「ザ・クオリーメン」と名乗っていたバンドは、「ジョニー&ザ・ムーンドッグス」、「シルバー・ビートルズ」など幾つかのバンド名を経て、「ザ・ビートルズ」に落ち着きました。そしてドラマーにピート・ベストを加え、厳しかったドイツ・ハンブルグでの興行をこなし、ビートルズの大成功に大いに手腕を発揮したマネージャー、ブライアン・エプスタインに出会います。
▼ビートルズ ― Live at The Cavern 1962
彼の尽力により、後にビートルズを20世紀最大のバンドに育て上げる敏腕プロデューサー、ジョージ・マーティンのオーディションを受けることになり、ビートルズは見事にチャンスを手に入れます。しかし、ジョージ・マーティンがピートのドラム演奏を気に入らなかったため、ピートはデビュー直前で解雇されます。そして、この栄光のポジションを手に入れるのがリチャード・スターキーこと、リンゴ・スターだったのです。
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リンゴ・スターの加入とデビュー
1940年7月生まれのリンゴは幼い頃から病弱で、長期入院などを強いられたため、ほとんど学校の授業に出席することもなく、学力で仲間から大きく遅れをとっていました。両親は5歳の頃に離婚。母親の手ひとつで育てられていました。13歳のときには結核にかかり、その後2年間を療養所で過ごします。この療養期間に医療スタッフに促されて打楽器に興味を持ったことが、ドラマーへの出発点となったようです。
療養所から退院したものの、学校は退学となり、その後しばらくリンゴは職を転々とします。母親の再婚相手の紹介で機械工の仕事を得ましたが長続きしません。リンゴは昼間の仕事とは別に、夜はダンス・パーティなどでドラムを叩くようになり、さまざまなバンドで演奏して腕を磨いていきました。1959年にリンゴが参加した「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」というバンドは、リバプールを代表するバンドとなり、ビートルズと同様にハンブルグ興行に出かけます。このときのギャラは当時のビートルズよりも上でした。
▼ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ(withリンゴ・スター)― Somethin' Else
彼らはハンブルグの「カイザーケラー」というクラブで、ビートルズと交互に出演し、毎晩5回のステージをこなしました。このハンブルグ滞在中にはジョン、ポール、ジョージと共に録音する機会もあり、こういった当時の交流がピート・ベストの後任として、リンゴ・スターがビートルズに加入するきっかけとなりました。
伝説のキャバーン・クラブ
ハンブルグ興行からリバプールに帰ってきたビートルズは、1961年2月9日に初めて「キャバーン・クラブ」で演奏しました。クオリーメン時代にも出演していましたが、人気はケタ違いで、この頃にはリバプールにおけるビートルズの人気は絶大でした。リンゴ・スターがビートルズのドラマーとして初めてここのステージに立つのは翌62年8月19日で、初のアメリカツアーに出かける半年前のことでした。彼らは1963年8月23日の最後の出演まで、292回のライブをキャバーンで行っています。
この間、ビートルズはローティーンのファンに向けて、キャバーン・クラブのランチタイムのライブも精力的にこなし、リバプールでの人気を不動のものにしていきました。有名な「ビートルマニア」という造語が生まれたのもこの時代で、金切り声をあげて騒ぐ少女たちが大挙してキャバーン・クラブに押しかけました。
▼ポール・マッカートニー ― Live at the Cavern Club
1961年11月9日、スーツ姿の男がキャバーン・クラブにやってきました。当時、NEMSというレコード店を経営していたブライアン・エプスタインです。店への問い合わせが急増していた、『マイ・ボニー』という曲を演奏しているバンドを確認するために訪れたのです。キャバーンでのステージを観たエプスタインはビートルズに強く惹かれ、未経験にもかかわらずマネージャー役を申し出ます。このとき、メジャーレーベルとの契約成立を条件にしたブライアン。見事2カ月後に、当時の4大メジャーレーベルの1つであるEMIのプロデューサーだったジョージ・マーティンのオーディションを決めたのでした。
ブライアンがマネージャーに就くと、メンバーたちの革ジャンはおそろいのスーツへと変わり、ステージマナーを徹底させ、プロ意識をメンバーたちに植えつけていきました。そして、ビートルズのステージギャラを設定し、金にならない仕事は断るようになりました。ですが、ビートルズのホームグラウンドだったキャバーンでの仕事だけは断ることはありませんでした。
こうしてブライアン・エプスタイン、ジョージ・マーティンという仕事のできる大人のバックアップを得て、ビートルズはリバプールから広大な世界へと飛び立っていきます。
ビートルズの栄光と崩壊
敏腕プロデューサーのジョージ・マーティンは、1962年のオーディションを兼ねた「ラブ・ミー・ドゥ」の録音を手がけて以来、約7年間にわたってビートルズを支え、200曲を超える彼らの楽曲をロンドンの「アビイ・ロード・スタジオ」で録音しました。
このスタジオは外観からは想像できないほどに地下が広く、そこに3つのスタジオがあり、ビートルズがメインで使っていたのは、クラシック音楽の録音に使用されていた第2スタジオです。天井が高く、細い仕切りのないスタジオで、このスペースが生み出す独特な響きがお気に入りでした。当時はたった2チャンネルしかない録音機材を駆使して、マーティンは見事なビートルズ・サウンドをつくり出していきます。
デビュー以降、ヒット曲が続き、メンバーたちはこのスタジオを自由に使えるようになると、納得がいくまで何度も録り直し、素晴らしいメロディラインと斬新なアイデアを具現化して音楽史に残る名作を次々に発表していきました。音楽的にもセールス的にも、ビートルズはまさに音楽界の頂点に君臨したのです。
▼ザ・ビートルズ ― Hey Jude Recording Sessions 1968 at Abbey Road Studios
1966年8月29日のサンフランシスコ・キャンドルスティック・パークでのコンサートを最後に、一切のライブ活動を中止したビートルズは完全なレコーディング・アーティストとしての活動に専念します。楽曲にはライブでの再現不可能な複雑かつ斬新なアレンジが施され、そういったスタジオワークの中で生まれたのが1967年の大傑作「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」です。
さらなる高みに到達したビートルズでしたが、予想もしていなかった出来事に見舞われます。このアルバムがイギリスで発売された直後に、彼らの著作権管理などビジネス面のすべてを担っていたマネージャーのブライアン・エプスタインが急死したのです。
ブライアン・エプスタインはビートルズのビジネス全般を管理していただけでなく、メンバーの信頼を維持しながら、若い彼らのエゴやわがままをうまくコントロールしていました。それゆえブライアンの死後、ビートルズに関するさまざまなビジネスが混乱し、またメンバー間の対立が表面化していくことになります。
大金を生み出すビートルズの周りには、彼らを仕切ろうと目論む人間も多かったので、ビートルズは自分たちでマネージメントを行うために資本金200万ドルを投じて「アップル・コア」という会社を立ち上げます。当初は映画や出版、エレクトロニクスなど多くの部門を擁していましたが、結局はうまくいかず、事業縮小を余儀なくされ「アップル・レコード」というレーベルが主体になりました。そして、1968年11月に10作目となるアルバム『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』がアップル・レコードからリリースされました。
ビートルズの崩壊をなんとか避けようとしたポールの提案による「ゲット・バック・セッション」は、1969年1月2日にスタートします。“バンドとして原点に戻る(=ゲット・バック)”を掲げ、録音現場にドキュメンタリー映画を制作するためのカメラを入れて臨みましたが、メンバー間の対立、特にポールとジョージの対立が激化し、ジョージはセッションを放棄します。その後の話し合いで1月21日より、サヴィル・ロウのアップル本社の地下スタジオに移ってセッションは再開されます。
▼「ザ・ビートルズ :Get Back」(予告編)
ライブ演奏を収録する場所については最後まで決まらなかったのですが、すでにこのプロジェクトに興味を失っていたメンバーが合意した場所が、アップル本社の屋上だったのです。そして1月30日の午後、屋上にセットされた簡易ステージにビートルズが立ち、「ゲット・バック」で演奏がスタートします。
約45分間続いた演奏は通報で駆けつけた警官によって制止され、「これでオーディションに合格するといいんだけど」という、ジョンらしいシニカルなジョークで、ビートルズ最後のライブ(ルーフトップ・コンサート)が終了します。これら一連の模様を収録したのが、映画『レット・イット・ビー』です。
暗礁に乗り上げた「ゲット・バック・セッション」に手を焼いたポールは、ジョージ・マーティンにもう一度プロデュースを依頼します。そしてバンド解散の危機を感じながらも、1969年7月1日からアルバム「アビイ・ロード」の録音が正式にスタートしました。メンバー各自に”最後のアルバム”という意識があったおかげで、楽曲、アレンジ、演奏すべてにおいて素晴らしい作品が録音されました。
そして録音を終えたジョン、ポール、ジョージ、リンゴの4人は、8月20日にアビイ・ロードの第2スタジオに集まって全員でミックスダウン(出来上がった楽曲のバランスを調整する作業)に立ち会い、アルバムの曲順の最終決定を行いました。この日が、ビートルズの歴史をつくってきた「アビイ・ロード・スタジオ」に4人がそろった最後の日となったのです。
※この原稿は、著者の音楽雑誌出版社勤務時代や米国で扱った数多くのインタビューに加え、これまでのイギリスでの取材活動において得た情報をもとに構成しています。
text / 桑田英彦
Profile◎編集者・ライター。音楽雑誌の編集者を経て、1983年に渡米。4年間をロサンゼルスで、2年間をニューヨークで過ごす。日系旅行会社に勤務し、さまざまな取材コーディネートや、B.B.キングをはじめとする米国ミュージシャンたちのインタビューを数多く行う。音楽関係の主な著書に「ミシシッピ・ブルース・トレイル」「U.K.ロックランドマーク」(ともにスペースシャワーブックス)、「アメリカン・ミュージック・トレイル」(シンコーミュージック)、「ハワイアン・ミュージックの歩き方」(ダイヤモンド社)などがある。帰国後は、写真集、一般雑誌、エアライン機内誌、カード会社誌、企業PR誌などの海外取材を中心に活動。アメリカ、カナダ、ニュージーランド、イタリア、ハンガリーなど、新世界のワイナリーも数多く取材。