『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の誕生秘話
多くの人々に愛され続けているタイムスリップSF映画の巨星、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズはいまもなお色褪せることはありません。ただ、時間の迷路に迷い込んで、頭が痛くなることは玉に瑕(きず)なところではありますが…。今回、そんな名作に改めて迫ってみました。
三枚目なキャラクターのマーティーとお茶目な博士ドクが未来や過去にタイムスリップし、自身、家族、恋人の人生を正しく導きため、空飛ぶ「デロリアン」に乗って旅に出かける物語になります。
本シリーズ2作目の『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART II』では、公開30周年となる2015年にタイムスリップしていました。
ロバート・ゼメキス監督を知っている方は多いかと思われますが…。
天才脚本家ボブ・ゲイル氏の顔を知っている日本人は、きっと少ないことでしょう。写真がボブ・ゲイル氏です。現在は67歳なので、こちらの写真はちょっと以前のものになるかと思います。
今回、Esquire編集部のエディターは、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズを手がけたロバート・ゼミキス監督と脚本家のボブ・ゲイル氏が語る製作秘話やストーリー展開について注目しました。
しかし実際、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズが予言とも言える、いくつかのストーリーの中に出てきたガジェットは現実になっているものもあります。それはホバーボードであり、シューレースが自動的に結ばれる「Nike Mag」です。
ホバーボードに関しては2015年に、レクサスによって超電導ホバーボード「Lexus Hoverboard」が発表されています。「Nike Mag」に関しては、2017年に「ナイキ ハイパーアダプト 1.0」として発売しています。
その一方で、まだまだ無理というものも…。それは家の天井で張り付いているおかしなロボットを筆頭としたロボットたちに活躍…。遠隔新聞記事取材ロボも犬の散歩ロボットもまだまだのようです。ぎっくり腰補助具に関しては、もう少しかもしれません。またそれ以前に、タイムマシン自体の完成は可能であるかもわからない状況でもありますが…。また、シカゴ・カブスがメジャー・リーグを制するという話も、このタイムマシンと同等の確立かもしれませんね。
ティム・バートン監督製作の『エド・ウッド』の中で、主役のエドが彼のアイドルである故オーソン・ウェルズ氏にバーで出会い、伝説的な監督でさえも映画製作に苦労をしていることを知るという素晴らしい場面がありました。
この出会いは、現実の世界では起きえないことですが、このシーンは実に重要なポイントをついています。それは、「例えどんな作品であろうと、映画をつくることは非常に困難を要する」ということになります。
名作『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の場合も、たくさんの障害があったはずです、いやあったのです。それはひどく困惑させる、今となって思い返せば“プレッシャー”のように考えられるほど困難なものでした。
映画化に非常に意欲的だったスティーブン・スピルバーグ氏を始め、多くの人々が脚本を読んだ時点で、ヒット映画になると信じていました。
それではなぜ、ハリウッドでこれほどまで確信されていた作品が、最終的にユニバーサルが製作を開始するまでに40回以上も拒否してきたのでしょうか?
またロバート・ゼメキス監督と、脚本家および製作も担当するボブ・ゲイル氏は、なぜスピルバーグ氏に対する支援に関して、当初抵抗してきたのでしょうか? さらに、最初に主役を演じたエリック・ストルツ氏が降板してから、なぜ製作を中断せずに済んだのでしょうか? これらの興味深い質問の答えが、2015年に30周年のアニバーサリーを記念して明らかにされていましたので、ここで再確認しておきましょう。
二人が感じた時間の無駄とは?
映画そのもののように、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に息が吹き込まれるまでの舞台裏には、時間のロスを取り戻し、悪運を好運に変えた非常に多くの素晴らしい努力が存在しました。
そして面白いことに、ロバート・ゼメキス監督が製作した映画の多くは、時間がテーマになっていることが多いことに気づくことでしょう…(『フォレスト・ガンプ/一期一会』や『キャスト・アウェイ』など)。
しかしながら、ゼメキス監督とゲイル氏が最初に仕事をしたときは、タイミングはこのうえなく良かったのです。
彼らは1971年ごろに、南カリフォルニア大学の映画学部で知り合っており、これは奇しくも伝説の“USC Mafia”の時代であり、未来のフィルムメーカーであるジョージ・ルーカス氏やジョン・ミリアス氏(『地獄の黙示録』の脚本家)、ランダル・クレイザー氏(『グリース』)、ジョン・カーペンター氏(『ハロウィン』)などの錚々たるメンバーが映画の仕事をし始めた時代だったのです。
シカゴ南部出身のゼメキス監督と、セントルイス出身のゲイル氏。最初からそこには、クリエイティブな意味での宿命があったのです。当時、映画学科の学生だった2人のボブ(RobertのニックネームがBobになる)は、フランス・ニューシネマに傾倒しながらも、実際には『大脱走』などのハリウッドのエンターテイメント大作や大衆娯楽映画を観て成長していたわけです。
大学4年生のとき、ゼメキス監督とゲイル氏は共同執筆をスタートしました。そのころゼメキス監督は、短編映画『フィールド・オブ・オナー』でスチューデント・アカデミー賞を受賞し、多くの注目を集めていました。
在学中に撮影した本作は、社会によって狂わされた精神病患者が病院を脱出し、発砲騒ぎを起こす顛末を描いたダークコメディー作品でした。この作品に感銘を受けた仲間の新進フィルムメーカーの中には、スティーブン・スピルバーグ氏がいました。それは『ジョーズ』で、世界の巨匠の仲間入りをはたす数年前のことだったのです。
そして2人のボブは、『事件記者コルチャック』や『女刑事クリスティ』のような、あまり人気のないTV番組の脚本書きで業界入りし、その後、ユニバーサルがテレビ脚本執筆の7年間契約を結んだことによって、2人は年間5万ドルの収入を得られるようになったのです。
「それは、私たちの想像を超える本当の大金でした」と、ゲイル氏は『エスクァイアUS』にコメントしています。
「私たちは、毎日マクドナルドを食べてしのいでいました。そしてあるとき、『テレビの脚本なんて、本当は書きたくないよね』と、お互いを見ながら言っていたのです。それは、私たちはTVライターの知り合いも多く、そんな彼らは本当に燃え尽きていることを知っていたからなのです。私たちが知っているあるTVライターは、何かにつけて皮肉で辛辣でした。彼は私たちに言いました。『この仕事をしている唯一の理由は、自分の力で生活できるようにするためなんだ』と…。それでも私たちは、本当に良い映画をつくりたいから、そのTVライターの仕事をしていたのです」とゲイル氏。
ゲイル氏は、「有難いことに、私もボブも当時はさほど重要な責任に負われた日々は過ごしていませんでした。互いに結婚していませんでしたし、家のローンもなかった…。そして、危険で高額な薬物にも手を染めていなかったのです。ですので、その時点で、仕事を断るのは比較的簡単なことでもあったわけです」と語っています。
こうして彼らは、すぐに転機を迎えることになりました。
スピルバーグはゼメキス監督の良き相談相手となり、ユニバーサルスタジオでの彼の監督デビュー作品『抱きしめたい』の製作総指揮を務めてくれたのです。
ゼメキス監督とゲイル氏は、壮大なスケールで描いた第二次世界大戦コメディー『1941』の脚本も手がけています。
この『1941』は『未知との遭遇』に続き、スピルバーグが監督をしようと決心した作品でした。
2人のボブが、自分たちがつくりたい作品をつくっていた最中、『抱きしめたい』はそのリリース前から大反響を集めていました。
そして、「上手くいかないわけがないだろう?」と思っていたようでもありました。ですが、実際ふたを開ければ…したが、1978年にリリースされた『抱きしめたい』は結果は残せず。その翌年上映された『1941』は、スピルバーグ氏にとって恥ずかしくなるような結果に終わってしまったのでした。
ですがその後、彼のキャリアは『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』でカムバックをはたしたわけです。
ゼメキス監督とゲイル氏は、1980年まで『1941』の余り物で食いつなぎ、『ユーズド・カー』をリリースする準備を整えていました。
この破天荒なコメディ作品は、再びスピルバーグ氏が製作総指揮を務め、コロンビア映画の歴史で2番目に大きな反響を再びリリース前に集めたのです。ですが、残念ながら歴史は繰り返され、劇場に足を運んだものは期待ほどいなかったのです。
「これは本当に、悲惨な出来事でしたよ」と、ゲイル氏は語っています。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のアイデアが生まれたのは、この悲惨な時代での出来事でした。
1980年8月にゲイル氏はセントルイスへ戻り、『ユーズド・カー』の宣伝ツアーとして家族のもとを訪れていました。
「『ユーズド・カー』は7月の中旬にアメリカの半分の地域で、その後8月の中旬に、残りの半分で上映されるという変わったリリース日が設定されていたのです」と、ゲイル氏は回想しています。
そこでゲイルは父親の高校時代の卒業アルバムをめくっていると、自分の父親が卒業生代表を務めていたことに気づきました。
「私は、自分の父親が自分と同級生だったら…と想像をめぐらしました。そして思ったのです。もし自分の父親が同じ高校にいたら、はたして友達になったであろうか…と。なぜなら自分は、何かの代表をやるような政治家タイプでは決してなかったからです」。
その後ゼメキス監督とゲイル氏は、この『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のもととなるアイデアを繰り返し話し合い、1980年9月にコロンビア映画でプレゼンテーションを行いました。そして2人のボブは、コロンビア映画に大歓迎されることになるわけです。なぜなら、スタジオのチーフであるフランク・プライスは『ユーズド・カー』の大ファンであったようで、彼らの次なる作品ができないか期待していたからだったのです。
2人がプライスに『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のストーリーを話し始めると、彼は即座に理解しました。
「ゼメキスがたくさんのシーンについて、もっと話を続けたがっていたことを覚えています。私は絶えず彼を肘で小突いて、“黙れよ、彼はイエスと言ってくれるさ。余計な話をしないようにしようぜ”という感じにね」とゲイル氏。
ウォルト・ディズニー・スタジオでは、映画が近親相姦に関するものだという理由で、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を却下されていました。
しかし、2人のボブがすべてを紙にまとめたとき、コロンビア映画の反応はまだまだ生ぬるく、スタジオは作品を修正しようとしたそうです。スタジオ側はストーリーが甘ったるく、上品すぎる(ディズニー映画にはマストだが)と考え、「映画『ポーキーズ』のようなR指定のコメディーが大ヒットした時代には、ソグワナイ作品では⁉」と思っていたようです。
こうしてゼメキス監督とゲイル氏は結局、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』をウォルト・ディズニー・スタジオに持ち込んだのでした。
そこで最高幹部たちが彼らに告げた言葉とは…「君たちは正気かい? ここでこんな映画つくれるわけないだろ。ここをどこだと思ってるんだ、ディズニーだよ。君たちは近親相姦の映画を売り込みにきたのか! 子どもが実の母親とクルマの中で…なんて、おぞましいんだろう!」というわけです。
確かに、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の脚本を書くうえで最も壮大な挑戦の一つは、マーティーと母親の近親相姦の可能性について、わき筋を考えることでもありました。
ゼメキス監督とゲイル氏は、自分自身を窮地に追い込んでいくのがはっきりと分かったのです。「できる限りやってみようと考えました」と、ゲイル氏は語っています。
「観客を窮地に追い込んでも、私たちは一線を越えませんでした。私たちは気づいたのです。“こんなの正しくない!”と言うのは、マーティーの母親本人であるべきだと…。彼女自身がハタと気づき、“なんだか変だわ。弟にキスしているような感じ”という場面がそれです。そして彼女が、比較に挙げた弟と彼女が何をしようとしたかは、誰も気にしないのではないか?と…。そして私たちは言いました。 “大丈夫です。観客はマーティーと母親のことを信じるでしょう。なぜなら彼らは、それが起きて欲しくないと望んでいるからです」と…。
ゼメキス監督とゲイル氏は、また別の言い訳も聞くことになりました。
それは脚本を見せに回ったときのこと、「タイムトラベルの話…これまでタイムトラベルの映画が大ヒットしたことがあるか⁉ ないだろぉ!! 興行成績だったいい試しはないのだから!」と。
スピルバーグのタッチとは!?
しかし新進フィルムメーカーにとって、スピルバーグという存在は大きな切り札として残っていたのは事実です。スピルバーグ氏も最初からこの脚本を気に入っていたわけですが、ゼメキス監督はスピルバーグ氏にこう告白していたのです。
「ちょっと待ってください。この映画をあなたつくりたいのはヤマヤマなんですが、同時にこれが大失敗することが怖いのです。スティーブからサインがもらえれば仕事ももらえる、って僕らがあなたを盾にしたと思われたくもないのです。そうしたら、あなたなしでは、誰も私たちに仕事をくれなくなるでしょう」と。
ゼメキス監督は、自分で映画がつくれることを証明しなければならなかったのです。そうして、『ロマンシング・ストーン 秘宝の谷』をついに自分の手で撮影し、その映画は1984年初頭に成功を収めたのでした。マイケル・ダグラス氏が『ユーズド・カー』のファンで、アメリカ監督組合の雑誌のなかでゼメキス監督に触れ、「彼のスタイルが好きなんです。私の映画には彼のエネルギーが必要なのです」と、力強く主張したのでした。
『ロマンシング・ストーン 秘宝の谷』の成功のあと、ゼメキス監督はとにもかくにもスピルバーグ氏のもとに訪れたのでした。なぜなら、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を最初から信じてくれていたのは、彼だけだったからなのです。
ディズニーの話が物語るように、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が多くの人々から却下されていたころ、『E.T.』の大成功によりスピルバーグ氏は“次なるディズニー”となっていたのです。
するとスピルバーグ氏はすぐさま、自分の新しい製作会社アンブリン・エンターテインメントで、ゼメキス監督との企画を立ち上げたのでした。
「映画はすべて時間との戦いです」-作曲家 アラン・シルヴェストリ
はじめからゼメキス監督とゲイル氏は、充実したパートを備えた強力な脚本を持っていたのでした。
「ただ、もう本当にタイトだったのです」と、ゼメキス監督はライターのジェフリー・レスナー氏に話しています。
「すべての準備が整い、すべてが支払い済みで、すべてのセリフ、すべてのテンポ、すべてのカット、すべてのショットが、この映画はこうあるべきというカタチで進んでいきました。そしてこれが、プロットやキャラクター作りを後押しになっていったわけです。無意味なショットは1つもありませんでした」と語っています。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で音楽を手掛けたアラン・シルヴェストリ氏は、「映画はすべて時間との戦いです。それこそが原動力になっているのです。時間通りに行きたいところへ行けるとしても、この映画では決して時間を無駄にすることはできませんでした…」と、コメントしています。
いずれにしてもゼメキス監督は、自分の信じる方法で『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の監督したに違いありません。
本編全体を通して使われた特殊効果撮影は、30カ所程度に過ぎません。「ボブは、映画を引き立てることを決してやめない人間だ」と、ゲイル氏は言っています。
自動車とキャスティング問題
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の中で、最も重要で愛されていた要素の一つである「デロリアン」は、製作上の問題を解決するべくゼメキス監督が持ち込んだアイデアでした。
ドク・ブラウンがタイムチャンバーを発明した当初は、それをピックアップトラックの荷台に括りつけられていました。そのときゼメキス監督は、「これを、これからどうしていけばいいのだろう? これを動かしまわすのに、沢山の輸送手段が必要になる」と悩み始めました。
そしてついに、「これをクルマに設置して、モバイル(可動式)にしてしまえばいいんだ」というアイデアにたどり着いたのでした。
しかし製作が始まる前に、ユニバーサルスタジオのプロダクト・プレイスメント部門の誰かが、おせっかいをしました。
もしクルマをマスタングに変えたなら、「フォードは7万5千ドル支払うだろう」と、ゲイル氏に話を持ち掛けたのです。さてゲイル氏は、どう反応したのでしょう? 「ドク・ブラウンは、マスタングなんか乗るもんか!」と強く反論したようです。