2013年に公開された映画『MUSCLE SHOALS(マッスル・ショールズ)』は、洋楽全盛時代に青春を過ごした音楽ファンには最高のプレゼントでした。このドキュメンタリー映画の主役であるリック・ホールは、サン・レコードでエルビス・プレスリーを世に送り出して成功を収めたサム・フィリップスのビジネスモデルにヒントを得て、1960年に「フェイム・スタジオ」を設立します。
その後、このスタジオのハウスバンドだったスワンパーズがリックから独立して、1969年に「マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ」が誕生します。あのローリング・ストーンズをはじめ、そうそうたるミュージシャンがレコーディングに訪れ、片田舎にあるこの2つの小さなレコーディングスタジオは数多くの名曲を生み出し、まるで魔法のようにヒット曲を連発したのです。
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フェイム・スタジオの奇跡
アラバマ州マッスル・ショールズ。ミシシッピ州とテネシー州に隣接し、ヘレン・ケラーの故郷でもあるこの小さな町で、なぜこれほど多くの名曲やヒット曲が生まれたのでしょうか? そのきっかけは、リック・ホールという完璧主義者でワーカホリックの男が設立した小さな録音スタジオにありました。
リックの意識の中には、テネシー川を挟んだ対岸にあるテネシー州フローレンス出身のサム・フィリップスのビジネスモデルがありました。サムは、テネシー州メンフィスで「サン・レコード」を立ち上げ、エルビス・プレスリーらを輩出。ロックンロールやロカビリーの黎明期をつくり出しました。
リックは1960年に「フェイム・スタジオ」を設立すると、手始めに隣町のシェフィールドのホテルでベルボーイを務めていたアーサー・アレキサンダーを起用し、「You Better Move On」を録音します。この曲がスマッシュヒットとなり、リックはプロデューサーとして幸先のいいスタートを切るのでした。さらに1964年、この曲をローリング・ストーンズがカバーしてイギリスでヒットを記録。このヒットがきっかけで、ローリング・ストーンズとマッスル・ショールズのつながりが生まれるというわけです。
▼ローリング・ストーンズ 「You Better Move On」
アトランティック・レコードとの蜜月
その後、リック・ホールとフェイム・スタジオの名前は、パーシー・スレッジの「男が女を愛する時(When a Man Loves a Woman)」がきっかけとなり、当時の音楽シーンに響き渡ることになります。リックは電話越しにこの曲を当時のアトランティック・レコードの重役だったジェリー・ウェクスラーに聴かせ、ジェリーは即座に発売を決めたのです。この曲は見事に全米1位の大ヒットとなり、ジェリーはリックの能力を高く評価しました。
▼パーシー・スレッジ「When a Man Loves a Woman」
ジェリーは、アトランティック・レコードの新進気鋭のアーティストをリックに託します。まずは初の大ヒットを飛ばし、スターダムを邁進中のウィルソン・ピケットをマッスル・ショールズに送り込みました。
畑に囲まれた田舎のスタジオに連れていかれ、白人ミュージシャンと録音することに当初ウィルソンは憤慨しました。ところが、初日の「ダンス天国(Land of 1000 Dances)」のセッションで彼の気分は一変します。ファンキーなビートを生み出すリズム・セクションを大いに気に入り、「ムスタング・サリー(Mustang Sally)」など数曲を録音し、これらの曲も発売されると大ヒットとなりました。
▼ウィルソン・ピケット 「The Exciting」
リックは1969年の2回目のウィルソンのセッションに、当時はまだ無名だったデュアン・オールマン(オールマン・ブラザース・バンド)を起用しました。そのときにデュアンの提案で収録されたのが、「ヘイ・ジュード(Hey, Jude)」です。リックもウィルソンも、「なに? ビートルズの曲だと?」と猛反対しました。が、セッションは素晴らしいグルーブを生み出し、デュアンのギタープレイも冴え渡りました。
このプレイによって、ギタリストとしてのデュアンの名前を知らしめるきっかけにもなり、ボズ・スキャッグスの「ローン・ミー・ア・ダイム(Loan Me a Dime)」、そしてエリック・クラプトンの大傑作「いとしのレイラ(Layla)」におけるデュアンの名演へとつながっていきます。
▼ウィルソン・ピケット 「Hey Jude (w/ Duane Allman)」
後に「スワンパーズ」と呼ばれることになるフェイム・スタジオのリズム・セクションは、ジェリーの大のお気に入りとなり、彼はアトランティック・レコードと契約したばかりの女性ソウルシンガーのアレサ・フランクリンをフェイム・スタジオに連れてきました。そして完成した「貴方だけを愛して(I Never Loved a Man (The Way I Love You))」はミリオンセラーとなり、アレサのファンキーな歌唱スタイルを確立。同時に、スワンパーズの魅力と能力を大いにアピールすることになったのです。
▼アレサ・フランクリン 「I Never Loved a Man (The Way I Love You)」
しかし、同行していたアレサの夫テッドとリックの間で争いが起きてセッションは中断され、アレサは夫と共にニューヨークへ帰ってしまいます。それに激怒したジェリー(アトランティック・レコードの重役)はスワンパーズだけをニューヨークに呼び寄せ、中断していたアレサのアルバムを仕上げるのでした。そして、この揉めごとがきっかけとなり、リックとアトランティック・レコードの蜜月は幕を閉じることとなります。
▼エタ・ジェームス 「Tell Mama」
しかし、そんなトラブルでへこたれるようなリックではありません。すぐにあちこちのレーベルにコンタクトを取ります。そして、シカゴのレーナード・チェスが率いる「チェス・レコード」の依頼で録音したエタ・ジェームスの「Tell Mama」など、多くの素晴らしい作品をスワンパーズと共に世に送り出し続けるのです。
まさか…スワンパーズの離脱
ところが…予想だにしていなかった所から、横槍が飛んできます。1969年、スワンパーズの4人はアトランティック・レコードのジェリー・ウェクスラーからの資金援助などを受けて「マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ(以後MSS)」を設立し、リックの元から独立してしまいます。この出来事はリックにとって、「人生で最大の危機」だったようです。
スワンパーズの4人がスタートさせた「MSS」ですが、なかなか軌道に乗りませんでした。しかし、1969年の12月にローリング・ストーンズがMSSにやってくると事態は一変します。「Brown Sugar」「Wild Horses」「You Gotta Move」という、後に彼らの代表曲となる3曲を録音したのです。このときの様子は、ローリング・ストーンズの映画『ギミー・シェルター』に登場し、MSSの名前はトップアーティストの間に一気に広がっていきました。そして1970年代に入ると、次々とヒット曲を世に送り出すことになります。
▼ローリング・ストーンズ@MSS 「Wild Horses」
"レコーディングの都"を謳歌する、マッスル・ショールズ
スワンパーズを、ジェリーに引き抜かれたリック。当初はショックを引きずっていましたが、ナッシュビルなどで活躍するミュージシャンたちをスカウトして、フェイム・ギャングという優れたリズム・セクションを編成します。そしてキング・カーティス、オズモンズ、アラバマ、トム・ジョーンズなど、数多くのトップ・アーティストを手掛け、作品的にも売上的にもフェイム・スタジオは黄金時代を迎え、リックはマッスル・ショールズ・エリアの名士となるのでした。
一方のMSSのスワンパーズの元には、レナード・スキナード、ポール・サイモン、ロッド・スチュワート、トラフィック、レオン・ラッセル、カルロス・サンタナ、エルトン・ジョン、リンダ・ロンシュタット、ボブ・シーガーなど、1970年代のヒットチャートを賑わせた名だたるロックスターたちが絶え間なく訪れ、数多くのヒット曲だけではなく、自身の代表作となる作品を録音しました。フェイム・スタジオ、MSSともにフル稼働した1970年代は、マッスル・ショールズ・サウンドの黄金時代となり、まさに「ヒットレコードを生み出す都」としての名声を謳歌(おうか)したのです。
▼ポール・サイモン「Kodachrome」
▼ロッド・スチュワート「Tonight's the Night (Gonna Be Alright)」
マッスル・ショールズのサウンド・マジックは約20年間続き、ヒット曲を量産しただけでなく、この地でレコーディングしたR&Bやロックのスーパースターたちの代表作となる作品を生み出していきました。リックとスワンパーズのジミー・ジョンソン(G)、バリー・ベケット(P)、デヴィッド・フッド(B)、ロジャー・ホーキンス(D)の4人がつくり上げたサウンドは一時代を築き、現在でも世界中で多くの人々が愛聴しています。
リックは2018年に他界しましたが、フェイム・スタジオは現在も稼働しており、世界中からマッスル・ショールズ・サウンドのファンが見学に訪れます。MSSは1979年に、「3614ジャクソン・ハイウェイ」のスタジオを閉鎖。別の場所にアップデートしたスタジオを設立しました。オリジナルのMSSの建物は長年廃墟のようになっていましたが、2006年に米国歴史遺産に登録され、リニューアル後は録音スタジオ兼ミュージアムとして一般公開されています。そしてバリー・ベケットは2006年に、スワンパーズのジミー・ジョンソンは2019年に他界しました。
※この原稿は、著者の音楽雑誌出版社勤務時代や米国で扱った数多くのインタビューに加え、これまでのイギリスでの取材活動において得た情報をもとに構成しています。
text / 桑田英彦
Profile◎編集者・ライター。音楽雑誌の編集者を経て、1983年に渡米。4年間をロサンゼルスで、2年間をニューヨークで過ごす。日系旅行会社に勤務し、さまざまな取材コーディネートや、B.B.キングをはじめとする米国ミュージシャンたちのインタビューを数多く行う。音楽関係の主な著書に「ミシシッピ・ブルース・トレイル」「U.K.ロックランドマーク」(ともにスペースシャワーブックス)、「アメリカン・ミュージック・トレイル」(シンコーミュージック)、「ハワイアン・ミュージックの歩き方」(ダイヤモンド社)などがある。帰国後は、写真集、一般雑誌、エアライン機内誌、カード会社誌、企業PR誌などの海外取材を中心に活動。アメリカ、カナダ、ニュージーランド、イタリア、ハンガリーなど、新世界のワイナリーも数多く取材。