「ナンシー・ケリガン襲撃事件」に関わった、あの人たちは今?
Then and Now: Everyone Involved in the Tonya Harding and Nancy Kerrigan Scandal
現在(2018年)、平昌で熱戦が繰り広げられているオリンピック。正々堂々と戦う勇姿は時に感動を呼ぶが、もしそこに不正があったなら、それは完全なる裏切り行為……。しかし1994年、恐ろしい事件が起きました。
スポーツ界最大のスキャンダルのひとつと言われる「ナンシー・ケリガン襲撃事件」…。当時アメリカのフィギュアスケート界を牽引していたトーニャ・ハーディングが企てた、オリンピック代表選考会を兼ねた全米女子選手権の練習中に宿敵ナンシー・ケリガンを襲撃した事件です。
日本でも今夏に公開されるマーゴット・ロビー主演映画『アイ、トーニャ』はまさにこの世界中を震撼させた事件を元にしており、ゴールデン・グローブ賞ではコメディ/ミュージカル部門の作品賞にノミネートされるほど注目を集めているのです。
>>>【 写真集「THEN&NOW」 】事件から24年の時を経て、再び世間の関心を集める大事件に関わった人々の当時と今を追跡しました。
From GoodHousekeeping
Photography / Getty Images
Translation / Ai Ono
トーニャ・ハーディング
【THEN】
1990年代前半、ハーディングはアメリカのプロフィギュアスケーターとして最も活躍する1人でした。1991年、ハーディングは全米選手権でトリプルアクセルに成功。女子選手としては史上2人目、アメリカ人では初の快挙だったのです(史上初めて成功したのは、日本の伊藤みどり)。
ケリガンが練習中に襲われて怪我をしたオリンピック選考会を兼ねた全米選手権で優勝を果たしたハーディング。ですが、事件に関与して逮捕された元夫ジェフ・ギルーリーから、ケリガン襲撃を事前に知っていたことを告発されます。しかし無実を主張し、なんとかリレハンメルオリンピックに出場したものの、結局は得意のトリプルアクセルに失敗し、その直後に突然泣き出して演技を中断するなどで8位入賞に終わったのです。
ケリガンが襲撃されて以降、事件への関与を強く否定し続けたハーディングでしたが、1994年3月に検察当局に罪を認めました。
事件から半年後の1994年7月、「ワシントン・ポスト」は全米フィギュアスケート協会が94年の全米選手権でのハーディングの優勝を剥奪し、彼女を協会から追放することを決めたと報じています。ウィリアム・ハイブル委員長は、「証拠の優位性によって、5人の陪審員たちはハーディングがケリガン襲撃の計画を事前に知っていて、事件に関与していたと結論づけました」とコメントしています。
【NOW】
1993年にジェフ・ギルーリーと離婚したハーディングは、1995年にマイケル・スミスという男性と2度目の結婚をするが、わずか3ヶ月で破局。
現在47歳のハーディングは3番目の夫ジョセフ・プライスとワシントン州で暮らしています。現在の夫との出会いについては、2012年の『インサイド・エディション』にて、2010年にカラオケバーで出会ったと明かしています。また、『オレゴン・ライブ』によれば、夫妻には現在6歳になる息子ゴードンがいるといいます。ハーディングは息子の存在について、「世界で最も素晴らしいこと」と語っているのです。
ナンシー・ケリガン
【THEN】
1994年、当時のナンシー・ケリガンはフィギュアスケート選手として絶頂期で、キャンベルのスープやレブロンなど、多くの企業の顔に選ばれるなど、「フィギュアスケートの恋人」と称えられた。しかし1月6日(現地時間)、全米選手権に向けてデトロイトに滞在していたケリガンは練習後に襲われてしまいます。
捜査によって、ハーディングの元夫ジェフ・ギルーリーがケリガンのオリンピック出場を妨害するために計画していたことが判明。怪我により全米選手権は棄権したケリガンでしたが、驚異的な回復を遂げ、1994年のリレハンメルオリンピックに出場。見事に銀メダルを獲得しています。なお、この時の衣装を手がけたのはヴェラ・ウォンだったそうです。
【NOW】
2017年4月、48歳になったケリガンは『ABCニュース』のインタビューで「私たち(ケリガンとハーディング)は事件から4年後にイベントで一緒になったけど、お互いに話すことはなく、とてもやりづらくて微妙な感じだったわ」と告白。ハーディングから直接の謝罪は受けていないことを明かしました。
現在のケリガンは結婚22年目の夫ジェリーと3人の子供と一緒に暮らしています。1996年に第一子のマシューを出産しましたが、その後8年間で6度の流産を経験。不妊治療に取り組み、2005年に次男ブライアン、2008年に長女ニコールを出産しています。
2017年、ケリガンはテレビ番組『ダンシング・ウィズ・ザ・スター』に出演し、再びスポットライトの下にカムバック。そして摂食障害に苦しむスポーツ選手を取り上げたドキュメンタリー番組『Why Don't You Lose 5 Pounds?』では製作総指揮も務めました。彼女自身、選手として体型を保つことのプレッシャーを感じていたといい、テーマに共感できたといっています。「昔は自分のために食べることが難しくなってしまっていたの」。
ジェフ・ギルーリー
【THEN】
ハーディングの元夫ジェフ・ギルーリーは、1990年から1993年までハーディングと結婚していました。彼はハーディングのマネージャーを務めることもありましたが、ハーディングは彼から暴力を受けていると訴え、2度も離婚の申請をしています。
1994年の『ニューヨーク・デイリー・ニュース』によれば、事件後に逮捕されたギルーリーは共謀の疑いで起訴されましたが、罪状を下げるように反論。その後、禁固刑の判決を受け、8年間服役。彼はハーディングが事前に計画を知っていたことを繰り返し主張しました。
【NOW】
現在、名前をジェフ・ストーンに変更。印象的だった髭を剃り、中古車のセールスマンとして勤務。2013年に『デッドスピン』の取材に応え、現在は妻のクリスティと2人の子供ハーリー、ノアと一緒にオレゴン州クラカマスに住んでいることを明かしています。
クリスティは後妻のようで、2人の子供の実の母親は薬物依存に苦しみ、2005年に自殺してしまったと言います。
ラヴォナ・フェイ・ゴールデン
【THEN】
1994年の『シカゴ・トリビューン』によれば、ハーディングの母ゴールデンは夜にウェイトレスの仕事をして彼女のレッスン代を稼ぎ、コスチュームは手作りしていたのだといいます。娘の練習にも頻繁に付き添っていましたが、スパルタで知られた母親はハーディングに暴力を振るうこともあったようです。
オレゴン州ビーバートンのバレー・アイス・アリーナのオーナーであるジョン・マクブライドは『シカゴ・トリビューン』に対し、ハーディングが高くジャンプできなかったり、綺麗なパフォーマンスができなかったときは母親が彼女を殴ることがあったと証言しています。
ハーディングのいとこであるデビー・アディソンも、ハーディングは勝つために母親から圧力をかけられていたと明かしています。「ハーディングは彼女の母親から『最初に上手くいかないなら何をやっても上手くいかない』と、ずっと言われ続けていた」と…。
しかしゴールデンはCBSの『Eye to Eye With Connie Chung』でそれらの発言を全面否定。「私は自分のことを虐待的な母親だとは思っていないし、娘が酷い子供時代を過ごしたとも思わない。何人かの人々は、娘が悪いことをした時にその子のお尻を叩く権利が親にあることを理解していないようね。私は時にはお尻を叩くことも必要だと思うわ。でも、それは膝をつかせて何度も何度も叩くことは違う。私はそんなことはしていないわ」と反論しています。
【NOW】
良好な親子関係を築けなかったゴールデンとハーディングは現在も疎遠なまま。2009年、ハーディングはオプラ・ウィンフリーに対し、母から身体的虐待を受けていたことを告白。オプラがかつてゴールデンが“1度”叩くことはあったと認めていたことに言及し、ハーディングと話しています。
現在ワシントン州に暮らすゴールデンは2017年11月に『インサイド・エディション』の取材に対し、娘との現在の関係を説明。「彼女は私を嫌っている。私は彼女のために何もできなかったの。私は大会で1度彼女のお尻を叩いたことがある。私は家族の一員になりたいけど、彼女はそれを望んでいないから、娘を煩わせることはしないわ」と。ハーディングとゴールデンは2002年から現在まで、15年以上も口をきいていないと言います。
ダイアン・ローリンソン
【THEN】
1994年の『シカゴ・トリビューン』の記事によれば、ダイアン・ローリンソンはハーディングのコーチだった人物。アイスショーのソリスト、またオレゴンの著名な弁護士の妻としても知られる存在だったようです。
ハーディングとは2度関係を破綻させていたようですが、1994年のオリンピックまではコーチを務めていたといいます。ケリガンが襲われた際、ローリンソンはハーディングが関与していることを『ワシントン・ポスト』に否定していました。「トーニャは無実よ。彼女は全米選手権で勝った。彼女は(オリンピックの)代表になるために努力してきたし、彼女には出場する価値があるわ」と。
【NOW】
ハーディングのコーチを務めて以来、ローリンソンは目立った活動をしていません。
2013年の『オレゴン・ライブ』によれば、ローリンソンは夫のデニス・ローリンソンと共に「ケルナー・ロンバウアー・アワード」を受賞。同賞は献身性、熱意、イベントへの参加、慈善団体に恩恵をもたらしたことでクラシック・ワイン・オークションの成功に大きく貢献した個人を表彰しています。
ショーン・エッカート
【THEN】
エッカートはハーディングの元ボディガード。1994年、ジャーナリストのダイアン・ソイヤーの報道によれば、エッカートは10代の頃に(共謀者の一人である)デリック・スミスと一緒に働き、世界中でスパイ活動をしていたと主張していたようです。
ケリガン襲撃後、エッカートはこの陰謀について事前に知っていたハーディングを非難。ソイヤーに対し、「彼女は事件が実行されることを知っていたんだ。ハーディングは『まだ実行していないの?』と責めてきたのだから。彼女は事件に時間がかかっていたことに怒っていたんだ」と明かしています。
エッカートは実行のためにスミスとコンタクトを取り、計画通りケリガン襲撃を遂行。その後逮捕され、恐喝の罪で18ヶ月間服役することになったが、予定よりも4ヶ月早く出所しました。
【NOW】
「ニューヨーク・タイムズ」紙に記載された死亡記事によれば、事件後、エッカートはブライアン・ショーン・グリフィスという名前に改名しています。
彼は2007年に40歳の若さで亡くなっているとのこと。オレゴンのビーバートンで暮らし、2001年、彼はコンピューター関連の仕事をしていたようでしたが、2005年に辞めています。また、2001年にも軽犯罪で起訴され、3年間の保護観察を受けているのです。
シェーン・スタント
【THEN】
スタントはケリガンを襲うために雇われたヒットマン。1994年1月6日、スタントはケリガンが練習しているリンクに忍び込み、警棒で彼女を殴打しています。
「E!」の『True Hollywood Story』によれば、叔父のデリック・スミスからお金のためにスケーターを襲えるかと聞かれたのだといいます。この陰謀により、スタントは14ヶ月間刑務所に服役。
1995年の『スポークスマン-レビュー』の記事では、犯罪に関与したことを謝罪しています。「自分がしたことを本当申し訳なく思っている。ずっとナンシー・ケリガンに謝罪したいと思っていた。判決を受ける前に謝罪すべきだったか、それが誠実なことだとは思わなかった。そして、彼女はこのことを忘れたいと思うが、この謝罪が彼女を煩わせることにはならないだろうと願っている」と。
【NOW】
2013年の『ブリーチャー・レポート』の取材にて、スタントは「僕にとって大きな変化は、キリスト教徒になったことです。決まり文句のように聞こえるかもしれません。しかし本当に僕を変えてくれたんだ」と語っています。
「刑務所の中で『どんな男になりたいんだ。家族や子供たちに何を残してやりたいんだ』と考える機会を得たのさ」と…。
オクサナ・バイウル
【THEN】
ウクライナ出身のプロのフィギュアスケーターで、1994年のリレハンメルオリンピックではケリガン、ハーディングと対戦。銀メダルを首から提げたケリガンの横で金メダルを受け取ったのが弱冠16歳だったバイウル。このときの表彰式で嬉し涙を流していたところ、ケリガンから「何メソメソ泣いてるのよ!」などと嫌味や意地悪な態度を取られたことで、思わぬかたちで注目を集めました。ケリガンはこの失言などが露呈し、悲劇のヒロインから一転、悪役のイメージがついてしまったのです。
【NOW】
ツイッターによれば、現在のバイウルはフィギュアスケーター、慈善事業者、プロデューサーとして活躍し、また母親であるとのこと。昨年11月に40歳の誕生日を迎えた際には夫、娘との微笑ましい3ショットを投稿しています。