ジョン・レノンが結成した「クオリーメン(The Quarry Men=Quarryは「採石場」の意味があり、石=ロックということから命名)」にポール・マッカートニーが参加し、ロックンロールのお気に入りのナンバーをバンドのレパートリーに加えながら、2人は未熟ながらも曲づくりに精を出します。
ポールがバンドに加入したその翌年には、ポールの紹介でジョージ・ハリスンも参加。「クオリーメン」はジョンの学校仲間を中心に結成されましたが、メンバーの入れ替わりが激しく、結局最後に残ったのがジョン、ポール、ジョージの3人でした。リンゴ・スターが参加するのはまだ数年先のことですが、確実に「ビートルズ」誕生に向けて加速していきます。
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ジョージ・ハリスン登場
ジョンとポールは、放課後や週末にはお互いの家を行き来し、ギターやピアノを弾きながら曲のアイデアを話し合っていました。その頃ポールには、気になっているギタリストがいました。それがジョージ・ハリスンです。自分と同じリバプール・インスティチュートの一学年下の学生で、何度か演奏を聴いて気に入っていたのです。ジョンにその話をすると、一度ジョージを呼んでオーディションを行うことになりました。
リバプールの東側に位置するアーノルド・グローブ12番地の長屋で暮らすハリスン一家は、決して裕福ではありませんでした。が、ジョージは家族愛に包まれた少年時代を過ごしていました。勉強もできたので、ポールと同じリバプール・インスティチュートに進学したのですが、校風にはなじめなかったようです。学生服の着用を無視していつも派手な服を身にまとい、年中ガムを噛みながら歩いたそうです。
当時、流行していたスキッフル(Skiffle=1920年代、アメリカのジャグバンドを由来にする音楽であり、手づくりの楽器や即席の楽器を使った演奏スタイルのことで、アフリカ系アメリカ人が北部に持ち込んだと言われています)に夢中になっていたジョージは母親にギターを買ってもらうと、勉強はそっちのけでギターの練習に明け暮れるようになります。通学バスの路線が同じだったことから、常にギターを抱えてバスに乗り込んでくるジョージに興味を持ち始めるポール。ある日彼は、ジョージに声を掛けます。「ひょっとして、バンドに加わる気はあるかい?」と…。そうして1958年2月、ポールの紹介でジョンに会い、2人の前で見事なギターの腕前を披露したジョージをジョンは即座に「クオリーメン」に迎え入れたのです。
カスバ・コーヒー・クラブとピート・ベスト
ジョージ・ハリスンが加入した年の8月、「クオリーメン」は5人のメンバーでお金を出し合ってリバプールの貸しスタジオでレコーディングを行い、78回転のレコードを自主制作しました。A面にはバディ・ホリーの大ヒット曲「That’ll Be The Day」が、B面にはポールが書いた「In Spite Of All The Danger」が収録されました。
不思議なことにこの曲のクレジットは、「George Harrison / Paul McCartney」となっていて、ポールはのちに「ジョージがリードギターのパートを考えたから」と説明しています。この曲は1995年にリリースされたアルバム、『The Beatles Anthology 1』に収録されています。
▼ザ・クオリーメン「In Spite of All The Danger」
1959年6月に「クオリーメン」は、テレビのオーディション番組に出演し入賞を果たします。この頃からジョン、ポール、ジョージの3人は、プロのミュージシャンを目指すようになります。その後、ベースにジョンの友人だったスチュワート・サトクリフが加入し、バンド名も「シルバー・ビートルズ」に変更します。が、ドラマーがなかなか決まりませんでした…。
数人のドラマーが入れ替わった後の1960年8月、カスバ・コーヒー・クラブのオーナーの息子ピート・ベストが加入し、バンド名はついに「ザ・ビートルズ」となります。この間に彼らがホームグラウンドとしていたのが、「カスバ・コーヒー・クラブ」です。
「カスバ・コーヒー・クラブ」はドラマーとして加入するピート・ベストの母親モナが、競馬で大穴を当て、それを元手に開業したクラブです。広い敷地には庭と母屋があり、地下を改造して大小の部屋をつくり、それぞれに名前をつけてステージにしました。内部のペンキ塗りはジョンやポールも手伝い、彼らが演奏していたレインボー・ステージの天井には、ポールが手がけた虹色のペイントが残されています。その他にもジョンがナイフで刻んだ文字、ジョンの最初の妻シンシアが描いたイラストなどがあります。
「クオリーメン」の頃は、毎週土曜日の夜にレギュラーで出演していました。彼らはたった1本のマイクと店にある貧弱なPAシステムだけを頼りに演奏し、メンバーそれぞれが15シリングのギャラを受け取りました。
このクラブでの仕事は、ジョン、ポール、ジョージの3人にとってプロのミュージシャンとして大きなステップアップとなりました。ですが、7回ほど出演した後にオーナーのモナとギャラをめぐってトラブルに…。そして彼らは、クラブのレギュラー出演を降りてしまいました。モナとの関係が修復されるのは、「ビートルズ」がハンブルグで公演をすることになって、モナの息子ピート・ベストがドラマーとして「ビートルズ」に加入してからのことになります。
ピート・ベストは“5人目のビートルズ”と呼ばれている人物で、デビュー前の「ビートルズ」の下積み時代では最もハードな経験となったドイツ・ハンブルグでの仕事のために、ドラマーとして「ビートルズ」に加入した人物です。彼らはハンブルグの中でも悪名高い「世界で一番罪深い1マイル」と呼ばれる歓楽街レイバーバーンで、荒っぽい酔っ払い客を前にして毎夜5~6時間にも及ぶ演奏を続けたのです。この時期に「ビートルズ」が演奏していたクラブのいくつかは、現在でも残っているようです。この過酷なライブ演奏が、未熟だった彼らを最強のライブバンドへと鍛え上げたと言っていいでしょう。
▼トニー・シェリダン&ザ・ビートルズ「My Bonnie」
1961年にハンブルグの「スター・クラブ」に出演していた「ビートルズ」は、トニー・シェリダンという歌手に出会い、一緒に「トップテン・クラブ」で演奏をするのですが、これが独ポリドールのプロデューサーの目に留まり、ハンブルグで録音する機会を得ます。その中の1曲がスコットランド民謡の「マイ・ボニー」で、これは翌年イギリスでも「トニー・シェリダン&ザ・ビートルズ」名義で発売されています。
後に「ビートルズ」のマネージャーとして活躍するブライアン・エプスタインは、当時レコード店を経営していました。すると店に「マイ・ボニー」のレコードを求める客が急増し、これがきっかけとなってブライアンは「ビートルズ」に興味を持つようになったということです。
▼ザ・ビートルズ「Love me do」(Remaster 2009)
そして足掛け2年。3度の厳しいハンブルグ公演を経て、敏腕プロデューサーであるジョージ・マーティンのオーディションを受けるチャンスを得て、彼の指揮下でポールが「クオリーメン」の時代に書いていた『ラブ・ミー・ドゥ』を録音しました。
結果はご周知のとおり、「レコードデビュー決定」。ですが、プロデューサーのマーティンはピートのドラム演奏を気に入りませんでした。そして、デビューシングルとしての録音の1カ月前というタイミングで、ピートは解雇されてしまいます。
「ラブ・ミー・ドゥ」は新加入のリンゴ・スターのドラムで録音され、そして大ヒットを記録します。「ビートルズ」の栄光の歴史はここからスタートし、翌年には記念すべきファーストアルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』がリリースされます。一方、ベストのその後の人生は、大きく狂ってしまいました。カスバ・コーヒー・クラブは「ビートルズ」がデビューした1962年に閉店となり、解雇後のベストはソロ・ミュージシャンとしてアルバムをリリースしましたが、結局1967年にプロミュージシャンとしてのキャリアに終止符を打つこととなります。
【次回に続きます…】
※この原稿は、著者の音楽雑誌出版社勤務時代や米国で扱った数多くのインタビューに加え、これまでのイギリスでの取材活動において得た情報をもとに構成しています。
text / 桑田英彦
Profile◎編集者・ライター。音楽雑誌の編集者を経て、1983年に渡米。4年間をロサンゼルスで、2年間をニューヨークで過ごす。日系旅行会社に勤務し、さまざまな取材コーディネートや、B.B.キングをはじめとする米国ミュージシャンたちのインタビューを数多く行う。音楽関係の主な著書に「ミシシッピ・ブルース・トレイル」「U.K.ロックランドマーク」(ともにスペースシャワーブックス)、「アメリカン・ミュージック・トレイル」(シンコーミュージック)、「ハワイアン・ミュージックの歩き方」(ダイヤモンド社)などがある。帰国後は、写真集、一般雑誌、エアライン機内誌、カード会社誌、企業PR誌などの海外取材を中心に活動。アメリカ、カナダ、ニュージーランド、イタリア、ハンガリーなど、新世界のワイナリーも数多く取材。