーなど、新世界のワイナリーも数多く取材。