ビートルズの大成功で、俺も曲を書く必要があるって痛感したんだ(ミック・ジャガー)

エルヴィス・プレスリーやチャック・ベリーらによって火のついたアメリカのロックンロール旋風は、彼らに続いたエディ・コクラン、ジーン・ビンセントたちによってファン層を拡大し、イギリスの若者たちにも熱狂的に受け入れられました。こういったロックンロールに大いに刺激されたのが、あのジョン・レノンです。

少年時代のジョン・レノンは、1957年3月に「クオリーメン」というバンドを結成します。そして同年の7月に、ポール・マッカートニーが加入。そのときジョンが17歳、ポールは15歳のときでした。このリバプールのウールトンにあるセント・ピーターズ教会のバザー会場での出会いが、20世紀を代表するロックバンド「ビートルズ」の誕生につながっていくのです。

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Above us only sky|空だけがある

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Hidehiko Kuwata
リバプール・ジョン・レノン空港の外観と、天井に記された「イマジン」の歌詞。
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リバプールの玄関口、リバプール・ジョン・レノン空港。
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空港の外には、「イエロー・サブマリン」のオブジェも設置されています。

現在、リバプールで最も巨大なビートルズ・モニュメントと言えば、この街を訪れる旅行者のゲートウェイ(玄関)であるリバプール・ジョン・レノン空港です。コンセプトは「Above Us Only Sky(空だけがある)」。これはジョンの代表曲である「イマジン」の歌詞の一節です。空港ターミナル内には天井から壁面、看板からポスターまで、あらゆる場所にこの歌詞が記されています。

かつては「スピーク空港」と呼ばれていたこの空港に、ジョン・レノンの名前が冠されたのは2002年のことで、そのとき妻であるオノ・ヨーコも出席してセレモニーが催されました。そしてヨーコ自身の手によって、空港1階のチェックイン・ホールに設置された高さ7フィート(約2m)のジョンのブロンズ像の除幕式も行われました。そのブロンズ像のポーズを見ると、まるでジョンが空港を見渡しているかのような雰囲気です。

 
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ジョン・レノン空港のチェックイン・ホールに設置されたジョンのブロンズ像。
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ジョンの有名なイラストと「Above Us Only Sky」が記された看板。

ビートルズの故郷であるイギリス北西部の都市リバプールは、古くから貿易港として発展しました。最盛期には80万人近い人口を抱え、工業・交易都市として繁栄したものの第二次世界大戦時にドイツの爆撃にさらされ、終戦後街は著しく衰退していったのです。

そうして街の大規模な再建計画がスタートします。それは1970年代に入ってからのこと。市政は観光都市を目指す再開発に重点を置き、リバプールに多く残るビートルズゆかりの場所にフォーカスしたプロジェクトへと取り組みを開始するのでした。するとこの目論見は、見事に的中。リバプールを訪れる観光客の数は、再開発前の8倍という記録的な伸びをみせたのです。

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映画『ロード・オブ・ザ・リング』で有名なピーター・ジャクソン監督が編集した、6時間にも及ぶビートルズ・ドキュメンタリー『ザ・ビートルズ:Get Back』が公開される中、ビートルズの話題は今後も途切れることはないでしょう。

それでは、リバプールのビートルズゆかりの場所に出発しましょう。

ジョンとポール、2人の出会い

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ジョンとポールが初めて出会った、リバプールのウールトン地区にあるセント・ピーターズ教会。
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セント・ピーターズ教会のホール内に飾られているプラークには、1957年7月6日に2人は初めて会ったと記されています。
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セント・ピーターズ教会のホールで行われたクオリーメンのライブで2人は顔を合わせました。

「クオリーメン」を結成して音楽活動を続けていたジョンは、教会に隣接するホールで1957年7月6日の午後に演奏し、そのあと、友人にポールを紹介されました。そしてポールはギターを手にすると素早くチューニングをしたのち、エディ・コクランの「トゥエンティ・フライト・ロック」とジーン・ビンセントの「ビー・バップ・ルラ」などのヒット曲を正確な歌詞と正しいコードで見事に演奏しました。

 
Michael Ochs Archives//Getty Images
クオリーメン時代、1959年撮影のジョン。

当時、ジョンは歌詞をまともに覚えることなく適当に歌っていたので、ポールの正確な演奏は衝撃でした。音楽の知識も演奏の技術も、明らかにポールのほうが上だったのです。バンドリーダーにこだわっていたジョンは、ここで迷います。「コイツをバンドに入れたいが、そうすると俺の立場が危ない…」とジョンはその夜悩みましたが、結局、ポールをバンドに入れることを決めます。もちろん、ポールも快諾します。

ここから彼らは、20世紀最高の作曲家チームに向かって発進するのです。

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通称「メンディップス」。251 Menlove Ave.にあるジョンが育った、ミミ伯母さんの家。彼は5歳から22歳までこの家で暮らしました。現在この家は、オノ・ヨーコが買い取り、ナショナルトラストが管理しています。

若き日のジョンとポールはギターを抱えてお互いの家を行き来するようになり、たくさんの曲をつくり始めます。あるときはベッドルームで、あるときは家の裏庭で…。ポールと知り合うまで1曲も自作曲を完成させたことのなかったジョンにとって、ポールの作曲方法は大きなヒントとなり、大いな刺激になったのです。

当時のジョンは、5歳のときから母親代わりとなっているミミおばさんの家で暮らしていました。ジョンの父親フレディは、船のキッチンで給仕として働いていたので不在が多く、ジョンが1歳半のときに失踪しています。母親のジュリアも男付き合いが激しく家に居つかず、ジョンを姉であるメアリー(ミミ伯母さん)に預けて、他の男と同棲生活を始めてしまう有様。

ジュリアの生活態度に業を煮やしたミミおばさんは、強引にジョンを自分の元に引き取ってひとりっ子として育てました。ミミ伯母さんのもとで平穏な日々を過ごしていたジョンですが、父親が突然訪ねてきたり、ジュリアが気まぐれな愛情で接してきたりで、不安定な心で少年時代を過ごしました。この時代の体験は、ジョンにとって大きなトラウマとなり、彼の作品や生き方に大きな影響を与えました。

ポールとペニーレイン

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Hidehiko Kuwata
20 Forthlin Road.にあるポール・マッカートニーが育った家。ジョンの育った家と共に、ビートルズゆかりの場所のハイライトとなります。

マッカートニー家がこの家に引っ越してきたのは1955年。ジョンと出会う2年前です。煉瓦造りの2階建の平凡なテラスハウスで、ポールのベッドルームは玄関の白いドアの上の部屋でした。ここは、ジョンとたくさんの曲をつくった部屋です。母親は引っ越してきた翌年に乳ガンで帰らぬ人となり、以後、弟のマイケルと共に父親が1人で育てました。

名門グラマースクールである「リバプール・インスティテュート」に在籍していたポールは、柔軟で明晰な頭脳とある種の天才的なずる賢さを持ち合わせていました。成績はいつも中の上、悪さをしでかしても絶対に見つからない、そんな要領の良さには定評(?)があり、どんなときでも周囲とうまく折り合いをつけていたようです。

 
Keystone-France//Getty Images
リバプールの自宅前で撮影されたポール。1950年撮影。

ポールの青春時代の思い出を歌った名曲が、「ペニーレイン」です。

このポップで軽快な歌の舞台は、少年時代のポールが暮らした静かな住宅街の日常の中にある何気ない風景。現在も実在している街角の床屋や銀行、消防署や車の行き交うラウンドアバウトなどを登場させ、このどこにでもある普通の町の風景をノスタルジックな世界に変身させています。

▼ザ・ビートルズ「Penny Lane」

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
The Beatles - Penny Lane
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ポールは「“ペニーレイン”という響きが気に入って、この曲を書いた」と話していますが、素晴らしい出来栄えで世界的な大ヒットとなりました。おかげで“ペニーレイン”の名前を記した標識は盗難が相次ぎ、このときは標識を撤去して、通りの壁にペンキで“PENNY LANE”と書いて表示していたほどでした。2007年以降、再び看板が設置されるようになったのですが、またもや盗難が相次ぎ、現在の看板はかなり頑丈で外しづらい新しい構造になっています。

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オリジナルのペニーレインのサイン。
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「ペニーレイン」の曲中に登場する床屋「Tony Slavin」のショーウィンドウ。

当時、ポールとジョンはペニーレインとアラートン・ロードの交差点にあるバス停で、よく待ち合わせをしていました。この周辺がペニーレイン周辺の賑わいの中心で、バスターミナルもありました。ここがリバプールの中心からの伸びるバス路線の終点になっており、2人はいつもこのバスを利用して出かけていたのです。

ジョンとストロベリー・フィールズ

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「ストロベリー・フィールズ」はジョンが暮らしていたミミ伯母さんの近くにあり、当時は救世軍が所有していた孤児院が建っていた敷地で、リバプールのスラム街で保護された子どもたちが生活していました。

両親の離婚、母の事故死、父親の失踪など、少年時代のジョンの心に大きな傷跡を残した出来事のかたわらには、いつもストロベリー・フィールズがあったのです。当時のジョンの口癖は、「ミミには言わないで」でした。不甲斐ない両親の元からジョンを引き取ったミミ伯母さんのしつけは厳しく、ジョンは叱られると孤児院の裏庭からストロベリー・フィールズに忍び込み、この庭で空想に耽(ふけ)っていました。

門の正面には、ヴィクトリア様式の古色蒼然とした孤児院の施設が建っており、ジョン少年にとってはまさにマジカルな光景が広がっていたのです。この空間の記憶が、サイケデリックの先駆けとなった名曲「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」の歌詞の原点となったというわけです。

▼ザ・ビートルズ「Strawberry Fields Forever」

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
The Beatles - Strawberry Fields Forever
The Beatles - Strawberry Fields Forever thumnail
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後にオノ・ヨーコとの静かな生活に固執したのも、息子ショーンが生まれると仕事を忘れ、付きっきりで世話をしたのも、公私ともに年上の女性との交際が多かったのも、多くはジョンの幼少時代に背負ったトラウマからきたものでしょう。この曲は少年時代の負の体験を含めて、いつも自分を慰めてくれた“悩みなんてない場所”だった、ストロベリー・フィールズへの賛歌なのです。

「ペニーレイン」と「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」は1967年2月に両A面シングルとして発売され、同年の放送されたビートルズのテレビ映画「マジカル・ミステリー・ツアー」のサウンドトラック盤に収録されました。

【次回に続きます…】

※この原稿は、著者の音楽雑誌出版社勤務時代や米国で扱った数多くのインタビューに加え、これまでのイギリスでの取材活動において得た情報をもとに構成しています。

text / 桑田英彦
Profile◎編集者・ライター。音楽雑誌の編集者を経て、1983年に渡米。4年間をロサンゼルスで、2年間をニューヨークで過ごす。日系旅行会社に勤務し、さまざまな取材コーディネートや、B.B.キングをはじめとする米国ミュージシャンたちのインタビューを数多く行う。音楽関係の主な著書に「ミシシッピ・ブルース・トレイル」「U.K.ロックランドマーク」(ともにスペースシャワーブックス)、「アメリカン・ミュージック・トレイル」(シンコーミュージック)、「ハワイアン・ミュージックの歩き方」(ダイヤモンド社)などがある。帰国後は、写真集、一般雑誌、エアライン機内誌、カード会社誌、企業PR誌などの海外取材を中心に活動。アメリカ、カナダ、ニュージーランド、イタリア、ハンガリーなど、新世界のワイナリーも数多く取材。