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結婚を1期7年、最長2期14年の任期制に

一方で不倫は、対策としてはせいぜい間に合わせ程度にしかなりません。結婚においては微細な観察を一生、より正確には一生のつもりで積み重ねていく中で、死をも招きかねない辛辣な洞察がゆっくりと、ひそやかに蓄積されていきます。

こうして生じる腐敗に対して、私たちは不倫とは別の、もっと現代的な答えを必要としています。意外なことに共和党の急進派議員たちが、結婚の苦悩を解決する方法を見つけてくれたかもしれません。それは単純で、安易すぎるきらいさえあります。が、こういう表面的なやり方こそ今日の政治が求めるもので、その意味においては実践的なものです。結婚の負のスパイラルに対する彼らの答えは、国会が活発さを欠き反応が乏しくなったときに出す答えと同じです。つまり任期性、期限を設けることです。

生涯にわたる結婚の代わりに、男女は(どの組合せであれ、それぞれの性的指向に合った組み合わせで)7年間の結婚生活にサインアップします。その7年間が終わったとき、さらに7年間「再入隊」したいと思えば、そうすることができます。しかしその後は、結婚生活は終わりです。その後も一緒にいたいという人は、かつて「罪」と呼ばれたもの(事実婚)のうちで生きていけばいいのです。軽微な罰則が設けられるでしょう。このような法の軽視は、麻薬の吸引などと類似の軽犯罪として捉えられるかもしれません。

こうした罰則があると、当然不便になります。が、その一方で不正行為が急増したり、長期間の同棲に対する非難の兆しが出てきたり、各方面でかなり盛り上がるかもしれません。他にはっきりとした利益もあります。親の離婚で子どもにスティグマが押されることがなくなります。どの結婚も、平等に終わりを迎えることになります。離婚弁護士も不要になります。結婚50周年のパーティーに出席する必要もなくなります。

7年または14年の後、別の結婚に移ることもできますが、もっと制約の少ない形態に移ることもできるかもしれません。私の内なる元ヒッピーは、結婚の後にもっと高い次元へ進化できるはずだと言っています。昔の恋人たち、親友、子どもたち、野良猫に観葉植物。こうした存在すべてと共に暮らしていける取り決めがあったらどうでしょう。彼らがそろえば、家庭生活に心地よいリズムを生み出してくれます。結婚生活に人々が求めているのは、まさにこういったリズムなのです。他方で、一人の大人が正気でいられるようにするためには、有刺鉄線でできた境界線が必要で、そのための余地も確保しておかないといけませんが…。

しかし、私の内なる現実主義者は、洗ってない食器が好きだったり、フランク・シナトラが好きだったり、別の人間のそういう好みを我慢するなんて、物理的、経済的にその加害者と分かち難い関係にあるのでない限り、絶対に耐えられないと考えていました。

つまり、例え最後に残されるのが生き延びた者が抱く誇りだけなのだとしても、私たちはおそらく結婚から逃れられはしないのでしょう。「2人で嵐を乗り越えたのだ、相手自身のことも、彼が自分にしようとしてくれたことのすべても、大切だと今も思える」という、そういう誇りです。例え最後に残されるのが、私の友人が出した次のような結論であったとしても、やはり私たちは結婚と縁を切ることはできないでしょう。「私はこれ以上に幸せな状態というのをいまだ想像できない。ただ私は、自分がどれほど不幸になりうるのか? そのことを分かっていなかっただけなのだ」と。


支払うべき代価を知った後では、結婚したい人はいない

記憶はどんな解釈にも開かれていて、「誰とでも寝る女」のようです。私は近頃、3つのタイムゾーンで暮らしています。過去、現在、未来の3つです。結婚する前の自分を思い出すと、彼女の中に潜む悪魔が戻ってきて私を苦しめるのではないかと心配になります。未来について考えるのは、思いがけず頭に浮かんできたときだけなのですが、そのときに短剣の切っ先を当てられたようにヒヤリとしました。

レンタルしたスケート靴でふらふらと歩きながら、人混みの中に5歳になる娘の姿を探していると、テーブルに座っている男性が目に入りました。後ろから見ると、彼は少し夫に似ています。一瞬、甘い驚きに襲われましたが、すぐに今度はゾッとしました。これから先、夫が実際には家にいることを思い出せず、同じ失敗をするのでは…と、想像してしまいます。

末期疾患で残された時間が少ないということが、クメール・ルージュ(※)のように、年月という鈍色の塗料を消し去ってしまうことがあります。夫と私は交際1年目に戻り、2人が恋に落ちたすべての理由がそれはもう明らかで、フジツボのように貼りついて取れなかった不満や苛立ちが、それはもう完全なまでに取り払われた瞬間がありました。あまりにもその変化が顕著だったので、私は、結婚に対して怒りを覚えたほどです。結婚は、「誰がゴミを出すか」というヘドロみたいなものの中に愛を葬り去ります。結婚においては、毎日のルーティンがロマンスから座を奪い取ってしまうのです。

  • ※ カンボジア内線における共産勢力、武装組織の名、1968-1998活動。過激派ポル=ポトらが主導権を握るようになって以降の1975-1979年の間に150万人から200万人が殺される大虐殺があった。

とにかくただできるのならば、同じ男ともう一度結婚したいと思うのです。
 

しかし、ある日曜日の午後のことです。夫と私は娘とモノポリージュニアで遊んでいました。チェット・ベイカーのトランペットが部屋中に響き渡っています。独身時代、私はジャズが嫌いでしたが、今では私たちの結婚生活はこの音楽に浸されています。私が遂げた変化や私が知るようになったこと、憤激や優雅さ、日常の詩的な美しさ、私たちにはお互いがいるという慰め…。私たちの結婚はこうしたすべてに浸されているのです。

夫が私をどう救ったのか? 私が夫をどう救ったのか? 私には分かっています。この結婚をつくり上げるために失った幻の手足には、まだ痛みがあります。ですが、そのときには、喪失はこの結婚という取引の一部として対処可能なものに見えていました。結婚が引き出す勇気と優しさだけが、私には見えていました。ですが、その代償のことは見えませんでした。私たちにヒーローになる唯一のチャンスを与えてくれるのが、結婚だと私には思えたのです。その瞬間、ベイカーの演奏する曲がこのまま流れ続けてくれればと願っていたのでした…。

ヒーロー(英雄)になることを選ぶ人は、「支払うべき代価を知った後では、存在しない」と思います。私はもう2度と変えられたくないし、混ぜ合わされて滑らかにされたくないし、私の性格の尖った部分を削って、他の人用に作られた小さすぎる許容範囲に収まるようになんかしたくありません。

でも、昔の自分と今の自分を見たとき、今の自分がいる場所以外のどこにも行きたくないのです。例えこれは、「もうこの先、与えられることがないもののひとつだ」と私が知っているのだとしても…。あるいは、おそらくそれを知っているからこそ、「今の自分がいる場所以外のどこにも行きたくないのだ」と思うのです。そして、ベイカーのこの曲が流れている間は、私は、そう、まさにこの同じ男と、とにかくただ結婚できるのならば、もう一度結婚したいと思うのです。

〈了〉

Translation: Miyuki Hosoya
Edit: Keiichi Koyama